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書の巨人

「で、お前は書を誰から学んだ?」


(そう来たか……!)


 老人の単刀直入な問いに、玄功は内心の動揺を押し殺した。老人の眼光は、嘘を許さぬ鋭さで彼を射抜いている。


「あの書……あれは間違いなく右軍(王羲之)の骨格。なぜお前のような小童が、あれほどの筆致を知っておるのだ。誰に教わった!」


 部屋の空気が、老人の気迫でさらに一段重くなる。


「……クソ親父に習った」


「ほう、そのクソ親父とは、実の親か?」


「ああ、そうだ」


「どこぞの貴族の放蕩息子か、あるいは落ちぶれた名門の末なのか?」


「いや、違う」


「なら、お前の父は何者だ。どこの誰だ!」


 逃げ場のない追及。玄功はわずかに言葉を詰まらせた後、絞り出すように呟いた。


「……倭人わじんだ」


 老人の眉がピクリと跳ねた。


「倭人だと? ……でお前の親父は今、どこに潜んでいる」


「……」


「さっさと吐かぬか! 隠し通したところで、我が配下の手にかかれば一刻も経たずに割れるわ。素直にせい!」


「……東の市からさらに外れにある、貧民街だ」


「ふむ……。おい、誰か!」


 老人が一喝すると、襖の向こうで控えていた家人が、弾かれたように顔を出した。


雄烈ゆうれつをこれへ!」


「は、はい! ただいま!」


 間を置かず、玄功を捕らえたあの黒衣の武人が、音もなく書斎へ足を踏み入れた。


韓雄烈かんゆうれつ、これに」


「雄烈よ、今すぐに東市の外れの貧民街へ向かえ。そこに住まう倭人の男を、秘密裏に連れてまいれ。荒事にならぬよう、何人か手練れを同行させよ」


「御意!」


 武人が風のように去ると、老人は再び冷徹な視線を玄功に向けた。


「おい、このわっぱを適当な部屋に閉じ込めておけ。……腹は満たしてあるはずだ。親父が来るまで、己が仕業の重さを噛み締めておれ」


 再びあの若い家人が現れ、玄功の腕を掴む。引き立てられながら、玄功は背後に残る老人の異様なまでの「執着」を感じ、冷や汗を流していた。



*****


 閉じ込められてから数時間は経っただろうか。陽光が天辺を過ぎ、影がわずかに伸び始めた頃。


「だ、旦那様! 雄烈殿が戻ってきました」


「よし、通せ」


 荒々しい足音と共に、頭に粗末な布袋を被せられた男が、数人の武人に担ぎ込まれるようにして現れた。


てぇっつってんだろうが! いい加減にしやがれ、この野蛮人ども!」


 毒づく声は、まぎれもなく逸人のものだ。雄烈が無造作にその布を剥ぎ取ると、眩しさに目を細める逸人の姿が露わになった。


「……お前が、あの童の言う『クソ親父』か」


「あぁ? 誰のことだかさっぱり……」


 逸人が言いかけ、目の前に座る老人の放つ異様な覇気に息を呑む。老人は手元の机に置いてあった紙を、逸人の足元へスッと滑らせた。


「おい、倭人。今朝、お前の子が帝都の大通りに落書きをしよった。それがこれだ」


「……っ」


 先ほどまで威勢よく喚いていた逸人が、その紙を目にした瞬間、石像のように固まった。


「これは右軍(王羲之)の書。あ奴は、これをお前に習ったと言った。それは誠か?」


 逸人は老人の問いかけが耳に入らないかのように、じっとその紙を見つめ続けている。その眼には、恐怖とは異なる、深い困惑と諦念が混じっていた。


「どうなのだ、はっきりせぬか!」


 地鳴りのような一喝を受け、逸人はようやく重い口を開いた。


「……俺はあいつ、玄功に書なんて教えてねぇ。あいつに教えたのは、生きるためのわずかな学問だけだ」


「ほう、ならばこれは他人の仕業だと?」


「いや。もしこれを書いたのが誰かと問われれば……間違いなく玄功だろうさ」


「なぜそう断言できる」


 老人の細い目が、さらに鋭く逸人を射抜く。逸人は自嘲気味に鼻を鳴らした。


「あいつは、ただの子供じゃねぇんだ。……いや、もう少し正確に言えば、あいつの中には『別の何か』が棲んでやがる。俺はずっと、そんな気がしていた」


「……ふむ。では、あの童に辛く当たっているのは、その正体を恐れてのことか?」


 その言葉に、逸人は伏せていた顔をガッと跳ね上げた。


「馬鹿を言うんじゃねぇ! 俺はあいつの親父だ。あいつが何者だろうと、幸せになってもらいたい。……親なら、そう思うもんだろうが」


「ならばなぜ、あのような貧しい姿に身を落とさせている。貴様の身のこなし、到底ただの物乞いとは思えぬが?」


「それは……」


「なぜ言えぬ? 吐かねば、今すぐこの屋敷の地下でその爪を剥がすことにもなるぞ」


 老人の冷徹な脅しに、逸人は観念したように息を吐き出した。


「……俺が、追われる身だからだ」


 観念した逸人は、静かに、しかし覚悟を決めた声で、自らの忌まわしき身の上を語り始めた。


*****


今までの経緯を淡々と、しかし覚悟を持って話し終えた逸人。老人はその告白を、表情ひとつ変えずに聞き届けていた。


「……おい、あの童をこれへ」


 家人の手により、再び玄功が書斎へと連れ戻される。


「童。お前が書いた字は、これで相違ないな」


 老人が逸人の前に置かれた一枚の紙を指さした。玄功はそこに視線を落とし、心臓が跳ね上がるのを感じた。


(……なんだ、これは!? 俺の書いた字と、寸分も違わねえじゃねえか!)


 筆の入り、跳ね、掠れ、そしてあの無意識の「条幅の気脈」までもが、完璧にその小さな紙に凝縮されていた。玄功の狼狽をよそに、逸人が呆れたように声を出す。


「お前なぁ……とんだヘマしやがって。どうすんだよ、このザマは」


 逸人が縛られた両腕を軽く持ち上げてみせる。だが、今の玄功にはそれさえも目に入らなかった。ただ、目の前の「再現された自作」に目を奪われ、凍りついていた。


「童。お前はこの父から書を習ったとほざいたが、当の父は心当たりがないと言うぞ。これはどういうことだ?」


「……」


「何も言わぬか。……まぁ、よい。ならば……」


 老人が冷徹に宣告しようとした瞬間、玄功が弾かれたように顔を上げた。


「これ……あんたが書いたのか!」


「ん? そうだが」


「俺の書いた字を一瞬見ただけで、ここまで写せるのか! 壁の字から俺の筆の動きを全部読み取ったっていうのかよ!」


「当たり前だ。この程度は造作もない」


 老人は事も無げに言い放った。玄功の脳裏に、転生前の書道史の記憶が猛烈な勢いで蘇る。 一字を見ただけでその魂までをコピーし、完璧なルールを築き上げた怪物。そんなことが可能な人間は、歴史上にただ一人しかいない。


「お前……あんた、一体何者なんだ!」


 すると老人は初めてニヤリと口角を上げ、白く長い顎髭を撫でた。


「そういえば、まだ名乗っておらなんだな。わしは隋国の太常博士たいじょうはくし――欧陽詢おうようじゅんだ」


 その名が響いた瞬間、玄功は頭を殴られたような衝撃を受け、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。


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