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壁の落書き

 空の雲が紫色に染まり、地表がわずかに輪郭を現し始めた頃。玄功は昨夜のうちにっておいた墨の竹筒を取り出すと、筆にたっぷりと含ませた。


(……さて。ここは王道の王羲之だろうな)


 玄功の意識が、九歳の少年から「書家」へと切り替わる。彼は迷わず、壁のそばに放置されていた荷運び用の木箱を引き寄せた。その上に飛び乗り、さらに不安定な石積みの出っ張りに爪先をかける。小さな体で「条幅」の縦の空間を支配するには、こうして高さを稼ぐしかない。筆を構え、全身のバネを意識する。彼は一気呵成に筆を走らせた。


 太倉轍浅役人肥    天網雖疎不可機    街路無糧粒不落    不日官吏先飛


【国の倉庫へ向かう馬車の轍は中身が軽く浅いのに、役人の腹ばかりが肥え太っている。天の網は目が粗く見えるが、悪事を見逃すことは決してない。大通りには零れ落ちるはずの糧食一粒すら落ちてはいないが、遠からぬうちに汚職官吏たちの首が先に地面へ落ちることだろう】


「……あぁ、この感覚。久しぶりだ」


 展覧会に出品したのはいつだったか。静寂の中、筆が壁に摩擦する心地よい音だけが響く。一字一字は、王羲之の『集字聖教序』を写し取ったような完璧な造形。


(よし。……ついでに、こいつもだ)


 玄功はふと思いつき、その完璧な漢文の傍らに、もう一つの「武器」を添えた。


 東風こち吹かば にほひおこせよ 梅の花――


 流麗な曲線を描く、国風の仮名文字。平安の世で花開くはずの、和の美意識。満足げに数歩下がり、全体を見渡そうとしたその時だった。ドン、と何かに背中が当たる。


「――っ!?」


 振り返る隙もなかった。黒衣の武人が、まるで鋼の枷のような力で玄功の細い腕をねじり上げる。


「何するんだ、離せよ!」


 抗う術はない。子供の力など、鍛え上げられた武人の前では無に等しい。


「……捕らえました」


 武人が短く告げた先。薄闇の中から、一人の老人が静かに歩み寄ってきた。質素な服を纏っているが、その佇まいは街の誰とも違う。特にその眼――枯れ木のような痩身に似つかわしくない、魂を射抜くような鋭い眼光。  老人はもがく玄功には目もくれず、ただ、夜明けの光に浮かび上がる「壁の文字」を眉一つ動かすことなく凝視していた。


「ふむぅ……」


 老人の、地を這うような低い声が響いた。


わっぱ。帝都の壁を、その程度の文字で汚して、無罪で済むとは思っておらぬであろうな!」


 枯れた風体に似つかわしくない、地鳴りのような威厳。玄功は何も言い返せなかった。いや、その圧倒的な覇気にされ、声が喉に張り付いて出せなかったのだ。


「おい、お前たち。この文字を今すぐ消せ。壁に残るようなら、壁ごと削り取っても構わぬ!」


「ハッ!」


 数人の男たちが刀を抜き放ち、無慈悲に壁を削り始めた。


(あぁ……っ)


 乾いた音と共に、自分の作品が粉塵となって消えていく。玄功は激しい落胆と無力感に襲われた。すると――。


「お前にはたださねばならぬことが山ほどある。このまま我が役宅まで連行する。……連れてまいれ!」


 玄功は拘束されたまま、老人のめいにより、一路、長安の大通りを引き立てられることとなった。


*****


 辿り着いたのは、長安中心部。高官らの邸宅が軒を連ねる一角。連行されながら、玄功は次第にこの老人の底知れぬ素性を悟り始めていた。


(……とうとう、これで年貢の納め時か。次は、もっと真っ当な身分に転生したいもんだな……)


 意気消沈し、運命の刻を待つ受刑者のような心持ちで門をくぐる。


「到着したぞ」


 門が開くと、主の帰還を待っていた家人たちが一斉に膝をついた。


「遠路、お疲れさまでございます。旦那様、まずはお休みになられますか?」


 家を取り仕切る家宰かさいが恭しく問いかけると、老人は足を止めずに短く応じた。


「いや、まずこの童に粥を食わせてやれ。それから、我が書斎へ連れてまいれ」


「は? ……はぁ、承知いたしました。おい、お前! この小汚い子供に粥を与えてこい!」


 家宰はいぶかしげに顎を動かした。一番若い家人が、武人から玄功を引き取って厨房へと連れて行く。


(旦那様は何をお考えなのだ。あのような汚らわしい子供を、なぜ……)


 家宰が首を傾げる中、玄功は温かい粥を喉に流し込んだ。それが嵐の前の、最後の休息であることを予感しながら。


*****


 差し出された粥を一心不乱に頬張る玄功。その様子を、若い家人がどこか誇らしげに眺めている。


「うまいか? そうだろう、そうだろう。お前のような身分では一生拝めない代物だ、米の粥だからな。それはそうと、お前、一体どうしてこの家に連れてこられたんだ?」


 今生で初めて口にする白米の粥。その甘みが喉を通るたび、転生前の記憶にある「味覚」が鮮烈に蘇る。玄功には若い男の問いかけなど耳に入らなかった。ただ、五臓六腑に染み渡る粥の温かさだけが、今の彼のすべてだった。


「まぁ、いいや。とりあえず食い終わったら、ご主人様のところへ行くぞ」


 腹を満たし、わずかに人心地ついた玄功は、男に促されて広い屋敷の中を歩かされることとなった。


*****


「連れてまいりました」


「うむ、入れ」


 奥まった部屋から、あの老人の感情を削ぎ落とした声が響く。


「ほら、行くんだ」


 若い家人は、玄功の背中を無造作に押し出した。よろめきながら踏み込んだ先は、重厚な墨の香りに満ちた一室だった。


わっぱ、こっちへ来い」


 部屋を埋め尽くす書簡や拓本の山に圧倒され、玄功が呆然とあたりをきょろきょろしていると、老人の鋭い声が飛ぶ。


「馬鹿者、そんな遠くでは話にならぬ。もっと近くへ来い!」


 荒々しく手招きする老人。その眼光には、先ほどの怒りとは異なる、獲物を観察するような冷徹な知性が宿っている。玄功は抗うこともできず、導かれるように老人の沈座する机の前へと歩み寄った。



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