長安の落日
彼のその二十八年分の記憶と理性が、今の過酷な現実に毒づく。
「クソ、思ったよりも落ちてねーじゃねーか!」
玄功は悪態をつきながら、晩秋の長安の大通りを歩いていた。視線は常に足元に注がれている。
「おっ、あった!」
お目当てのものが見つからないまましばらく歩くと、視線の先にこんもりとした黄色い粒が無造作に転がっていた。彼は素早く――まるで獲物を狙う野良犬のように――見渡すと、矢継ぎ早に近寄り、その粒の塊を手で覆い隠した。
「よし、これは俺のもんだ」
一掴みの粟を懐の袋へそそくさと放り込む。彼が血眼になって行っていたのは「落ち穂拾い」。すなわち、輸送の荷駄から零れ落ちた穀物を集める、泥臭い食い扶持稼ぎであった。
「しかし、しけてんな……。もう秋も終わりだっていうのに、いつもならもっと落ちててもおかしくねえ」
懐の袋を手のひらで叩き、感触を確かめながら彼は考えた。
この時代の輸送技術は、現代のそれとは比較にならないほど粗末だ。穀物を詰めるのは目の粗い麻袋であり、それが荷車に揺られれば、当然小さな粟の粒などいくらでもこぼれ落ちる。
「やっぱり変だ……。あぁ、そういやあのクソ親父が言ってたな。去年からここの官吏が入れ替わったって」
玄功はふと、家で飲んだくれている育児放棄の虐待親父――逸人が零していた言葉を思い出し、苛立ちを覚えた。
「ちっ。そういうことか。前の奴は、まだ『適度に』中抜きする程度には真っ当だったってことか」
玄功は地面に唾を吐き捨て、鋭い眼光を大通りの端、太倉【国の管理する穀物庫】の巨大な門へと向けた。
「フッ、この恨み晴らさでおくべきか」
今日の彼は、すこぶる機嫌が悪い。無理もない、ここ数日の落ち穂拾いで得られた収穫は、例年の半分にも満たないのだ。このままでは、冬を越す前に親子揃って行き倒れるのは火を見るより明らかだった。
「これじゃあ今年の冬は越せねえ……。ったく、ここはいっちょ、クソ官吏どものケツを蹴ってやるか」
思案を固めた彼は、足早に馴染みの酒家へと向かった。
「よう坊主! あいにくだが今日は代筆の仕事はねえぞ」
店主の男が、厨房から親しげに声をかけてきた。
「いいよおっちゃん、今日は仕事をもらいに来たんじゃない。ちょっと頼み事があってさ」
「へぇ、頼み事だと? 親父のツケの先延ばしか?」
「違うって。……なあ、道具を貸してくれないか。硯と筆、それと少しばかりの墨をさ。どうしても書きたいものがあるんだ」
意外な申し出に店主は目を丸くしたが、玄功の真剣な――どこか凄みのある――視線に押され、顎で店の隅を指した。
「なんだ、そんなことか。いいぜ、そこにあるのを持っていきな」
「助かるよ、おっちゃん!」
「あん? 誰がおっちゃんだ! 俺はまだ嫁ももらってねえんだぞ。お兄ちゃんと呼べ、お兄ちゃんと!」
「あはは、そうだった。じゃあな、おっちゃん!」
軽口を背中で受け流し、玄功は店を出た。懐には、ずっしりと重い文房四宝を抱え、彼はそのまま、人通りの途絶えた大通りの白い壁へと、迷いのない歩みを進めた。
そうしてしばらく歩みを進めたのち、玄功は足を止め、壁をじっと見つめた。表面の滑らかさ、光の当たり具合、そして人目につく角度。
「……っと、ここらが良さそうだな」
玄功はあたりを見回し、そう呟いた。その瞳は、もはや無邪気な子供のそれではない。何か重大な「工作」を企てる者の、冷徹な計算が宿っていた。
「よし、とりあえずいったん退却だ。今夜の飯の支度にしねえとな」
彼は東へと向かい、歩き出した。背後には真っ赤な夕焼け。それに照らされた影は、まるで怪物が歩くかのように長く伸び、大通りを黒く染め上げていった。
*****
「親父、今帰ったぞ」
あばら家のような住居へ足を踏み入れると、目の前にはあのクソ親父が、地響きのような大いびきをかいて横たわっていた。
「また飲んでたのかよ……。一体どこにそんな金があるんだ? まあ、どうせツケで飲んできやがったんだろうが」
汚物を見るかのような一瞥をくれ、玄功は懐の粟を粗末な鍋に放り込んだ。外の井戸で洗い、小さな竈の上へ。一粒も無駄にせぬようじっくりと火を通せば、やがて粟特有のかすかな甘い香りが漂い始める。
「おっ、帰ってきたか。ん、いい匂いだ。どれどれ」
いつの間にか目を覚ましていた橘逸人が、木のさじを鍋へ無造作に差し込み、一口すすった。
「まあ、悪くない。お前、料理まで覚えたのか? さすがは俺の息子だ。優秀、優秀」
ガハハと笑い、大きな左手で雑に玄功の頭を撫でまわす。
「うっせえ、クソ親父。気軽に触んじゃねえ!」
「おっ、随分な言い草じゃねえか。子が親のために働くのは道理だろう? かの孔子先生も『孝』こそが徳の根本とおっしゃる。お前は今、親孝行という最高に幸せなことをしてるんだ。わっはっは!」
どこまでも身勝手な言い分。だが、玄功にとってはそれも日常の一部だった。
「子に迷惑をかけねえうちに、とっととくたばるのも善行だと俺は思うがね」
「ほう、言うようになったじゃねえか。なら、そのためにももっと酒を飲まねえとな!」
不毛な言い合いを肴に、粟の粥を啜る。ふと、玄功は暗がりに置いた懐の荷物に目をやった。
明日、日が昇る直前。街が動き出す一瞬の隙に、彼はこの手に馴染んだ「武器」を振るうことになる。 長安の夜は、静かに、そして重々しく更けていった。




