四晧の残響
翌朝、芝赫麗と名乗ったあの女性剣士は、盆に朝食を載せて小屋に現れた。
「これを飲め。貴重な霊芝を煎じた汁だ。傷の治りが早くなる」
「すまねぇ、助かる……」
阿成が弱々しくも感謝を述べる。赫麗は「ふん」と鼻を鳴らし、玄功の方を向いた。
「おほん! お前はこれだ。都会育ちの坊っちゃんには刺激が強すぎるかもしれないけどね」
差し出されたのは、真っ赤な唐辛子でこれでもかと味付けされた餅だった。
「……っ、かっ、辛い……!!」
一口齧った瞬間、玄功は飛び上がった。火を噴くような辛味に、慌てて手近な水を飲み干す。
「あはは! そんなに辛かったか。昨夜、私をからかった仕返しよ。……それより、白翁――我らの長がお前に会いたいと言っている。構わないか?」
一心不乱に汁物をすする阿成に代わり、玄功は真っ赤な顔をして舌を扇ぎながら答えた。
「ええ、もちろん……。こちらこそ、命の恩人に、ご挨拶を……。ひー、まだ辛い……」
「わかった。では後ほど迎えに来る。阿成はここで休ませておけ」
赫麗はどこか楽しげに、再び小屋を後にした。
*****
玄功は赫麗のしなやかな背中を追い、里の細い坂道を登っていった。
「着いたぞ」
彼女が足を止めた先には、小さな門を構えた風情ある家が佇んでいた。山中とは思えぬほど清浄な空気が漂っている。
「連れてまいりました」
「ほほ、参ったか。お通しせい」
家の奥から響いたのは、枯れているが芯の通った声だった。
部屋に入ると、そこには仙人のような白い髪と髭を蓄え、粗末な布衣を纏った老人が座っていた。
「ほほ、ようこそ。もう一人の怪我の具合はどうじゃ?」
「はい。浅手ではありませんが、こちらで手厚く養生させていただき、快方に向かっております」
「左様か。さて、そちらの少年。名はなんと申す」
「はい。私は、橘玄功と申します。長安で欧陽詢太常の書生を……しております」
現代人の癖でつい「俺」と言いそうになるのを、玄功は慌てて取り繕った。
「ほほ、言葉遣いなどは気にせんでよい。……して、なぜはるばる長安から、南へ下っておる」
「はい。師匠の書簡や尺牘を、江都へ届けるためです」
「……。嘘じゃな」
白く長い眉に隠れていた老人の目が、ぎらりと玄功を射抜いた。心臓が跳ねる。嘘を言ったつもりはなかった。だが、その背後にある「使命感」や、自分でも言語化できていない違和感を、老人は一瞬で見抜いたのだ。
「……」
「言えぬか。……ほほ、まぁよかろう。赫麗が助けたのも何かの縁じゃ」
老人はふっと視線を和らげ、茶を啜った。玄功は冷や汗を拭いながら問いかけた。
「……すみません。しかし、まさかこんな険しい山中に、これほど平穏な里があるとは思いませんでした」
「ほほ。我らは、古の『商山四晧』の流れを汲む一団でな。世俗の動乱を避け、ここで霊芝を採り、静かに生きてきたのじゃよ」
「商山四晧……?」
記憶にない単語が出て戸惑う玄功。
「商山四皓っていうのはね、大昔のすごい四人の隠者のことよ。あんた、書生なら当然知ってるでしょ」
赫麗が呆れたように横から口を挟む。だが玄功は、臆することなく淡々と答えた。
「いや、俺は史書にはあまり明るくないんだ。……俺の特技は、これだから」
そう言って、玄功は右手の二本指をスッと立てた。迷いのない軌跡で、空に文字を刻む。それはただの身振りではなく、目に見えぬ墨跡を残さんばかりの、鋭く、それでいて優美な指の運びだった。
白翁の白眉が、ぴくりと跳ねる。老人は、その指先が描く「気」の残像を追うように目を細めた。
「……ほう。指先で文字を斬るか。欧太常の弟子という言葉、どうやらそれは誠のようじゃな」
「歴史を学ぶより、今、この指が何を描けるかの方が、俺には大事なんだ」
玄功のその言葉は、生意気な子供の強がりというよりは、一つの道を究めんとする求道者の響きを持っていた。赫麗は「……変わった子」と小さく呟いて肩をすくめたが、その瞳には、先ほどまでの揶揄とは違う、奇妙な好奇心が灯っていた。
「ほほほ。面白いのう。指で語るか。……よかろう、橘玄功。その腕前、いずれ紙の上で見せてもらうとしよう。今はまず、その『特技』を大事にせよ。ここではそれが、お前の命を救うことになるやもしれんぞ」 白翁の予言めいた言葉が、囲炉裏の爆ぜる音と共に、静かな部屋に溶けていった。
*****
白翁の話を一通り聞き終えた玄功は、赫麗の案内で里を回った。
「こうしてみると、本当に普通の山里なんだけどなぁ……」
霊芝を干す匂い、薪を割る音。どこを見ても長閑な光景だ。
「あら、普通の山里よ。……今はね」
赫麗が不敵に笑う。その視線の先では、数人の男たちが目にも止まらぬ速さで得物を交わし、武術の修行に励んでいた。
「あぁ、驚いた? 私たちは武侠なんだから当然よ! 弱きを助け、悪を挫く。私はそのために剣術を学んだんだから!」
隠密として人を殺める凄みとは対照的な、晴れ晴れしい程の笑顔。玄功はふと、彼女の素顔が気になった。
「……赫麗って、何歳なんだ?」
「あっ、私? 二十歳を少し過ぎたところよ」
「エッ!」
思わず声が裏返った。長安で見てきた二十歳の女性といえば、もっとしとやかで、既に数人の子の母となっている者も多い。この生命力に溢れた女性が、自分とさほど変わらぬ年齢だということに驚愕したのだ。
パシッ! 乾いた音が響き、玄功の頭に赫麗の張手が飛んだ。
「痛ってぇーーー!!」
「何よ、その『エッ』ていうのは! 随分な失礼じゃないの!」
「いや、別に老けてるとか言いたいわけじゃなくて……」
「じゃあどういう意味よ! はっきり言いなさいよ!」
里の散策は、一転して必死の弁明行脚となった。
「都会の男はこれだから……。言葉だけは達者なくせに、女心はこれっぽっちも分かってないんだから!」
赫麗が頬を膨らませて早足になる。玄功はその後ろを「待ってくれよ」と追いかけ、平謝りを繰り返す。
ようやく赫麗の機嫌が直り、阿成の待つ小屋へと戻る頃には、玄功の体力は山道を歩いた時以上に削り取られていた。
「おかえり。……なんだ玄功、また頬を赤くして。今度は何を口走ったんだ?」
寝床で阿成がニヤニヤと笑っている。
「……うるさいよ。餅の次は、手が飛んできただけだ」
「ははは! お前、この里に来てから筆より顔を動かしてるなぁ」
阿成の笑い声に、玄功はため息をつきながらも、自分の頬をそっとなでるのだった。




