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険しい道中

 初めての野宿を経て、玄功と阿成は再び険路へと足を踏み入れた。草鞋わらじには、足のマメが裂けたのであろう、痛々しく血がにじんでいる。

 山間にへばりつくような小さな集落「牧護ぼくご」でようやく一息ついた二人は、翌朝、無理を承知で早朝から歩を進めた。軍事上の要衝である「上洛じょうらく」まで辿り着かねば、この先の安全は保障されないからだ。痛む足を庇いながら必死に歩き続け、夕闇が迫る頃、ようやく上洛の堅牢な門を仰ぎ見ることができた。

 案の定、過所を改める兵士は例の過所を見るや否や態度を豹変させ、道を開けた。二人はようやく、張り詰めていた緊張の糸を解いた。


「ようやく上洛か……。ここなら屋根の下で眠れるな」


「はぁ……もう、足が棒だぜ……」


「そうか? 昨晩はあれだけ大いびきをかいて寝ておきながら」


「……ん? そうだったか? 分からねえな、ははは!」


 阿成の屈託のない笑いに、玄功も自然と口角が上がる。二人は街道沿いの安宿へと滑り込んだ。


 翌朝。まだ泥のように眠る阿成を部屋に残し、玄功は一人、瞼をこすりながら一階の食堂へと降りた。朝粥を啜る客の中に、旅慣れた風の男二人がいた。その会話が、ふと玄功の耳を打つ。


「お前、例の『堕涙碑だるいひ』は見に行ったか?」


「何を。あの羊祜ようこ様の碑か。襄陽じょうよう峴山けんざんまで?」


「ああ。文人たるもの、あの碑を仰がずには死ねまいよ」


「無理を言うな。あそこは今、洛陽攻めの軍勢でごった返している。死ににいくようなものだ」


「……全くだ。とっとと戦が終わらねば、名碑を拝むことも叶わん」


(堕涙碑……!)


 玄功の匙が止まる。晋の武将・羊祜の遺徳を偲び、見る者が皆涙したという伝説の碑。歴史の教科書や書論には必ず登場する名だが、前世の記憶を辿っても、その「筆跡」を思い出せない。


(そうだ……あれは歴史の波に消え、後世には伝わらなかった幻の碑文だ)


 実在はするが、目にする機会は永久に失われたはずの遺産。それが今、この時代のどこかに「現物」として鎮座している。玄功は粟粥を胃袋に流し込みながら、現代人には決して味わえぬであろう熱い昂ぶりを、必死に抑えていた。


 この日は必要な物資の買い込みや、これより先の行程について武関からきた旅人らに聞いたりして時を過ごした。


「今日から二日は野宿だが、丹鳳たんぽうまでは平坦な道だ、お前は驢馬にでも乗っていけ」


 一頭の驢馬に乗せた荷物の一部を自ら背負う阿成。


「大丈夫だよ、このくらい……」


「無理するなって。お前はまだ小さいんだから!」


「ガキ扱いすんなよ!」


「ガキだろ……お前」


「……」


 言い返したいが反論の余地はない。仕方がなく言われる通り驢馬の背に乗り、ポコポコと体を揺らされる。玄功は長閑な真夏の風を久々に感じることができた。


 丹鳳を経て再び悪路を往き、二度目の野宿を終えた頃、ようやく二人は武関へと到着した。見上げるような石積みの城壁、その上にそびえる堅牢な楼。それは長安の優雅な城壁とは違い、剥き出しの殺気を放つ「戦の牙城」だった。


「……次だ。過所を見せよ」


 阿成は、これまでの成功体験からどこか余裕を持って過所を差し出した。ところが、兵士の反応はこれまでのものとは一線を画していた。


「長安からだと……? おい、こいつらの荷を改めよ!」


「待て、その過所を読めば分かるだろ! 欧陽詢先生の……」


「黙れ! 上からは長安を出る者の身元を徹底的に洗えと厳命が出ているのだ。おい、校尉こういを呼んでこい!」


 殺気立った空気に、阿成の顔から血の気が引く。やがて、重厚な鎧を鳴らし、一人の武人が近づいてきた。


「貴殿らか。欧太常おうたいじょうの書生とやらは」


「はい……わたくしが、書生の玄功と申します」


「欧家の家人、阿成です……はい」


 校尉の眼光は鋭く、二人の体つきから手足の運びまで、舐めまわすように検分する。


「……体格は武人ではないな。だが、間者かんじゃの疑いは晴れぬ。よし、お前」


 校尉は部下に命じ、文官の机に筆と硯を用意させた。


「お前がその高名な欧殿の弟子であるならば、相応の腕を持っているはずだ。今ここで、その証しを立ててみせよ」


 逃げ場はない。玄功は静かに呼吸を整え、机に向かった。


「……承知いたしました。校尉様、何を書きましょうか」


「季節は夏だ。夏に相応しい詩を、一首書いてみろ」


(夏か……、これならバレないだろう)


 玄功は墨を摺り、一点の迷いもなく筆を走らせた。書いたのは、前世でも好んで何度も書作した高駢こうべんの詩。本来なら数百年後に生まれるはずの詩だが、今の玄功には関係ない。


『緑樹陰濃夏日長 楼台倒影入池塘(緑樹は陰濃くして夏日長く、楼台の倒影は池塘に入る)』


 一気呵成に書き上げた行書は、欧陽詢の持つ厳格さに、若々しい鋭さが混じった見事なものだった。


「……おぉ、すげえ」


 阿成が思わず嘆声を漏らす。校尉は書き終えられた紙を手に取り、まじまじと見つめた。


「……誰の書風だ、これは」


「師、欧陽詢の行書を模し、私なりの解釈を加えました」


「なるほど……。本物の手筋だ」


「……校尉様は、師匠の書をご存じなのですか?」


「ああ。かつて江都での祭典の折、欧殿の直筆を拝見したことがある。その峻烈な運筆……確かに、その片鱗を感じる。偽物にはこれほどの気迫は込められまい」


 校尉は紙を置き、兵士たちに手で合図を送った。


「通してやれ。……だがこれより先、街道は賊徒や反乱軍で荒れている。せいぜい命を大事にするがいい」


 *****


 関所を抜け、背後の城門が重く閉ざされる。阿成がたまらず声を上げた。


「よかったなぁ~! まさか本当に書いて通れるなんて。お前、やっぱり凄えよ!」


「ふふ、もっと褒めてくれてもいいんだぜ、大哥」


「調子に乗んなってんだよ!」


 互いに笑い合う二人。だが、玄功の胸には校尉の言葉が重く残っていた。これより先は、もはや国の法すら届かぬ、真の乱世。第一の境目さかいめは越えた。だが、その先に待ち受ける「境目」は、筆一本で越えられるほど甘くはないだろう。


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