2-7: 最速と呼ばれた魔術師
思考加速領域 ――白の世界
魔族討伐の、ほんの少し前。
ノックスは《シグルアクセル》を起動していた。
世界が、壊れた。
否――
引き延ばされた。
音が消え、色が剥がれ、
時間という概念だけが、極端に薄まる。
そこは真っ白な空間だった。
上下も、前後も、距離もない。
ただ――光だけが、遠くに存在している。
(……ここは)
考えた瞬間、
思考そのものが、さらに加速する。
一歩、足を踏み出す。
床の感触はない。
だが、確かに「歩いている」という感覚だけがある。
どれだけ歩いたのか、分からない。
一分かもしれない。
一日かもしれない。
あるいは、一年――いや、もっとか。
無限に歩いたような錯覚だけが、脳裏に積み重なっていく。
(……戻らないと)
王都。
アストラム魔導学院。
魔族の進軍。
思考は焦っているのに、時間は進まない。
ただ、光だけが近づいてくる。
そして――
その光に触れた瞬間。
世界が、落ちた。
ざくり、と足裏に土の感触が戻る。
湿った空気。
木々のざわめき。
鳥の鳴き声。
「……森?」
ノックスは、周囲を見回した。
そこにいたのは――
やたらとキョロキョロしながら、右へ左へと歩き回る一人の青年。
明らかに、迷っている。
「あの……どうかされました?」
声をかけられ、ノックスは思わず答えた。
「ここに……魔族はいないよね?」
青年は、きょとんとする。
「魔族? いえ……特に異常はないですけど」
「ついさっきまで、魔族と戦ってたんだ。 すぐ戻らないと、学院が危ない」
「学院……?」
青年は首を傾げた。
「どこから来たんですか?」
「王都の、アストラム魔導学院だ。 魔族の大規模侵攻、聞いてない?」
青年は、はっきりと首を横に振る。
「いえ。王都で戦闘があったなんて、噂も聞いてません」
ノックスは、言葉を失う。
「……そうか。どういうことなんだろう」
青年は、少し考えてから、にこっと笑った。
「俺、ユートって言います。 あなたは?」
「ラピダス・ノックスです。 ……よろしく」
ノックスは、反射的に右手を差し出した。
ユートも、同じように右手を伸ばす。
――すりっ。
音もなく、
指先が、すり抜けた。
「あれ?」
「あれ?」
二人は同時に、手を見つめる。
「えっ!?」 「えっ!?」
一拍。
「ど、どういうことですか!?」 「いや、僕が聞きたい!」
「まだ真っ昼間ですよ!? 足ついてますし!幽霊じゃないですよね!?」
「いえいえ、勝手に殺さないでください!」
ノックスは、青ざめながら呟く。
「……いや、でも。 本体が死んで……思考だけがここに来てるなら……」
「ありえなくも……ないですけど……」
ユートは一度、深呼吸した。
「じゃあ、一旦。 “死んでない前提”で話しましょう」
「賛成です」
二人は、妙な連帯感で頷き合う。
「で……ここは、フェルミナ村って言うんですが」
ユートが言った瞬間。
ノックスの表情が変わった。
「フェルミナ村?」
「はい」
「……師匠がいた村です」
「え?」
「ローデ亭のベルトンさんと、 ミリアちゃんって娘さんにお世話になったって」
ユートが固まる。
「……そんな話、ミリアさんから聞いたことないですけど」
「え? 12歳の娘さんが、って……」
「……ミリアさん、俺と同じ年くらいですよ?」
沈黙。
「……」
「……」
ユートが、恐る恐る言った。
「……もしかして、過去から来ました?」
ノックスは、ゆっくりと頷いた。
「……かもしれない」
そして、ふと思い出したように言う。
「これ……僕の形見みたいなものなんですが」
ノックスは、
半透明の手紙を取り出した。
光を透かす、不自然な紙。
> ノックスへ
どうやら、俺はここまでのようだ。
内部式理論を書き残す。
君に幸あらんことを。
――冴島 大輔
ユートは、目を見開いた。
「……冴島大輔?」
「はい。僕の……職場の先輩です」
「……え?」
「しかも……10年くらい前に、ここに来てる……?」
二人は、同時に息を呑んだ。
時間。
速度。
思考。
――そして、師匠の足跡。
ノックスは、確信する。
(これは……偶然じゃない)
《シグルアクセル》が、
思考を加速させすぎた結果、
時間そのものを踏み越えた。
(……戻れるのか?)
戻らなければ、学院が危ない。
だが――
ここには、
まだ知らない“速度の理由”が眠っている。
ユートは、苦笑しながら言った。
「……とりあえず、座って話しません? 頭が追いつかないので」
ノックスも、苦く笑った。
「同感です」
森の中で、
二人の“速度に関わる人間”が、
最初の交差を果たした瞬間だった。




