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空渡りの手紙  作者: 白瀬 柊


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4話 浮遊都市の決断

深い青の夜が明け、リリカント都市は再び朝の光に包まれた。しかし、その朝の静寂は、いつもとはわずかに異なっていた。


カイルは、配達を終えて帰宅する途中、微かな違和感を覚えた。浮遊盤を支える西の魔導炉塔の近くを通りかかったとき、彼の足元の石畳に、一瞬だがはっきりと、**微かな「揺れ」が走ったのだ。それは、地面の振動というより、空気を伝わる「魔力の脈動」**のようなもので、住人たちは誰も気づいていない。


カイルは反射的に立ち止まり、西の魔導炉塔を見上げた。

「今の揺れは……昨夜の、中継所での魔力暴走の余波か?」


彼の脳裏には、昨夜手に収めた「風の盟約の鍵」の冷たい感触が蘇っていた。あの鍵が、街の魔力システムに予想以上の影響を与えてしまったのかもしれない。


彼は慌てて、自宅のバルコニーから西側の景色を見渡した。魔導炉の塔から伸びる排熱路周辺には、いつもは見かけない制服姿の職員たちが慌ただしく動き回っている。

「やはり、何か異変が起きている……」


彼の右肩に、虹色のリリバードがひらりと舞い降りた。リリバードはいつになく落ち着かない様子で、小さな嘴でカイルの頬をトントンと叩き、早くどこかへ行くように促している。


カイルは昨夜以来、この鍵をどう扱うべきか迷っていた。街の管理者である魔導炉管理局に渡すべきか、それとも師匠の残した謎を解くために自ら核心へと向かうべきか。鍵を握りしめ、カイルは一つの決断を下した。

「リリバード、師匠の部屋へ行こう。鍵の正体を知る手がかりは、あそこにあるはずだ」


彼は真紅のマントを翻し、師匠が住んでいた古い住居へと滑空した。


師匠の住居は、カイルが今も管理しているが、彼の自室には入らないようにしていた。それは、師匠という偉大な郵便屋への畏敬の念からだった。


重い扉を開け、カイルは部屋へと足を踏み入れた。


部屋の中は、師匠の個性が凝縮された空間だった。使い込まれた大きな魔術机の上には、研究途中の崩れた魔法陣の跡、煤けたガラスの瓶、そして魔力の反応を確かめるために使ったのだろう、焼け焦げた試験紙が散乱している。これらが、師匠が単なる郵便屋ではなく、「盟約」の研究者でもあったことを物語っている。


カイルは、机の上の埃を払うと、そこに置かれていた古びたノートに目をやった。それは、昨夜カイルを導いた「風の盟約」のノートとは別の、師匠の個人的な研究記録のようだった。


そのノートの上に、リリバードが静かに降り立ち、羽根を輝かせながら、一箇所のページを嘴で激しく突き始めた。


カイルはそっとそのページを開いた。そこには、師匠の癖のある筆跡で、震えるような文字が記されていた。


「影の導き」の研究。リリカント創設期に存在したという虹色の精霊は、鍵と文書によってのみ顕現し、特定の者へ道を示す。だが、これはただの「導き」に過ぎない。


『第五の盟約は「無の契約者」を必要とする。感情でも、強力な魔力でも、生まれ持った能力でもなく、「選択」によってのみ契約は成立し、真の道が開かれる』


カイルはその一文を読んで、全身に電流が走ったような感覚を覚えた。

「選択……」


そうだ、昨夜、鍵に触れるかどうかは、誰にも強制されていない**「カイル自身の選択」**だった。彼は、街の浮遊バランスを崩すかもしれないという恐怖と、師匠の謎を解きたいという探求心の間で迷いながら、最終的に鍵に手を伸ばした。


選ばれたのではない。鍵に「触れた」のは、カイルの自由な意思だった。


師匠の意図は、カイルに、感情に流されるだけの郵便屋ではなく、街の**「盟約の管理者」としての責任と、「選択の重さ」**を教えることにあったのだ。感情の魔力とは全く異なる、「契約」という名の冷静な力が必要だと。


カイルは強く拳を握りしめた。

「師匠……あなたは、僕に何を託したかったんだ?」


その時、師匠の部屋の扉が、外から強く叩かれた。

「郵便屋カイル! 開けなさい! 魔導炉管理局の調査だ!」


威圧的な声と共に、重い扉が勢いよく開け放たれた。入ってきたのは、魔導炉管理局の制服に身を包んだ二人の調査員だ。彼らの顔には、朝の微かな揺れによる緊迫感が色濃く表れている。


「やはり君だったか、カイル」


主任調査員らしき男が、鋭い目つきでカイルに詰め寄った。

「昨夜、西端の中継所に立ち入ったな。書類の配達ルートを照合したが、君の担当区域ではありえない場所だ。しかも、監視カメラの映像で、君が中継所から何かを**『持ち去る』**のを確認している」


カイルは息を飲んだ。彼はすぐに状況を理解した。街の揺れと中継所の異常。調査員たちは、カイルが持ち去った「鍵」こそが原因だと確信しているのだ。


「書類の配達ルートの矛盾は認めます」


カイルは鞄から、昨夜リリバードが導いた**『魔導炉の温度報告書』を取り出して見せた。

「ですが、僕はただの書類配達人です。この報告書が僕を、中継所に『導いた』**。僕の師匠が残した手がかりに従ったまでです」


主任調査員は鼻で笑った。

「感情ゼロの事務的な報告書が、お前のような感情の魔法使いを導く? 言い訳はよせ。お前は、街の浮遊バランスを崩す危険な物体――中継所が厳重に封印していた『盟約の鍵』を盗み出した。今すぐそれを我々に渡せ」


男は手を差し出し、カイルに鍵を預かろうと迫る。


カイルの内面で、激しい葛藤が渦巻いた。


鍵を渡せば、街の安全は守られるかもしれない。

だが、もし師匠が、この鍵を彼に託した理由が、管理局の人間には理解できない、街の創設に関わる重大な秘密にあるとしたら?


ここで鍵を渡せば、「第五の盟約」の道は永遠に途絶え、師匠の意図は闇に葬られてしまう。


カイルは、ポケットの中の冷たい鍵を握りしめた。鍵の冷たさが、彼の感情的な動揺を打ち消し、冷静な「選択」を促す。


彼は、師匠の残した研究ノートの言葉を思い出した。「選択によってのみ契約は成立する」

「お断りします」


カイルははっきりと言った。

「僕がこの鍵に触れたのは、僕の意思だ。そして、僕自身の責任で、この鍵の真実を追究します。あなた方では、師匠の残した真の**『盟約の意味』**を理解することはできません」


カイル、自ら“排熱路の奥”へ


カイルの拒絶に、主任調査員の顔が怒りで歪んだ。

「貴様、街の秩序を乱す気か! 職務放棄だ!」


調査員がカイルに手を伸ばしたその瞬間、リリバードがカイルの頭上を激しく飛び回り、甲高い警戒の鳴き声を上げた。虹色の羽根が強い光を放ち、リリバードが作り出す風が、調査員の目を眩ませる。


カイルはその隙を見逃さなかった。彼は真紅のマントに魔力を流し込み、部屋の窓を突き破って飛び出した。

「追え!」


主任調査員の怒鳴り声が後ろから響く。カイルは、リリカント都市の空中を、全力で滑空した。


リリバードはカイルの前方を飛び、時には急降下して追いすがる調査員たちの進路を攪乱する。リリバードの導きによって、カイルは風の流れを読み、建物の陰や狭い路地を縫うように逃走した。それは、まさに街中での軽い空中カーチェイスだった。


夕暮れが迫り、空が茜色に染まる頃、カイルは街の東端にある、使われなくなった古い風車塔のバルコニーに降り立った。彼の肩で、リリバードが疲れたように小さく鳴いた。

「ありがとう、リリバード。君がいなければ、鍵は取り上げられていた」


カイルは、魔導炉管理局の圧力と、自分の選択の重さに、深く息を吐いた。

「鍵を渡せば、僕はただの郵便屋に戻れたかもしれない。だが、それでは師匠が僕に残した『盟約の道』が途切れてしまう」


彼は胸のポケットから、冷たい石の鍵を取り出した。

「師匠が僕に、この鍵と『盟約』を託したのは、僕が感情に流されやすい人間だと知っていたからだ。だからこそ、感情任せではなく、**『選択』**という名の冷静な力で、街の運命に関われと示してくれたんだ」


カイルは、リリカントの街の創世記から続く「盟約」に、自分の意思で踏み込むことを決意した。配達の道は、もはや誰かの心の手紙を運ぶだけではない。この街の、根幹の秘密と、その運命を運ぶ道になったのだ。


彼は強く鍵を握りしめ、西の魔導炉塔の方角を見据えた。

「師匠がくれた道は、誰かに守られるためじゃなく、僕が自分の足で歩くためにあったんだ」


カイルが決意を新たにした、その瞬間。


遥か西の魔導炉塔の底部から、これまでとは比較にならない、巨大な魔力の脈動が街全体に響き渡った。

ドォォォン……!


その瞬間、リリカント都市の浮遊盤全体に、わずかだが、住人全員が気づくほどのはっきりとした揺れが走った。空気が振動し、周囲の建物からガラスが割れるような音が微かに聞こえる。


カイルのいる風車塔にも、不穏な震動が伝わってきた。

「これは……!」


彼の鼻腔を、金属が極度に熱せられたような、強い焦げた匂いが襲った。魔導炉の異常な熱が、排熱路から漏れ出しているのだ。


カイルの肩にいたリリバードは、恐怖に羽を逆立て、カイルのマントの襟元に隠れるように震えた。精霊のこの反応は、魔力の危機が極限に達していることを示している。


カイルは、ポケットの中の「風の盟約の鍵」を強く握りしめた。鍵は、まるでカイルの決意に応えるかのように、わずかに暖かな光を放っている。


彼は、魔導炉塔の排熱路、その奥の扉を目指し、マントを広げた。

「排熱路の奥の扉……師匠。僕が、あなたが見つけた真実を、今、この鍵で開ける」


カイルの顔に、配達人の笑顔はなかった。あるのは、街の運命を背負う者としての、固い決意だけだ。

「……急がないと。これ、街が落ちる前兆かもしれない!」


――彼の「普通じゃない一日」は終わりを告げ、しかし今、**「盟約の管理者」**としての新たな旅が、静かに、確実に動き出した。


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