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空渡りの手紙  作者: 白瀬 柊


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第1話 風を追う少年

空がどこまでも広がる朝。その静けさを破るかのように、カイルは郵便屋の鞄を肩にかけ、街の石畳の小道を勢いよく駆け抜けていた。靴裏と石が擦れる音が、彼のリズムを刻む。「今日も風がいい感じだな」彼の背中を這い上がり、真紅のマントを撫でるのは、まだ柔らかい春の風だ。リリカントの街は、空に浮かぶ無数の塔や橋が雲の合間を縫うように連なり、その中に、石造りの小さな家々が宝石のように瞬いている。


カイルは立ち止まり、鞄に詰めた手紙を一枚取り出した。この街の郵便屋の仕事は、単に荷物を運ぶことではない。彼らが届ける手紙や小包には、必ず小さな魔法が仕込まれる。これは、古くから伝わる「風の盟約」の神聖な決まりだ。カイルは、指先から流れ出る温かい光を紙に注ぎ込む。「この魔力が、受け取った人が、ほんの少しでも、心が晴れるような笑顔になりますように」彼の魔法の源は、いつだってその純粋な願いにある。


最初の配達先は、街の知の象徴、アカデミアの塔。地表から見上げるには高すぎる、孤独な老猫好きの研究者が待っている。カイルは小道を離れ、鞄を肩から下ろす。両手を広げ、空中へ語りかける。


「頼むぞ、ぼくの鞄くん! 今日も一発で、最高の滑空を見せてくれ!」


小声の呪文と共に、カイルが意図的に強く魔力を込めると、鞄はわずかに唸りを上げ、意志を持った生き物のように勢いよく浮き上がる。それが彼の背中を力強く押し、カイルは空へと飛び出した。空の上は清々しい。塔や橋は朝の光を浴びて、眩い金色に輝いている。ふと眼下に視線を落とすと、通りに面した家々の子供たちが、空飛ぶ郵便屋を見つけ、小さな手を振っているのが見えた。カイルもマントを大きく広げ、笑顔で手を振り返す。彼の飛行は、街の子供たちにとっては、朝一番の楽しみなのだ。


ところが、目的地である塔の頂上付近に差し掛かったその瞬間、空の空気が一変した。街の浮遊を司る魔導炉の排熱が、予測不能な風の渦を生んだのだ。


空気が凍りつくようだ。


「うわっ!」突如、小さな竜巻が、怒れる獣のようにカイルの進路を塞いだ。


鞄は激しく左右に振り回され、その革の口が派手に開いた。次の瞬間、最も重要な数通の手紙が、抵抗むなしく竜巻の暗い核へと吸い込まれ始めた! カイルの心臓が警鐘を鳴らす。「待て!それはまだ届けるものじゃない!」


カイルは叫び、風の渦の中心、最も危険な領域へ身を乗り出した。彼はマントを文字通り翼のように広げ、逆流する風の壁に必死に抗う。腕を伸ばし、指先で辛うじて手紙の端を掴む。紙は風の力で、彼の指の骨がきしむほど引っ張られ、破れんばかりに振動した。竜巻の目は、深く緑色に光り、まるでカイルを試しているようだ。カイルは、持てる全ての集中力で周囲の風の流れを瞬時に解析し、一瞬の隙を突いて手紙を抱え込んだ。


全身から汗が噴き出し、息を吐き出す音さえ、風にかき消された。


「ふう……まったく、危なかった。あと数秒遅れていたら、大事な手紙が風の塵になるところだった」


何とか竜巻を抜けたカイルは、乱れた髪を掻き上げ、塔の頂上へと向かった。ドアをノックすると、年老いた学者が、いつも通り無表情に顔を出した。カイルは無事な手紙を手渡す。学者が慎重に封を切ると、カイルが仕込んだ花の香りの魔法が、古びた書斎の空気に染み込んでいった。


学者は手紙を胸に抱き、深く、長く吸い込んだ。その表情が、一瞬、遠い過去を呼び覚ますように和らいだ。「ああ、この香り。私が若い頃、塔に来る前に庭で育てていた、もう忘れていた花だ。まるで、あの頃の庭の空気を吸ったようだ」老学者の目尻が震え、微かな涙の跡が確認できた。カイルは胸の奥で温かさを感じ、魔法の効力を確信した。「いえ、おまじない程度の魔力です」と、いつものように照れて、彼は次の配達へと飛び立った。その魔法は、学者の「置き去りにされた記憶」を掘り起こしたのだ。


次の配達先は、遥かな海を越えた港町テラフィオーレ。海の上空は、リリカントとは違い、潮の匂いと自由な風に満ちている。「さて、行くか」カイルは海面を滑るように飛ぶ。眼下に広がる紺碧の海原は、彼に無限の活力を与えてくれる。


老船長への手紙は、遠く離れた孫からのものだ。カイルは、この手紙に高度な「記憶の残像」の魔法を仕込んだ。この魔法は、受け手の精神に直接作用するため、あまり長く持続させると、逆に記憶が歪むという制約がある。そのため、カイルは極めて短い時間で正確に発動させなければならない。


海の上空で、カイルの周りを鳥型の精霊、リリバードが追いかけてきた。魔法の匂いに惹かれるのだ。


妙に落ち着かない。


「やれやれ、今日はやけに元気だな」カイルは注意を払ったが、一羽だけ、異様に大きく、虹色の羽根を持つリリバードが、異常な速さで鞄の特定の一角を狙っていることに気づいた。そのリリバードは、他の精霊とは違い、まるで明確な意志を持っているかのようだ。


「ねえ、君。その鞄の中身、そんなに気になるの?」と、カイルはリリバードに小さくつぶやく。虹色の精霊は、まるで返事をするかのように、一段と強く翼を羽ばたかせた。カイルは、この精霊から鞄を守るため、集中した魔力で進路を大きく変えることを余儀なくされた。その急な回避行動のせいで、彼は予定よりも遠回りな海路を飛び、腕に疲労を感じ始めた。


港町テラフィオーレに到着すると、漁船が並ぶ船着き場の近くで、潮風に焼けた顔の老船長が待っていた。その隣には、船長のことが大好きな、毛並みの良い大きな港猫が座って、静かに船長を見つめている。この猫は、船長が長い航海から戻るのをいつもここで待っているのだ。


船長は手紙を受け取り、その封を切る。カイルの魔法が発動し、光の粒が集まり、幼い孫の、太陽のような笑顔がふわりと浮かび上がった。船長は、その映像をゴツゴツとした漁師の手でそっと触れようとし、あまりの切実さに、その場に立ち尽くした。「孫の笑顔か……」船長の声は、波の音のように深く、低く震えていた。「この目で見ると、こんなにも…心に響くものだったか。」老船長は目頭を押さえ、「ありがとう、郵便屋。君のその心意気に、海神の加護があらんことを」と、深く感謝を伝えた。カイルは、自分の魔法が海を越え、孫の変わらぬ情熱を届けたことを誇らしく思った。


カイルがリリカントへ戻る途中、彼は街の東にある、古い風車塔の屋根の上に腰を下ろした。そこは師匠の住居跡であり、彼の魔法の原点だ。師匠が残した「風の盟約」の石板が、夕闇の中に薄く浮かび上がっている。


カイルは、リュックから最後の配達先の手紙を取り出した。街の市場で働く少女から、病気の母親への手紙だ。カイルは指先を震わせながら、手紙に、母親が幼い頃に歌ってくれた子守歌の「旋律」を魔法で注ぎ込んだ。師匠なら、これを感情的すぎて「品位を欠く」と言っただろう。しかし、カイルは知っている。人々の心にある言葉にならない叫びは、ただの穏やかな魔法だけでは届かない。この感情に訴えかける魔法こそが、少女の切実な願い、「母親への安らぎ」を届けるための最良の手段だと信じて。


夜が深まり、鞄を片付け、屋根の上から街の灯りを見下ろす。空は星でいっぱいだ。風がそよぐ。カイルは、師匠の教えを胸に、今日もまた自分の信じる魔法を届ける。


「明日も、手紙を届けよう。一つ一つの手紙に、心を込めて」


一一魔法郵便屋の一日は、こうして静かに、確かな使命感と、小さな魔法の光と共に終わるのだった。

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