8話『本心に埋もれた呪詛』★
これはやはり、夢の続きなのか。
だとしたら、この強い現実感はいったいなんなのだろう。
まずい。まずいまずい。
見つかってしまった。捕まってしまった。どうする?どうすれば……!
心臓が、ドクドクと鼓膜を打つように鳴り響く。焦燥と恐怖に支配され、セツはパニックの渦に飲み込まれていた。
その彼の前で喉を鳴らしたのは、囚われた妹を片手に提げた──時代錯誤にも甚しい格好をした道化師。
「っ、返せッ!」
怒りか、憎しみか、あるいは情けない命乞いなのか──自分でも定かではない感情を奥歯に込め、セツは血走った目で道化師を睨みつけた。
だが、道化師の反応は依然と冷ややかだった。
その白い仮面に彩られていた凶相に耐えきれなくなったのか、
「アズラを離せええええええッ!!」
血を吐くような絶叫とともに、セツは迷いなく闇に飛び込んだ。妹を取り戻す。その一心で。
この瞬間だけは、竦む恐怖も先の見えない不安も、何もかもが邪魔だった。
しかし──
「がはっ──!?」
突如、腹部に突き上げる鋭い衝撃。道化師の容赦なき蹴りだった。
力強く、鋭く、そして容赦ないその一撃に、セツの視界が反転する。
肺から空気が絞り出されたその体は軽々と宙を舞い──呆気なく地面へと叩きつけられる。
「が……は……っ!」
激痛が全身を駆け巡り、視界がぐらついた。絶え間ない耳鳴りと嘔吐感が頭蓋の中を縦横無尽に跳ね回る。
「セツッ!!」
アズラの悲鳴が、暗闇を切り裂く。
「ヒヒヒ、無様だな。人類の継祖よ。ヒハハ、」
足元で悶えるセツを見下ろしながら、 道化師は芝居がかった動作で肩をすくめ、狂気を滲ませた笑い声を響かせた。
その狂笑は、暗闇の中でひどく鮮烈だった。
なおも必死にアズラはもがき続けるが、道化師の腕は微動だにしない。
──どうする。
──どうすればいい!?
相変わらずセツの思考は、まるで沼にはまったかのように出口を見つけられずに彷徨う。蹴られた腹部が焼けつくように熱い。胸が締めつけられ、まともに息ができない。
(妹を……アズラを……助けなければ……!)
そう思うのに、身体が動かない。
視線の先には、宙に吊るされた妹。
(クソッ!)
震える指で、地面を掴む。
立ち上がれ。
立って、戦え!
──だが、本当に戦えるのか?
母を殺したこの狂人に。父を、弟妹たちを惨殺したこの殺戮者に。
不意に──狂気と目が合った。
「く……ひひひ、無駄な足掻き。お前は、ここで死ぬ。──死ぬべきなのだ」
まさに『狂乱』という言葉の顕現たる主は、獲物を逃さぬように囁いた。
そのぎらつく双眸からは欠片の生気の衰えもうかがえず、かえって怨念じみた狂気が強調される形となっていた。
セツの背筋に、氷の刃のような戦慄が走る。そして、確信した──今ここで戦えば、確実に殺される。
(くそ、臆病者め!動け、動けよっ)
セツは今、確かに悔しさを感じていた。歯噛みしてが滲む程の、悔しさを。
悔しい、とそう思う気持ちは確かなのに、それでも動けない自分が更に悔しい。
だが、何よりも──
(死にたくない……)
そんなはてしない悔しさを上回るのが、『死への恐怖』──今この瞬間、本能がすべての感情に優っていた。
有限なる命を持つ者なら誰しもが持つ当然の『弱さ』で。無情にもそれがセツの勇気にブレーキをかけていた。
と、その時。
「……もう、やめて、セツ…………!」
弱々しく、それでもはっきりとした声が響く。
「ア、ズラ……!!……だけど、お前が……」
「わたしのことはいいの!お願いだから……逃げてええ!!」
セツの逡巡を叱咤するように、アズラの語調が明らかに荒くなった。
「だ、だめだ……オレは……っ、見捨てない……っ!」
「……っ、ここでセツまで殺されちゃったら…っ、それこそ人類が終わるのよ!?自分の使命を忘れないでっ!」
「──ッ」
迷いと意地を舌に乗せようとするセツに、アズラは震える声で発破をかける。
それでもなお、セツは踏み切れない───はずだった。
けれど。"止まっている"状況を許さなかったのは、次のアズラの言葉だった。
「親不孝者!庇って死んだお母さんの思いを無駄にする気ッ!?」
その啖呵の一言にハッとしたセツは、エバの最期を脳裏に呼び起こす。
『……生きて、ね』
血に染まりながら、最後に微笑んだ母の顔。
燃え盛る炎の中で、果敢に刺客の魔の手からセツを守るために、無情にも命を摘み取られた母。
あれほど温かかった腕の感触。今はもう、二度と触れられない。
「母さん……」
あの死に際の遺された最期の言葉はきっと、母親としての最後の愛だったのだろう。
──生きろ、と。
この世界に、人類の歴史を残すために生き残れ、と。
「……ッ!!」
セツは拳を握り締めた。喉の奥が焼けるように熱い。
それでも、エバの最期の願いが、セツの瞳に顕在化した迷いを徐々に霧散していく。
──まだ、死ぬ時じゃない。
そうだ。
戦っても、助けられないのなら。
無謀に挑んで二人とも死ぬくらいなら、せめて──
自 分 だ け で も
生きるべきではないのか?
耳元で黒い囁きが唆す。途端に、ひどく邪な思考が一瞬でセツの頭を埋め尽くす。
それはセツの中に巣食う恐怖の声か、それとももっと別の、得体の知れない“何か”の声か。
「────すまない」
震える唇で、呟いた。
その一言に込められた葛藤は──計り知れない。
ザッ!!
次の瞬間、セツは地面を蹴った。
逃げた。
──アズラを置いて。
──自分だけ、生き延びるために。
そう決意したセツは身を翻して逆方向へ脇目も振らず駆け出した。
アズラが最後にどんな顔をしていたのか、それすらもわからないまま。
「───、───!」
背後から妹が何かを叫んでいたが、うまく聞き取れなかった。
命乞いなのか、それとも、やはり見捨てられたことへの恨み言なのだろうか。真相は定かではなかった。
しかし、言葉は届かずとも、悲痛な声だけが耳に残った。
振り返りたかった。
──でも、振り返ったら、もう二度と足を動かせない気がした。
涙が頬を伝う。
嗚咽を堪える。
セツは、止まらなかった。
(生きなければ……)
(生き延びなければ……)
母の死を無駄にしないために。
人類の未来を繋ぐために。
何より、死にたくないという本能が、彼の足を突き動かす。
涙を振り払い、己の弱さを噛み締めながら──暗闇の奥をひたすら駆け抜けた。
己の無力さと、恐怖と、絶望を背負いながら。
「──絶対に、許さないから」
それは幻聴だったのか。
それとも、命の瀬戸際で初めて晒されたた、妹の本心だったのか。
絶望と闇だけが支配するこの世界で、背後から飛んできたその呪詛は、セツの心に深く突き刺さった。