7話『足枷の嘆き』★
失くした僕の、
一番大切なものを連れて逃げようと
───君の手を掴んだ。
走らなければ。
走らなければ!
後ろから追ってくる殺意に追いつかれてしまう。
それに捕まってしまえば、今度こそ終わってしまうのだと、そんな確信だけが今やセツを追い立てていた。
道化師の怨念じみた狂気が、セツを憎悪の対象とみなした、その叫びが今も耳から離れない。
一方で、セツに置いていかれないよう、アズラもまた懸命に足を動かす。彼女の呼吸はどんどん荒くなり、体が火照ってひどく熱いのが繋いだ手を通じて伝わってくる。まるで循環する血液が沸騰しているようだった。
──その時だった。
「っ……!?」
不意に、繋いだ手の温もりが消え、ふっと軽くなった。それと同時にセツの背後から、崩れ落ちるような音がした。
「アズラ!?」
慌てて振り返ると、アズラが膝をついていた。
「どうした!アズラ!疲れたのか?」
「……ごめん、セツ……」
申し訳なさそうに顔を歪めながら、アズラは苦しげに左足を庇うように抱えている。
「どうした、何が──」
自ずとセツの視線はアズラの足に注がれた。そして、唖然とした。
アズラの左足のくるぶしが、ひどく腫れ上がっていたのだ。
おそらく、あの時アズラが道化師に振り払われたの勢いで、足を挫いていたのだろう。だが、それでもアズラはずっと何も言わずに走り続けていた。無理に捻挫した足を酷使しながら、セツに遅れまいと必死に──。
「クッ、すまない……!」
「どうして、セツが謝るの」
「オレの、配慮不足だ」
「おかしいことを、言うのね。この怪我はセツのせいでもないのに。わたしを助けるために必死にここまで引っ張ってくれたんでしょう?セツが謝ることなんて何一つないわ」
「っ、」
この状況では健気としかないアズラの強かさがセツの胸を締め付ける。座り込むアズラの前にしゃがみ込み、背を向ける。
「アズラ、乗れ。オレが背負ってやる」
アズラがこんな状態でも、見捨てるつもりなんて毛頭ない。──絶対に二人で逃げ延びてみせる。
それなのに、背後から返ってきたのは、悲痛な声だった。
「……もう、いいよ」
「は?」
それを耳に入れて、セツの動きが止まる。首をもたげ、軋むような動きでゆっくりと自分の妹を見下ろし、
「セツは、逃げて」
「……なに?」
アズラの絞り出した言葉にセツが頬を引きつらせる。
聞き間違いであってほしかったが、その顔に脂汗を浮かせたアズラの目は真剣で、セツは自分の聞き間違いの可能性の消滅を感じ取った。
そして、それが錯覚でないことを証明するように、アズラが重ねる。
「もうわたしのなんか構わずに、置いて逃げてほしいの」
「ふざけんな! そんなことできるわけないだろ!!」
思わず振り返って怒鳴る。それを見て何を思ったのか、アズラは「セツだって、わかっているでしょう」と平坦な声で言う。
「わかるって、何をだ……、」
セツはまたも動揺する。やっとのことで出た声もどこか情けない。
アズラもまた今の彼の心境を察したのだろう。目を伏せ、その後の言葉を告げることを苦渋の決断として、
「──二人で生き延びるなんて、きっと無理よ」
アズラの声は、涙を堪えるように震えていた。その呟きには無念の響きがあり、諦観がその華奢な体に圧し掛かっている。
「そんなこと──」
「あるわよ。だって現にわたし、足手まといになってる」
妹の自虐的なその一言がセツの意識を貫く。
「でも、あなた一人なら生き延びる可能性はあるの。だから、お荷物なわたしはセツの迷惑でしかない」
「迷惑?バカを言うな!勝手に決めつけて、自己犠牲される方がよっぽど迷惑だ!」
目の前に座り込むアズラの腰を引き寄せた。小柄な体を腕の中に抱き、離れていこうとするその存在を繋ぎ止める。
この手を離してしまえば、彼女はきっといなくなってしまう。
残った最後の妹だけでも救いたいがために、ここまで逃げてきたのに。すべてが徒労に終わってしまう。
それだけは阻止しなくてはならない。そうでなければ、
「頼む。諦めないでくれ……っ、お前まで死んだらオレは……オレは!」
腕の中にいるのに、徐々に遠ざかり始める彼女を必死で繋ぎ止めたくて、セツは必死に声を絞り尽くす。なのに、その声はすぐ目の前の彼女に届かなくて、
「もうね、足が、動かないの……。どうせわたしは、助からない……このままわたしのせいで、セツまで捕まったら、そっちの方が耐えられないわ」
どこか吹っ切れた様子で、淡い笑みすら含ませながら、アズラはゆっくりと言葉を紡いでいく。
「だから、一緒には行けない。今、避けるべきは共倒れ、でしょ?賢いセツなら分かるはずよ。──」
死を覚悟したとは思えないほど普通の声色だ。説得の余地などないことはわかっていた。それでもセツは諦めたくなかった。必死で言葉をかき集める。
「──っ、だからって、オレにお前を見捨てろって言うのか!?」
「違うわ……そうじゃなくて……セツには、生きてほしいの」
「生きてほしい?オレひとりでか?父さんも母さんも、きょうだい誰一人を救えないままひとりぼっちで生きろっていうのか!」
「……ごめんね、ひどいことを押し付けちゃって……それでも、セツには死んでほしくないの。それはきっと逝った家族たちも同じ思いだと思うわ」
「……っ、」
逃げ続けて高熱に侵されたはずの全身から熱が引いていく感じがした。それ以上は何も言えず、セツはただ奥歯をきつく噛んだ。
血の気の失せた青白い顔を前に向けて、アズラの決断に対して言葉を投げかけるつもりで、思考が双眸を走る。
だが、それより先に、変化が訪れた。
「……え?」
──ズルリ。
暗闇の向こうから、不気味な音がした。
次の瞬間、黒い影が這い出し、アズラの首根っこを強く掴み、
「──っ!?」
「きゃああああああああっ!?」
──鋭い悲鳴が響くと同時に、アズラの体が、一瞬で闇の中へと引き摺り込まれる。
「アズラァッ!!」
反射的にセツは手を伸ばす。しかし、指先がかすかにアズラの服の端を掠めただけで──ズルッと、彼女はさらに奥へと飲み込まれていった。
焦燥に駆られ、セツは闇の奥へ目を凝らせば、そこにいたのは──やはり、あの忌々しい道化師だった。
漆黒の影に溶け込むかのように佇みながら、片手でアズラを掴み、高々と持ち上げていた。まるで弄ぶかのように。
「言っただろう?絶対に逃さない、と」
闇の深淵で、こちらへ一歩一歩近寄ってくる凶気の襲撃者に、セツは恐怖した。
その執念に、執拗さに、恐ろしさに、魂が震える。
震える。