6話『狂乱の嘲笑』★
──。
────。
──────────────あ。
「──ん、ぁ……?」
ふと、セツは奇妙な意識の閉塞感から解放された。空白の中にあった意識を揺り起こし、彼は現実に覚醒する。
「あれ、オレは……」
──何をしていたのだったか。
顔を持ち上げ、上体を起こせば、ふと、気づく。
あれだけ燃え盛る炎の熱も、むせ返るほどの煙も、何もかもが消え失せていた。
あたりに広がるのは、黒く焦げた残骸の山。──さっきまで、確かにそこにあった家。家族の温もりが残るはずの場所。
しかし、今やただの廃墟だった。
セツはゆっくりと手を伸ばし、焼け焦げた木片に触れる。まだ微かに温かい。ほんの数分前まで、炎に包まれていた証拠だ。
「……どういうことだ?」
ついさっきまで目の前にあった地獄が、一瞬にして終わっていた。まるで、再び悪夢から目覚めたような感覚だ。そんな希望に縋るように、セツはそう思いたかった。
しかし──、
「……母さん……?」
眼前に横たわる母の亡骸がすぐにその幻想を打ち砕いた。
そして、その傍らで蹲る道化師の姿。だが、明らかに様子がおかしい。あれほど冷酷だった顔は伏せられ、肩を震わせていた。さらに目を凝らせば、男の腹部から血が流れ、地面を濡らしていた。
──何が、起こった?
目の前の理解を越えた光景を前にして、セツは言葉を失うほかなかった。
(母さん……本当に死んで……?)
それは、一種の現実逃避なのかもそれない。
ふと、セツは母の死を確かめようと足を前に踏み出す。地面に横たわるエバは、案外死に顔は綺麗で穏やかなものだった。
手を伸ばし、その動かない体に触れようとする。だが、
「──触るな!」
鋭い牽制と同時に、道化師は勢いよく顔を上げた。血のように赤い瞳が、セツを真っ直ぐに射抜く。
「お前に彼女を触れる資格はない!!」
それは一切入り込む余地のない拒絶の言葉だ。
叩きつけるようにそれだけ言って、道化師は再びエバの体に取り縋り、非常に奇妙なことに、どういうわけか彼女の死を悼む。
それでも、エバが目覚める気配はない。
青白い横顔、血色の悪い唇。そして鼓動を止めてしまった体。間近でそれらを見て、セツはようやく酷い現実を受け入れる。
そこで、
「──く」
故に、ふいに鼓膜を叩くその音に、セツは眉根を寄せた。
「く、くく……はは、ふはは!」
喉を震わせ、重症の状態にありながら、道化師は顔を歪めて笑声を溢していた。
この状況で笑い出す道化師の真意がわからない。その豹変というべき変化に戦慄が喉を駆け上がるのを必死に堪えて、セツは問いを発した。
「──何が、おかしい?」
「おかしいに決まっている。運命を変えたくて此処にいると言うのに、このザマだ。ワタシの甘さが、この結末を招いたと考えると、おかしくてたまらぬのだ」
それは、自嘲と無念の滲む声だった。腹部から溢れ出る血を抑えながら、道化師がゆっくりと顔を上げた。
「すべてが、無駄な足掻きだったのだ」
いっそ開き直ったように、自分の行いを『無駄』だったと断言する。その口元を血で染めた、凄惨な狂笑で飾りながら──。
「まさかこうも早く覚醒するとはな。完全に想定外。アハハハッ!ワタシはまんまと、してやられたわけだ!ハハハハハハッ!!!」
何がそれほど面白いのか。ケラケラと、嗤う道化師は、血が付着して赤く斑に染まった歯を剥き出して嗤い続けている。
止めるものがいなければいつまでもそのままでいそうな奇態を前に、嗤われる対象とされたセツは愕然とするほかなかった。
「ヒはは……、もっと早く、お前を葬ってしまえばよかった……!!クク、クハハハハ!!」
刺客から狂人に転身した途端、道化師はその上体を大きく揺らし、血走った眼を押し開いたまま、首をめぐらせ、血塗れの舌を出して狂態を演じる。
ケラケラと、ケラケラと。
狂笑が、哄笑が、嘲笑が、響き渡る──。
笑い声が響き渡るのを聞いているうちに、逃れられない嫌悪感だけがセツを捕え、耳鳴りのような錯覚を呼んだ。
やがて、それがぴたりと止むと、
「やはりお前は、──この世界に存在してはいけないのだ」
再び言い放たれたその言葉には、この世の憎悪と呪詛を煮詰めたような悪辣さがあった。
先程まで悔恨を、狂気を、嘲笑を、感情あるああんとして表現してきた道化師から、急速に感情の色が抜け落ちる。
そして、再びセツに向けられる矛先には、──これまで以上の強い敵愾心が孕んでいた。
(だめだ。このままここに居ては……危険だ!)
その細められた瞳に過る昏い闇は、何かよからぬことが、セツの常識を軽々と飛び越えた何かが起こっているという恐怖を際立たせる。
そんな一触即発の雰囲気が漂い始める時だった。
「……ん、う……」
微かに聞こえた声に、セツは反射的に振り向く。瓦礫の間で横たわっていたアズラが、ゆっくりと瞼を開いた。
「アズラ!」
あれほど強い衝撃で地面に叩きつけられたというのに、まさか生きていたとは!
すかさずセツが駆け寄ると、アズラはまだ朦朧とした意識を彼に向ける。
「え、なに……?セツ、すごい血…、怪我してるの…?」
セツの夥しい返り血を見て、ギョッとするアズラの様子に、セツはばつが悪そうに眼を逸らす。
「オレの、血じゃない……」
──そう、答えるのが精一杯だった。
「え、じゃあ、誰の……?まさか…………お、お母さんは……?お母さんはどこなの?」
恐る恐る聞いてくるアズラの瞳には捨て切れない願いが込められていて、母が無事でいてくれる幻想を求めていた。
幸いにも、どうやら道化師の影で隠れたエバの亡骸に気づいていないようだ。
「……母さん、は、」
セツは口を濁す。
やがては首を横に振り、その表情に無念と悔恨を浮かべた。それを見届けると、アズラはそれ以上は何も聞かずに静かに項垂れた。
きっと、聡い彼女ならもう結末を察しているのだろう。
一刻も争う現状で、兄として打ちひしがれるアズラを抱きしめて慰めることもできない。
だから、その代わりに──
「アズラ。逃げるぞ」
「……セツ……?」
「すまない。アズラ。今は何も聞かないでくれ。とにかく今はオレについてこい。そして、全力で走るんだ。立てるか?」
「う、うん……」
こういう状況に限って聞き分けがいい彼女に、セツの胸が酷く痛む。
「……行くぞ」
セツは彼女の手を取る。小さな手がかすかに震えながらも、彼の指を握り返した。
その温もりに、セツの決意は固まる。
──もう、失わない。
セツはアズラの手を引き、一気にその場を駆け抜けた。
特にあてがあるわけではない。
これからどこへ行けばいいのかも、どう考えるべきなのかも、全部。
それでも、それが、唯一残された家族を守るための、唯一の選択だった。
ただ、妹の手を強く握りしめながら、勢いよく立ち上がるとそのまま山の中へ駆け出した。
「──絶対に、逃さない」
背後から聞こえる、血を吐くような、道化師の憎悪。
セツの背筋を撫でる、冷たい刃のような執念だけが後を追ってくる。
それから逃げるように、頭を振り、繋いだ手を強く握りしめて、セツは走った。
ひたすら、走り続けた。
──走り続けた。