5話『惨劇の喝采』★
『運命は変えられない』
──そう嘆いた君は、少し笑っていた。
目を見開き、呆然とただ見上げるだけのセツ。だが、道化師の男はそんなセツに頓着せず、何気ない素振りですぐに短刀を振り上げた。
直後、見開くエバの目の前で少年の首がはね飛ばされて吹き飛ぶ──それが本来ならば、起こり得た未来だっただろう。
しかし、
「う、あああ──!!」
「っ!?」
道化師の男が振り上げた短刀を振り落とす直前、その巨体に小さな影が飛びかかった。
セツではない。茫然自失な状態のセツを守るべく、道化師の男に飛びついたのは──妹のアズラだった。
「アズラ!?どうしてここに!」
「そんな、アズラまで!」
外で待機していたはずのアズラは、白銀の髪を振り乱し、アズラは道化師の暴挙を止めようと必死に足掻いている。そして、鬼のような形相で肩越しにセツを見た。
「──セツ!逃げて!」
その瞬間だった。それに対する道化師の反応は劇的だった。
──ピタリ。
動きが止まった。
「……セツ?」
低く押し殺した声が漏れた。セツの名前を聞いた途端、道化師の瞳が大きく見開かれる。
額に触れながら、俯く男の喉から絞り出すように呟かれた言葉だ。その声音には、不信感とも、戸惑いともつかない感情が混じっている。
みるみるうちに道化師の男からは大気が歪みそうなほどの覇気が溢れ出しており、それが今しがたのアズラの言葉に起因していることは火を見るより明らかだった。
(な、なんだ……?)
セツは呆然と立ち尽くしていた。
今、確かに目の前の敵は『セツ』という名に反応した。
「セツ……、セツ……、」
まるで何かを確認するように、道化師は『セツ』と呼ばれた名前を反芻する。
振り上げられていた短刀が宙で静止し、派手な化粧で彩られた貼り付けの笑みの向こうには深い動揺が見え隠れしていた。何かの違和感と現実との齟齬を受け入れるのに必死のようだった。
生まれる僅かなの停滞は、きっと最後の好機だった。
しかし、それも束の間──、
「……ああ、そうか。そうだったな」
それは、いわば、自己完結に近い。セツは道化師の顔に恐る恐る視線を向けた。だが、存外その表情は、嫌な色をしているわけではなかった。
(なんだ、こいつは……。なぜ、そんな憐みな目でオレを見る……?)
この時ばかりは、道化師の男から漏れだしたのは明確な殺意ではなかった。どこか複雑に絡み合った感情がセツを突き刺している。
「悲しいな。運命というのはなんとも皮肉なものだ。と言っても、今のお前では理解できないだろうな」
道化師の独白を聞きながら、セツは感じた違和感を探し当てた。しかし、それを指摘する間もなく道化師の男が動く。
「──だからこそ、今ここで断つべきなのだ!」
そう零した道化師の顔に、再び歪んだ笑みが戻る。そして、唐突にセツに向けられた道化師の瞳には、露骨な嫌悪と敵意が浮かんだ。短刀を握る手に力が入り、ギシリと嫌な音が響く。
「──邪魔をするな、アズラ!」
「あうっ」
大きく振りかぶる手が風を切り、アズラの妨害を容易に振り払う。
元より相手は強靭な肉体を持つ巨体。暴力と無縁の少女は当然あっさりと引き剥がされて、同時にアズラの小さな体は軽々と宙を舞い、ガッと床に叩きつけられる。それきり、アズラの体は動かなくなっていた
「いやっ、アズラ──ッ!」
「クソッ!」
エバの悲鳴が響く。一部始終を見ていたセツは気絶したアズラの姿を目で追って、下唇を噛む。
「他人の心配をする余裕があるか」
真っ先にアズラを吹っ飛ばした道化師の男は、当然次はセツを狙う。事態に目を見開いていたセツは一瞬遅れて飛び退いたが、鋭い刃が逃げようとする獲物を狙う。
「恨むなら、己の罪深さを恨め」
鋭い凶手が振り上げられる。
──死ぬ。殺される。
恐怖と失意に支配される感覚の中で、セツは間近に迫るそれを知覚する。
絶体絶命な状況が硬直を生み、逃げ切れないと悟ったセツは諦めたように目を閉じる。この瞬間のセツは無防備であった──その時だった。
「もうやめてぇえーーーーっ!」
叫んだのは、エバだった。
セツの視界に飛び込み、なんの迷いもなくその身を盾にした。
ズシャッ──
重い音と共に、温かな飛沫がセツの頬を濡らした。呆然とする眼前、バッと、噴出する血が炎に焼かれ、エバの体が大きく揺らいだ。
「ぁ……、セツ…ァ……、……生き、て、……ね」
振り返ったエバの口元は、いつもと全く変わらないような笑みを作っていた。それと同時に、エバの体は後方に倒れていく。
「母さんッ!!」
それを素早く察したセツはすぐに手を差し伸べ、母の体を受け止める。
エバの体は驚くほど軽く、温かかった。だが、その温もりは指の隙間からゆっくりと失われ、代わりに冷たい現実だけが残る。
びしゃり。
抱きとめた、エバの、口から、血が、溢れて。その胸を貫かれた傷からも大量に流血していた。
「そんな……母さん……!!」
セツの肩に顔を預け、エバの吐血は止まらない。溢れ出したおびただしい量の鮮血がセツの体を真っ赤に染める。
深く鋭く、皮膚を裂いて侵入した刃の切り口から、命が流出していくのは一目瞭然だった。
「すまないっ、母さん……っ、オレのせいで、オレを、庇ったせいで……っ、待ってくれ、今手当を……っ!──母さん?」
吐き出される血を止めようと母の顔を上に向け、その力なく動く首が、だらりと垂れ下がる肩が、光を失った瞳が、全てを物語る。
──セツの腕の中で今、エバが、命を失われた。
「……嘘だろ……?」
震える声が、セツの唇から零れた。
応えてほしかった。どんなに小さな声でもいい。ただ、もう一度名前を呼んでほしかった。
「やだ……やめてくれよ!母さんまでっ、オレを、置いていかないでくれ……っ」
だが、母はもう何も言わない。血に濡れた唇はわずかに開いたまま、動くことはなかった。
「母さん……母さんッ!!」
掻き抱く腕に力を込める。けれど、どれほど強く抱きしめても、命は戻らない。
息が詰まる。心臓が痛い。
目の奥が焼けつくように熱いのに、なぜか涙は出なかった。
「……あぁ、まただ……また、守れなかった……!」
父を、弟妹たちを、そして母を、何もできずに失った。
これまでにないほどの無力感が、胸の内側に冷たいものを送り込む。全身の血が凍てつき冷え切り、目の前が真っ暗になるほどの失望感の中、
「許さない……」
セツは気付けば、歯を食いしばっていた。
心の底から込み上げる怒りと悔しさが、彼の血を沸騰させる。視線を上げた先にいたのは──母を殺した憎き仇。
「────……」
微動だにしない。
想定外の展開に放心しているのか。それとも、悠然と、揺らぐことのない圧倒的な優位を誇示して、悲壮に暮れるセツを弄ぶつもりなのか。あれだけ饒舌だった道化師は血塗られた刃を手に、ただ黙ってこちらを見下ろしている。
「……お前ッ、だけは……!!」
自分が失われていく失望感を、そのまま怒りに変えて、セツの喉から、獣のような叫びが迸った。母の亡骸をそっと地に寝かせ、ゆっくりと立ち上がる。
「……お前だけは、絶対に……ッ!!」
沸騰する殺意を掠れた声に乗せた。
涙の代わりに、怒りが熱となって迸る。
セツの意識が憎悪に侵食されていく。
「殺してやる」
ぷつり、と音を立てて切れた。
切れたのはきっと、意識なんてものだけではない。
──もっと、ずっと、どうにか壊れずに繋ぎ止めてきた『なにか』が今、音を立てて切れたのだ。
ぷつりと、音を立てて──切れたのだ。