4話『未来からの殺意』★
何が起こったのか、よく解らなかった。
唯 ひとつ ──、
愛おしい平和な日常はもう、
戻ってこないと判った。
火炎の向こう、凄まじいプレッシャーが発生し、セツは息を呑む。
「まさか自分からやってくるとは、手間が省けた」
その圧迫感の原因は猛然と迫り、セツを見つめて、そう言った。
まさか最初から狙いはセツだったと言うのか。だとすれば、セツはまさに飛んで火に入る夏の虫だったのである。
なら、この怪しい格好をした奇人こそが、今ここで繰り広げられている惨劇の引き金なのは疑いようがない。
何をしたのかも、何が目的なのかも、正体が何者なのかも、全部が不明で──、
「……お前がやったのか」
ガチ、と歯が鳴る。震えるな、と自分に言い聞かせる。弱みを見せるべきではない。あくまでも、気丈に。
「父さんたちをっ、……オレの家族を殺したのは、お前なんだろう!?」
腕を振り、喚き散らし、足を踏み鳴らす。セツの義憤を道化師は正面から無遠慮に眺める。それは哀れむでも怒るでもない、対象に価値を見出していないが故の透徹した眼差しだ。
「何か言ったらどうなんだ!!」
それに負けじと精一杯の抵抗のつもりで鋭く睨みつけたけれど、道化師の男は歯牙にもかけず唇を開いた。
「──アダムの継承者。人類の継祖なる子よ。己がいかに罪深き存在なのか、お前はまだ知らぬ。なんと哀れな」
「何を……言って……、」
「だが、いつかは思い知るだろう」
そう言って前へ進む道化師を見て、セツはぞくりと身を震わせ、一歩下がる。本能が、この男の危険性を察知している。どっと溢れ出てくる冷や汗を、拭う余裕もない。既に何滴もの汗が地面に落ちていた。
逃げ出したい。けど、背中は向けられない。
目を逸らしたい、けど、そうしたらきっと終わる。
そんな、威圧感に抗う思考の隙間を、次の言葉が突き刺す。
「──お前は、この世界にいてはいけない存在なのだ」
セツの心臓がドクンと大きく脈打った。
悪夢の中で、何度も何度も繰り返し耳にしたあの言葉だ。
「なんで、そんなことを言われなければならないんだ……」
「理由は至って単純なものだ。継祖よ。お前が存在するだけで、世界の歴史が、人類の未来がすべて狂ってしまうからだ」
セツの当然な疑問に、道化師の口から漏れる無感動な声が酷薄に答える。
ふざけるな。何を根拠に。
そう言いたいのに、何故か言い返せない。ただ預言のような言葉に身体を震わせることしか出来なかった。
「さっきから好き放題に言ってくれるな。……そもそもお前は誰なんだ。オレたちと同じ、人間なのか?」
「……さぁな。少なくとも見ての通り、ワタシはこの時代に生きる者ではない。──遠い遥か未来からやってきた『使者』だ」
淡々と告げられた内容に、セツは一瞬だけ硬直。それから相手がなにを口にしたのか脳が反芻し、思考が止まる。
──今、こいつはなにを言ったのだろうか。この時代の人間じゃない?
「未来から……?そんなこと」
「神より祝福されし力──【カリスマ】さえあれば、時空を越えるなんて造作もないことだ。当然、世界を破滅に導くこともな」
と、道化師は真顔で告げた。セツを貫く視線はますます鋭くなり、弁舌の勢いが増した。
「ワタシはある者から頼まれた。人類の継祖であるお前を殺せと。そうすべては世界のため。“原点にして特異点”──お前という【世界の歪み】を抹消するためなのだ」
「ある者?誰だ、それは」
「これから死ぬお前にそれを知る必要はない」
「なんだそれ……理不尽すぎるだろ!訳の分からない理由でオレを殺すために……そのためだけに関係ない家族まで巻き込んで!あんな酷い仕打ちをする必要こそあったのか!?」
「……」
道化師の男は答えない。
その代わりセツに向かって一歩踏み出す。
メイクによる張り付いた笑みを浮かべているものの、ぎらついた瞳は一片も笑ってなどいなかった。
──その奥にあるのは純粋なる殺意だった。
「……っ、来るな!!」
更に顔を強ばらせたセツは、本能的に身構え、更に数歩下がる。だがさほど意味はない。
男は更に数歩前に出た。
ゆっくり、ゆっくり、近づいてくる。
それに合わせてセツも無意識に下がるが、ふいに背中に激しい熱さを感じた。
セツの背後に、燃え盛る炎がそれ以上ゆるさなかった。
逃げなければ。
逃げなければ!
逃げなければ──!!!
頭では理解しているのに、身動きを封じられた。焦燥感で喉が引き攣って声が出ない。
ゴツン……、
道化師の男がまた一歩前へ足を出そうとしたとき、
「その子には手を出さないでッ!!」
鋭い声が響く。
エバがセツと道化師の間に体を滑り込ませていた。立ち塞がるように。壁になるように。埃と炭にまみれたその背中からは肌を刺すほどの緊張感が漂っている。
「今からでも遅くないわ!早くお逃げなさい!」
「母さん!よせ!ソイツはやばい!」
「それでも、母親としてみすみすあなたを殺させるわけにはいかないわ」
「ああ。やはり君は立ちはだかるのだな。エバ」
抑揚の消されていた道化師の声に、ふと隠し切れない悲嘆の色がまじった。
それはこの場に狂気を担って現れた男が初めて、明確に狂気と差別化した感情を垣間見せた瞬間だった。
「ええ。当然でしょう。もうこれ以上、愛しい我が子を殺されるわけではいかないもの!」
「フッ。君らしいな」
道化師の男はどこか寂しげに、悲しげにエバを見つめたあとで、ゆっくりとその瞳をその場に参ずるもう一人の生存者に向けると、
「──だが。こちらとて譲るつもりはない」
「!」
前触れ一つない。
──首に冷たいものが当てられていた。
「な、」
息を詰め、ゆっくりと視線を下ろせば、セツの首に当てられているのは、美しく磨き上げられた短剣の刀身だった。
「人類の始祖の後継者を、ワタシはこの手で“消さなくちゃ”ならないのだから」
ひどく冷たく、底冷えするような殺気が込められた声に、セツの背筋をゾッと寒気が走った。同時に後ろから声をかけられたことに頭は混乱状態だった。
(こいつ……!いつの間にオレの背後に
を!?)
一瞬の早業だった。
道化師の男が、目で追う間もなく、既にセツの背後にいたのだ。
瞬間移動とも言えるそれにセツは息を呑み、首だけで道化師の男の顔を見上げる。男は目力の強い風貌の中、冷酷な刺客としての己を瞳に宿している。
「────」
深々と息を呑み、生殺与奪の権利を相手に与えたとセツは理解する。
「──これで、終わる」