3話『悪夢は、悲劇へ』★
悪夢は逃げない。
逃げているのは──いつも自分なのだ。
「クソッ!」
「セツ、ダメッ!危ないわよ!?」
火に包まれた家へと駆け出そうとするセツの腕を即座に掴みアズラは驚きの声を上がる。
離れようとするセツを逃がすまいと必死な指先は震えていた。しかし、セツはその手を振り払う。
「離すんだ!アズラ!中に、誰かがいるかもしれないんだぞ!?父さんや母さん、弟妹たちが焼け死んでもいいのか!?」
「そうじゃないけど……っでも……!」
「大丈夫だ!お前はここにいろ。オレだけで確認してくる」
「あ!セツーーーー!!」
アズラに背を向け、セツは走り出す。
去り際にアズラの悲痛な叫びがセツの背に浴びせられた。でも、彼はもう振り返らなかった。
足元から突き上げる熱気に顔をしかめながら、セツは燃え落ちた家の出入り口前まで駆け寄った。
しかし、壁は崩れ、屋根は赤々と燃え落ちている。とてもではないが、人が容易に入れる状態ではない。
ゴオオオ……ッ!
「クッ……!」
火柱が空へと立ち上り、顔に熱風が叩きつけられたセツは咄嗟に後退った。この中に飛び込めば、生きて帰って来れる保障なんてない。
だが、それでも──!
(見殺しになんてできない!)
理屈で諦めるわけにはいかないのだ。家族が、この中にいるかもしれないのだから。
「……強行突破だ」
セツはその場で深呼吸を繰り返した。膝がガクガクと震えていた。滅多にしない全力疾走のせいなのか、怖気のせいなのかわからなかった。
酷使した肺を大きく膨らませながら、セツは勇気を振り絞って、家の中に向かって一直線に突進する。
刹那、
(なんだ……?急に火の勢いが弱まった……?)
心なしか出入り口を覆う炎だけが、一瞬動きを止め、すぐにセツを中へ歓迎するかのように尾を引く。
だが、今のセツにそれに疑問を持つ余裕もなく、むしろ好都合と言わんばかりにその隙に家の奥へ突き進んだ。
◇◆◇◆◇
──炎の渦巻く家の中。
燃え盛る木材の軋む音と、炎が空気を喰らう轟音が響く。
煤けた壁が崩れ落ち、熱風がセツの顔を叩いた。
「誰か……!いないのか!?」
息を吸うたびに喉が焼けつくようだ。飛び交う火の粉と黒煙のせいで、視界はほとんど見えない。
だが、家族を探すため、セツは立ち止まるわけにはいかなかった。一心不乱に炎と煙をかき分けながら必死に呼びかける。
「頼むっ!返事をしてくれ……っ!」
──そして、セツの切実な思いに応えたのか、彼が進もうとしていたすぐ先に、『結末』が訪れた。
「なんだこれ……何があったんだ。ここで」
溢れ返る血臭。
石造りの壁や床が砕かれ、割られ、何か強大な存在が暴れ回ったとしか思えない、身も凍るような激しい激闘の痕跡。
そんな破壊の余韻が残る空間に、たった今まで捜していた両親や弟妹たちの姿を、見つける事がないよう、セツは無意識に願い始めた。
こんな、荒れ果てた光景の中に、家族の誰かが居るとは思いたくない。そう全力で祈るセツの目にやがて映ったのは ──、
──首を大きく引き裂かれ、片腕を失くしたアダムが、見るも無残な姿で床に倒れ伏していた。
「……ヒッ、」
──父の屍体。それに気付いた瞬間、セツの口からは意味のない空気が漏れていた。
「……父さんッ!!」
叫んだ瞬間に、身体がアダムの元へ向かって動き出していた。すぐに抱き起こして、身体を反転させる。
「父さん……しっかり!父さんッ!!」
固く瞼を閉ざした顔は、青白く血の気を失っている。強靭な身体には、いくつもの真新しい切り傷が無残に刻まれていた。
かつて強さと威厳の象徴だった大柄な父親の姿は、あまりにも呆気なく変わり果てていた。
そんな現実を受け入れられず、ゆるゆると首を横に振り、セツは無意識のうちに立ち上がり、父の亡骸から遠ざけるように後ずさった。
──ぐにぃ…、
ふいに、草鞋の裏に生じた違和感に立ち止まる。
何か固いものを踏んだ、というような違和感ではない。むしろそれとは逆で、足元が何か柔らかいものを踏んだ感触に、セツの全身が硬直した。
恐る恐る視線を落とす。それは人の『手』。煤と血にまみれた皮膚。赤黒く染まった布。
無意識に繋がる先を求めるように視界を動かせば、さらに奥で死屍累々(ししるいるい)たる惨状を見つける──投げ出された『かつては弟や妹だったモノ』。
「嘘だよな……?なあ、お前たち!起きてくれよ……!」
無我夢中で、震える手で子どもたちの肩を揺さぶる。当然、返事なんて返ってこない。
小さな体は冷たく、ぐったりとしたまま動かない。顔にかかる乱れた髪をそっと払うと、幼い頬はすでに血の気を失っており、表情は痛みに歪んだまま凍りついている。
「なぜ……こんな……」
呆然と、愕然と、悄然と、亡骸を眺めていたセツはその場に膝をつく。
鼓動が、我知らず激しさを増す。
このとき、セツの脳裏を支配したのは恐怖でも絶望でも驚愕でもない。圧倒的なまでの空白が彼の脳を支配し、その中から『現実感』の全てを奪い取っていた。ただその場で硬直し、目の前の事態を脳が吸収し切るまで訪れる無為の空白。
しかし、そんな絶望的な消失感は、
「──そこに、誰かいるの?」
ふいに鼓膜を震わせた聞き慣れた声音に、一瞬で押しのけられていた。
「――――」
声もなく、弾かれたようにというにはゆるやかに、しかし凝然と目を見張って顔を上げた。ふらりふらりと、セツはその声のした方──家の奥へと進めば、
「母、さん……?」
柔らかな布地を使ったローブの衣服。セツに気付いて端整な顔立ちに不安な表情を浮かべ母エバは振り返る。
肩を超えて流れるその長髪がその動きで揺れて、所々がゆるやかに毛先にかけてふんわりと跳ね上がる。燃え盛る炎の中でエバは両手で己を抱きしめ、どこか身を守る姿勢で立っていた。
「母さん!生きてたのか!よかった……」
母の無事に対するセツの安堵。しかし、返ってきたのは、安否を確認する声でも、再会への喜びでもなかった。
「どうして、ここへきたの……」
「え…?」
「私たちのことなんて放っておいて、そのまま逃げていればよかったのに……っ」
「なに言って……、」
そこで、この空間に立ち入る自分に向ける意識が一つではないことに気づいたセツは、すぐに意識を切り替える。
「他にも、誰かいるのか……?」
──よく見れば、エバは奥にいる『誰か』と向き合っていた。
背の高い人物だ。身長は父親のアダムに劣らず、二メートル近くほどまで届くだろう。その不審な人物はセツからの距離だと煙に包まれて表情は見えない。
しかし、炎に照らされたそのシルエットだけでも、すでに異様な気配が漂ってくる。
「──まさか自分から来てくれるとはな」
どこか、冷たい声が、噴煙の上がった屋内に柔らかく落ちる。
男性の、声だったと認識する。静かで、感情の起伏に乏しい、声量も控えめな声だったと、そうセツの鼓膜は判断した。緊迫感が張り詰めたこの状況で、それは不気味なくらいひどく場違いに感じられた。
「やっと、見つけたぞ」
燃え盛る炎の中、火の粉をまとった影はコツコツと軽い足音を立てて、ゆっくりとこちらへ歩を進めた。
やがて、影の輪郭がはっきりと現れる──その瞬間、セツの顔から血の気が引いた。
「……っ、あ……お前……!」
深い青と黒を基調とした風変わりの衣装は、炎に照らされて妖しく光り、その輪郭を不気味に浮かび上がらせている。
歪んだ笑みを形作る仮面のようなメイクが素顔を覆い、その表情の真意を誰にも読ませない。その姿形は俗にいう『道化師』であることをこの時代のセツはまだ知る由もない。
「……お前は……!」
全身が強張る。忘れもしない。
夢の中で何度も聞いた──その声。
何度も見た──時代錯誤でしかないその奇抜な姿。
何度も奪われた──大切な家族を。
今、悪夢が正夢へ変わる。