『疑心暗鬼』
疑心は、音もなく足元に這い寄る混沌だ。
小さな綻びは次第に拡大し、浸透して、
気が付いた頃にはもう──
元には戻れない。
どくり、と心臓が大きく跳ねる。
セツが恐る恐る振り返ると──そこにいたのはやはり、マザーシプトンだった。
しかし、
(……誰、だ?)
その傍らに佇む見知らぬ人物にセツは思わず眉を顰めた。
修道服に似た暗紫色のローブを纏った、明らかに神職者らしい格好だが、丸いフレームのサングラスを掛けたいかにも胡散臭い若々しいの男。
(グレースハイムの神父ってわけじゃないよな)
グレースハイムには神父はいない──いわゆる「無牧教会」だ。
見たこともないその神父らしき男の立ち振る舞いには妙な威圧感があって、セツの背筋が微かに緊張し、先程まで日常の安らぎに浸っていたセツの気持ちが一気に下がった。
そんなセツの警戒など意にも介さず。
「では、私はこれで」
男は淡々とマザーに告げると、そのまま玄関口を向って歩みを進める。
「ああ……それから」
去り際、男は思い出したように立ち止まり。
「『選定の儀』まであと数日ですね。準備は怠りなくお願いしますよ」
(せんていの……ぎ?)
訝しむセツを尻目に、マザーは静かにそう応え、深々と頭を下げる。
「……承知しております」
「今度こそ良い結果を期待しておりますよ。マザーシプトン」
それを見届けた男は小さく頷くと、再び歩みを進めた。
そして、セツとすれ違う瞬間──
「────」
丸いサングラスの奥から覗いたのは、刹那の赤い光──その不気味な輝きがほんの一瞬だが、確かにセツを捉えていた。
「──ッ」
咄嗟に息を飲むセツの横を、男は無言のまま通り過ぎていく。やがて、男の背中が闇に溶けると同時に、物々しい空気がふっと和らぐ。
子ども達の賑やかな声が遠退き、妙な沈黙が漂うなか──最初に口を開いたのはマザーだった。
「セツ。ミア。おつかれさま。あなたたちが無事に帰ってきてくれてよかったわ」
背筋に冷たい汗を流すセツの様子を知ってか知らずか、その人──マザーシプトンは温かい微笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。
「なぁ、さっきの奴は……」
「セツ。“奴”だなんて失礼ですよ。アレイスター神父はとても高貴なお方なんですから」
問いかけるセツを遮るように、マザーはいつにない強い口調で窘めると、すぐに穏やかな声音に戻った。
「今朝話したお客様よ。ふふ、セツとミアがお使いを引き受けてくれたおかげで、あの方とゆっくりお話ができました」
「あぁ……そういえばそんなこと言ってたっけな。客ってあの神父のことだったのか」
そう言いながら、セツは徐に視線を背後──玄関の方へと滑らせた。
そこにはただ闇が広がるばかりで、怪しい神父の影も気配も完全に消えていた。それなのに、セツの胸騒ぎは収まらない。
「あのさ、その……さっきの神父が言ってた“せんていのぎ”って何だ?初耳なんだけど」
慎重に尋ねたセツに対し、マザーはわずかに驚いたような表情を見せた後、どこか寂しげに笑った。
「……いずれ来る日のことです。今はまだ知る必要はありませんよ」
(なんだよ……それ……)
はぐらかすような物言いにセツは釈然としない気持ちを抱えつつも、それ以上の追求を諦めた。
「さあ、みんな夕食の支度をしましょう。今日は特別にデザートがあるわよ」
パンと手を叩くと、マザーは優しい口調で皆を促した。
それを聞いた途端、セツたちの帰還を喜んでいた子ども達は我に返ったように歓声を上げて台所へと向かっていく。
最後尾のピーターがちらりとセツを見上げ、「デザート♪デザート♪」と楽しげに歌うと、小さな笑みを零して走り去った。
ミアもまた「わかったよ、ママ。先にってるね。セツ」と小さく会釈して食堂へ向かった。
後に残されたのはセツとマザーだけ。
「……」
「……」
しばらくの間、互いになんとも言えない沈黙が流れる中、先に口を開いたのはマザーだった。
「そういえば、ドクターには会えたかしら?」
「あ……あぁ、ヴィクター先生は、」
ようやく触れられた本題に、セツが唇を動かしかけた──刹那、
『お前さんとて薄々気づいてるんじゃないか? あのマザーシプトンって女が、ただの“修道女”じゃないってことに』
瞳にマザーを映したまま、今まで耳の奥になりを潜めたヴィクターの言葉がまた疑念を訴えてきて、セツは思わず俯く。
(なんだよ……こんな時に変なこと思い出すなよ)
マザーに対する疑念──それは、ヤブ医者ヴィクターの忠告を受けてからというもの、心の奥底で燻っていた種火だった。
マザーを信じようと決めた矢先に、突如現れた謎の神父の存在と奇妙な言葉がまさに導火線となり、セツの胸のわだかまりがますます大きくなる。もはやどういう顔でマザーに向き合えばいいのかさえわからなくなりそうだ。
そんな思考を巡らせるセツの様子を不思議に思ったのか、マザーが困ったように首を傾げた。
「まぁ、セツどうかしたの? そんな怖い顔をして」
「い、いや……何も」
不審に思われないためにも、このまま黙りこくるわけにもいかない。
ここは自分にとって一番安全な場所。なんてことはない、普段通りでいればいいんだと、強く自分に言い聞かせたセツは胸のざわめきを押し殺し、なるべく普段通りの口調で答えた。
「……えっと、ヴィクター先生ならちゃんと会えたぜ。死にそーな顔は相変わらずだけど」
『昔から腹に一物抱えてる女だとは思っていたが……はて、何を考えているのやら』
そう告げるセツの脳裏には、今度は診療所でヴィクターと交わした不愉快なやりよりが鮮明に蘇ってくる。しかしセツはその詳細については言及しなかった。
疑いと信頼の狭間で揺れる葛藤に苛まれたが……結局最後にヴィクターが何を思ってセツを嗾けて、マザーへ疑念を向けさせるのか、その真意は誰にも分からないのだから。
「まぁ、ならよかったわ」
そんなセツの内心を知る由もなく、マザーが安堵したように小さく微笑む。それを見届けてから、セツは言いづらそうに言葉を続けた。
「……けどよ」
「けど?」
「急な話だけど、ヴィクター先生どうやら明日この街から出るって」
ヴィクターはマザーの懇意にしていた唯一の医者で、昔からグレースハイムの子どもたちの治療や健康管理をしてもらっていた。
そんな恩義を受ける人からの突然の決断を、今このタイミングで告げるのが最適解なのかわからないが、セツはありのまま伝えることにした。
「だから先生はもう、ここに戻ってくるつもりはねぇーって」
「──ドクターが?」
セツが視線を床に落としたままそう告げると、マザーは一瞬だけ不思議そうに、けれど直ぐに何か納得したように肯く。
「あら、もう時効なの。残念ね」
どこか含みのある物言い。
だが、それよりも、言葉とは裏腹のあまりにもあっさりしたマザーの態度にセツは拍子抜けしてしまう。しかし、マザーはそれ以上何も語ることなく、静かに微笑むだけだった。
そんなマザーにどんなリアクションをすればよいのか分からなくなったセツは、とりあえず話題を変えた方が良いと思い至り、薬瓶を掲げて見せた。
「それ、と……頼まれた薬も、ほら、ちゃんともらってきたぜ!」
「あら、ご苦労様」
マザーは嬉しそうに目を細め「本当に頼もしいわね」と呟きながら薬を受け取った。それからしばらく黙って薬とセツを往復して見てくる。
「セツ」
「何だ?」
「あなたは、本当にいい子ね」
「……は?」
唐突な言葉に、セツは思わず呆けた声を漏らした。
「急にどうしたんだよ?」
意味がわからず困惑するセツ。しかしマザーは穏やかな微笑みを浮かべたまま首を横に振った。
「うふふ。思ったことを言っただけですよ」
そしてマザーは受け取った薬瓶をそっと大切そうに抱え込むと、不意に、思い出したように口を開いた。
「それにしても、随分と遅い帰りでしたね」
「え?」
「心配していたのですよ」
「あ……その……」
マザーの言葉はもっともで、セツたちが帰宅したのはすでに月が高い位置にある夜更けで、予定していた門限はとっくに過ぎていた。
「……悪りぃ、色々あってさ。はは」
返答に窮した結果出てきたのは当たり障りのない答えだった。
けれどその一言では到底済まない事情があったことなど、鋭いマザーには容易に察しがついたであろう。
「もしかして──街で何かありましたか?」




