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『帰る場所』


 玄関を開け、「ただいま」と言おうと口を開いた瞬間だった。



「セツにぃちゃぁあん!!」


「ぶへぇあ!!」



 どすん、と勢いよく腹部に衝撃が走る。


 全力タックルをかまし、飛び込んできたのは小太りの少年──ピーターだった。


 丸い頬は涙でぐしゃぐしゃに濡れ、金色がかったくせ毛を振り乱しながら、短い腕で必死にセツへとしがみついている。


 そのままセツは耐えきれずにしゃがみ込み、悶絶しながらも、震える手でぽんぽんと彼の頭を撫でた。

 


 

「お、おい……苦しいって、ピーター」


「あ……ご、ごめんね……にいちゃん……」



 慌てて腕の力が緩む。


 ようやく呼吸を取り戻し、セツは大きく息を吐いた。


 ピーターはこのグレースハイムの中でも、とびきり人懐こい子どもだった。

 

 誰にでもすぐに懐き、よく笑う反面、甘えん坊で心配性な一面も強く、泣き虫な少年でもあった。


 セツのことは、まるで本当の兄のように慕ってくれて、何かあればすぐに「にいちゃん」と呼んで駆け寄ってくる──そんな、放っておけない弟分のような存在だった。




「い、痛かった……よね……?」


「いや?鍛えてないオレが悪いんだ。気にすんな」



 おそるおそる見上げてくるピーターに、セツは肩をすくめて軽口を叩いてみせた。


 正直、腹に残る鈍い痛みは消えていない。それでも、ピーターの顔を曇らせたくなくて、セツはわざとらしく笑ってみせた。


 その表情にピーターは一瞬だけ頬を緩めるも、すぐにまた泣きそうな表情に戻り鼻をすすった。



「あのね、こわかったんだ。お外すごく真っ暗だし、セツにいちゃんとミアちゃんが、帰ってこなかったらどうしようって……」

 

 そう言って、大きな緑色の瞳が不安を映したまま見上げてくる。その純粋すぎる心配に、セツの胸がちくりと痛んだ。


 

「泣くなって。ピーター……」



 ほんの少し言葉に詰まる。それから、ぽん、ともう一度ピーターの頭に手を置いた。



「オレとミアならこうしてちゃんと帰ってきただろ」


 そう言って頭を撫でられたピーターは、ぐす、と鼻を鳴らしながらも、少しだけ表情を緩めた。


 セツが再度口を開きかけたところで──「ちょっと!」という鋭い声が玄関ホールに響き渡る。


 振り向けば、いつの間にか腕を組んで仁王立ちしている少女がいた。


 ──クロエだ。


 細身で年はミアと同じ七歳の少女。


 肩口で切り揃えられた黒髪に、猫のように吊り上がった青色の瞳が印象的だ。



「いつまでメソメソとセツにひっついてるのよ!」



 ぱたぱたとスリッパの音を響かせてこちらに近づくや否や、クロエはためらいなくピーターの襟首を掴み、ぐいと引き剥がした。



「うぎゃっ!」


「そうやってすぐ人に飛びつくのやめなさいっていつも言ってるでしょ!まったく、あたしと同じ歳なのに甘えん坊も考えものねっ!」


「うぅ……、クロエがこわい……」


「なんか言った?」



 じとり、と細められた視線が突き刺さる。その圧に、ピーターはびくりと肩を震わせ、「な、なんでもない……」と、すっかり萎縮してしまった。


 その光景を見て、セツは思わず苦笑した。


「相変わらずだな、おまえ」


「なによ!元はと言えば、あんたたちの帰りが遅いからでしょー!」



 クロエは即座に噛み付くように身を乗り出すと、頬をわずかに紅潮させながら、叱責するように続ける。



「まったく……薬をもらってくるだけで、どれだけ時間かかるのよ!夜のお外は危ないって、ママも言ってたでしょ!何かあったらどうするの!?セツって年長のくせして、危機管理能力ゼロのバカなのねっ!」



 なかなか辛辣な物言いだ。


 クロエのきつい物言いは今に始まったことではないが、これでもクロエは随分と丸くなった方だ。


 クロエは幼少の頃から両親に虐げられてきた果てに捨てられた孤児だ。


 家族の愛というものを知らずに育ったせいか、ここに来た当初、クロエは誰にも心を開かなかった。


 周りとの衝突や反発が多かった問題児だったが、そんなクロエにセツが根気よく向き合い続けるうちに、彼女も害はないと判断したのか、攻撃的な態度は次第に軟化し、表情も明るくなった。


 初めてクロエが心からの笑顔を向けてくれたときはの感無量をセツは今でも忘れない。


 そして、今では──共に過ごす家族の一員となっていた。



「はい、ストップ。クロエ。帰ってきて早々説教は勘弁してくれ」


「は!?なによその言い草は!人の気も知らないで!」



 糾弾を逃れようとするセツの不誠実な態度に、クロエの機嫌は急降下し、火に油を注ぐ形になる。


 そこへ、



「まあまあ、二人とも落ち着いて。ケンカは良くないよ」



 タイミングを見計らい、ミアがやんわりと仲裁に入る。すると、今度はクロエの矛先がミアに向けられた。



「あんたもよ!ミア」


「え?」


  

 ミアを指差し、ふて腐れたようにクロエは頬を膨らませる。



「あんた、自分でママにお使いを申し出たくせに、勝手にセツを付き合わせたらしいじゃない」 


「うん?」


「うん、じゃないわよ!そうやっていつもセツばっかりに頼って!少しはその甘え癖直して自立しないよね!」



 腰に手を当てて怒った仕草。


 効果音を付けるなら「ぷんぷん」といった動きをしてから、クロエはミアを厳しく見つめるも、当の本人はキョトンと不思議顔だ。


 

「しかも、ただのお使いにこんな時間かかって!夜遅くまで二人してどこで何をしてたのよ」


「そ、それは……」



 ぐいっと完全にクロエの勢いに押されるも、ミアは何も言えない。


 まさか街の人たちに絡まれたとは言えない。ましてや捕まって衛兵に突き出されそうになったなんて話せるはずがないのだ。


 返答に困っているミアの様子にさらに眉間の皺を深めるクロエ。



「答えられない?ねぇ?一体何があったのか白状しなさいよね?ミア!」


「クロエ」



 そんな詰め寄ろうと彼女を制止したのは──他ならないセツであった。



「悪かったよ。確かに帰りが遅くなったのは事実だし。心配かけて悪いと思ってる」



 セツはそう言うと、苦笑交じりにクロエの小さな頭に手を置き──わしゃわしゃと撫で始めたのだ。


「……ふぇ?」


 思いも寄らない行動に、クロエは一瞬目を白黒させる。


 パクパクと数回口を開閉したかと思うと、組んでいた手を落とし力が抜けたようにセツを見た。その意外な反応に今度はセツがパチクリと目を瞬かせた。

 

 普段であれば怒ったり、軽く流すものだとばかり思っていたのに。


 だが次の瞬間にはハッとしたのか、みるみる耳まで真っ赤になっていく。



「な、ななななにするのよぉーっ!」


「いやー?だから心配させたことをちゃんと謝ってるだけだが?」


「べ、別にあんたたちのことが心配してたわけじゃ──ていうか勝手に触んなバカぁ!えっち!」


「ハイハイ」


 セツがパッと両手を上げ降参のポーズを取った途端、頬を染めて叫んでいたクロエがもぞもぞと口を動かしたかと思うと、小さな声がセツの耳に届く。



「まぁその……、フン……!反省してるのなら許してあげる。次からは気をつけてよね」



 つんっとそっぽを向くクロエの耳の先がほんのり赤くなっているのをセツは見逃さなかった。


 どこまでも憎まれ口を叩くあたりがどうしようもなくクロエらしいところだ。


「ホント、素直じゃねーやつだな?」


 セツがからかうように言うと、クロエはますます顔を赤くして「うるさいわね!」と叫ぶ。


 そんな二人の騒がしい声を聞きつけてきたのか、



「あ!セツにいちゃんだ〜!帰ってきたのー?」」


「わー、ミア姉ちゃん、おかえり!」



 わらわらと他の子どもたちが顔を覗かせると、次から次へと廊下の奥から駆け寄って集まってくる。そして、あっという間にセツたちはたくさんの無邪気な笑顔と歓声に囲まれた。


 子どもたちの出迎えで、夜風で冷えた体が内側から全身を巡って暖かくなる。自分の帰りを待っている人が居るというのは

これほど落ち着くものなんだとセツは初めて知った。



「ただいま」



 セツの口元が自然と緩む。


 優しい空気が漂う。


 ああ、ようやく日常に戻れた。


 このやさしくも温かい空気にいつまでも浸っていたい。


 他愛のない幸福に彩られたこの賑やかさこそがグレースハイムのあるべき姿なのだ。これからもそうであるに違いない。


 やはりここが自分の帰る場所だ──ほんの少しセンチメンタルな気持ちになるくらいには、心穏やかな時間の流れだった。


 

「あら。おかえりなさい」




 ──その人が現れるまでは。


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