2話『悪夢の前触れ』★
悲劇はいつだって、
突然やってくる。
急いで下山したものの、やはりすぐに夕日は消えて、あっという間に夜になった。
木々の間を抜ける風はどこか湿っていて、肌にまとわりつくような不快さがある。枝葉がざわざわと揺れる。
セツは薪を抱えながら、ふと背筋が寒くなるのを感じた。
「……なんか、変じゃないか?」
漠然とした問いかけ。何が、とは言えない。ただ、さっきまでとは空気が違う気がした。アズラもまた周囲を見回す。
「言われてみれば、確かに……なんだか、静かすぎるかも」
森には鳥や虫の鳴き声が常に響いているものだ。しかし、今は耳を澄ませても、何も聞こえない。まるで、この場所だけが時間を止められたような感覚に陥る。足元の野草を踏む音だけが、やけに大きく響いた。
セツは無意識に歩く速度を速めた。
「それに……なんだが他にも誰かがいる気がするんだ」
「ちょっと、やめてよ。誰かって、……わたしたち以外の人間でもいるって言いたいの」
「それは──」
セツたちが生きるこの時代にはまだ、人類の数はほんの一握りしかない。元祖であるアダムと、その妻のエバ。そしてその二人の間に授かった子どもたちだけだ。そして、全員が今頃、セツとアズラがこれから帰還する家にいるはずなのだ。
──だから、二人以外の『誰か』がここにいるなんて考えられない。そう、ありえないのだ。
「そう、だな。とにかく、急ごう」
「そうね……こんなところに長くいたくないし」
気づけば二人の間に会話が減り、ただ黙々と歩き続ける。
──なぜだろう。
これから帰るべき家があり、今、隣には妹がいる。薪を集め、一日を終える。いつもの日常。ただそれだけのことなのに、胸の奥に拭えない不可解な不安がこびりついていた。
先ほど目を覚ましたはずなのに、まだ夢の中にいるような気がするのだ。セツは無意識に拳を握りしめた。
森の影が、静かに深くなっていく。
そして、きっと誰も気づきはしない。
その静寂の奥で、ふと── 本来ならいるはずのない『影』が、一瞬だけ揺れていたことを。
──その時だった。
カサ……!
すぐ近くの茂みが、わずかに揺れた。セツの足が止まる。
「な、なに……!?」
アズラも息を呑み、緊張した面持ちで茂みに視線を向けた。
風が吹いたわけではない。明らかに何かが動いた音だった。
──まさか。
セツも無意識に喉を鳴らし、じりじりと後ずさる。
先ほど魘されたばかりの悪夢が現実に重なっていく。森の闇に溶け込むような『悪意』が、すぐそこに潜っているのではないか──そんな非現実的な考えが頭をよぎった。
背筋に冷たいものが走る。次の瞬間。
バサッ!
茂みからは───小さな野うさぎが一羽飛び出して、二人の間を横切った。
「……び、びっくりしたぁ〜もう!セツが変なこと言うから、余計に怖くなったじゃない!」
「……オレの考えすぎのようだな」
よほど肝を冷やしたのか。アズラは胸を押さえて安堵の息をついた。警戒体制だったセツもまた肩の力を抜き、再び歩き出す。
そうしてまたしばらく歩いた後、自分たちの家までもう半分の道のりというところ。相変わらず静寂すぎる静かな森の道の中にも関わらず、セツがやけに辺りを気にしている。何度も何度も後ろを振り返るその様にアズラは不安を覚え、どうしたのかと尋ねると、
「……焦げ臭い」
「え……?」
セツの言葉にアズラも立ち止まり、鼻をひくつかせる。すると、
ふっ……、
やけに鼻をつく。生木の焼けるような嫌な臭いが、風に乗って運ばれてくる。
「ほんとだ。この臭いどこから……、って、セツ!?」
アズラの言葉が言い終える前に、セツは走り出していた。
「ちょっと!セツ!?置いていかないでよっ!」
アズラの叫びも耳に入らないようだ。
嫌な予感がする。
早く、確かめなければ。
森を駆け抜け、丘を越える。胸が高鳴り、鼓動が耳に響く。
──そして、見えた!
「なっ!?どういう、ことだ……!?」
家が燃えていた。遠くに見える自分たちの家──そこから、煙が立ち上っていた。夜空を裂くように昇っていた。
「……オレたちの家が……燃えてる……!?」
「う、うそ……でしょ!?」
信じられない光景。最初は目を疑った。
きっと焚き火の煙だ……。誰かが薪を入れすぎたんだ……!
だが、遠目にも分かるほど激しく燃え上がる炎が、その期待を無残に打ち砕く。
「なんで…っ、家が……っ!?」
「……っ、オレが聞きたいくらいだ」
アズラの泣きそうな声がセツの耳朶を打つ。
全身が一気に冷たくなるのを感じたセツは、己を制するように強く唇を噛む。今すぐ両手で頭を掻きむしって気の済むまで絶叫したいくらい、不安と焦燥の入り混じった混沌とした感情を持て余していたから。
あの家には家族がいるはずだ。
オレたちの帰りを、あの場所で待っていたはずだ……!
「行くぞ!アズラ!」
「うん!」
セツは背負っていた薪を放り投げ、全力で駆け出した。アズラも必死で後を追う。
頭がひどく混乱している。胸が張り裂けそうなほど痛む。息が苦しい。ただひたすらに、燃え盛る家へと走る。
──一体、何が起きた?
どうして、オレたちの家が……?
答えはわからない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
この瞬間、彼らの運命が大きく動き出したのだ。
◇◆◇◆◇
セツたちの家は激しく火の粉が舞い、炎に照らされた赤い煙が周囲に充満した。
轟々と燃え盛る炎が、夜空を赤黒く染め上げていた。乾いた木材が崩れ落ちる音が耳をつんざく。
「っ……はぁ……はぁ……!」
全力で駆けてきたセツたちは、荒く呼吸を繰り返しながら目の前の惨状を見つめた。
「はぁっ、……みんなはっ!どこ……っ!?」
燃え上がる炎が呆然と立ち竦むアズラの頬を赤く照らし、その瞳に恐怖と混乱の色を映す。
信じられない……。
オレたちの家が、どうして──