18話『ロザリオ』
本道を抜ければ、いよいよ人もまばらになる。
出店の賑やかさも遠のき、次第に閑散とし始めた周辺に、セツたちの間の沈黙がひどく浮き彫りになっていくような気がした。
やがて、視界の先に石造りの大きな街門が現れる。夕陽がその縁を朱に染め、長い影が地面を横切っていた。
門の手前で、ノアが静かに足を止める。
セツとミアも立ち止まり、しばしの沈黙。
そして、
「ここで、お別れですね」
どこか名残惜しそうに、そう言ってくれたノアは微かに笑っていた。
だけど────。
このまま別れていいのか?
本当は、聞きたいことがあった。
普通の人間ではあり得ない──自分と同じ“目”をしているノアは何者なのか。
「グレースハイム」に対してどんな思いを抱えているのか。
どこか懐かしいと感じさせられるのはなぜなんだ──と。
どうしても湧き上がってきてしまう、そんな疑問を振り切るようにセツは再び俯いた。
言葉が、喉で止まる。
もし踏み込めば、何かが壊れてしまう気がした。
日常の境界線を越え、知ってはいけない領域に触れるような、そんな不穏な予感があった。
だから、
「サンキュー、な。助けてもらった上に、ここまで送ってくれてよ」
結局、セツには踏み出す勇気はなかった。
唇から出てきたのは無難な礼だけ。
同時にそれがノアとの別れの挨拶となる。
ぎこちなく礼を告げるセツに、ノアも何かを言いたげな眼差しでこちらを見つめているが、すぐに小さく首を振った。
「こちらのほうこそ、今日、君たちに出会えたことを神に感謝します」
──感謝。
その言葉に、どうしてかセツの心が重くなった。
途中あんな気まずい空気になったにも関わらず、向けられた思わぬ表情に、セツの胸の奥で何かが軋んだ音がした。
(なんだよオレ、寂しいとでも思ってんのか)
危ない所を助けてもらってほんの少し話をしただけ。それなのに寂しいだなんて、一体何を考えているのだろう。
いや、ノアが忌み嫌われる自分たちを助けてくれた殊勝な人だからなのだろう。そしてセツが、外の世界で初めて築いた貴重とも言える人間関係。
たとえ会って少しの間しか経っていない人でも、 いなくなればまるで世界を削られてしまったかのような喪失感に襲われる。
そこで、ノアは何かを懐から取り出した。
「それと、セツさん。あなたにはこれを差し上げます」
「……なんだ、これ」
訝しげに受け取ったセツが、指先でそれを軽く持ち上げる。
それは、銀色に光る──十字架だった。
「そのロザリオ……身を離さず、持っていてください」
「……これをか?」
告げられたそれが何を意味するのかを理解出来ず、セツは眉を顰めつつも、まじまじとロザリオを見つめた。
繊細な装飾が刻まれたそれの中央に嵌め込まれた石は、無機質な灰色に濁っていながらも、神々しい雰囲気を纏っていた。
なぜかよく手に馴染み、どこか懐かしさすら感じる。
そんなセツを見てノアは少しだけ口元を緩めたが、すぐに言葉を続けた。
「もし、今日、君との出会いが神のお導きによるものなら──そのロザリオは、きっとあなたの役に立つはずです」
「ふーん?よくわかんねーけど、まぁ、記念にでもとっておくわ」
ぶっきらぼうに告げる。
ヴィクターといい、今日はやけに人から物をもらう日だ──そう思いながらも、セツは手渡されたロザリオを握り締め、それを懐にしまった。
それから、横目でノアを一瞥すると、
「じゃあな……」
どこか別れ難い気持ちを精一杯押し込めて最後の言葉を小さく口にして身を翻すと、ノアは「お気をつけて」と最後まで穏やかに見送りの言葉を向けてきた。
その言葉に背中を押されるように、セツはミアを連れてそのまま街の外へ歩みだす。
門をくぐりながら、セツは一瞬だけ振り向きかけるが──やめた。
今さら縋るような未練がましい真似はしたくなかった。
そのまま振り切るように、セツは歩みを止めずにその場を立ち去った。
──遠ざかるその背中を黄金の双眸が、値踏みするように見ていることには気付かずに。
「あなたが何者なのか、見極めさせて頂きますね……」
最後に、ただぽつりと。
届くことはないその呟きは、さらりと風に攫われ、宙へと溶け込んでいった。
◆◆◆
月明りを頼りに、セツとミアは暗い森の帰路についていた。
数時間前までの喧騒が嘘のような、不気味なほどシンとした冷たい空気が満ちていた。
夜の帳に包まれて、月は疾うに太陽の失せた空を駆けあがる。周りの森は昼と打って変わって陰鬱な闇が立ち込めている。
今まではそれを怖いと思ったことはなかったが、なぜか今日に限って光の当たらない場所が、やたらと気になる。
暗闇から今にも何かが這い出てきそうな想像に、 思わず身体が震えそうになった。
落ち着かない気分でいっぱいのセツに、先ほどからずっと脳内を離れないノアの声が、また甦った。
──魔女は、実在する。
その言葉が、セツの心に重くのしかかる。
あの時は強く反駁したものの、己の中のマザー・シプトンに対する感情が激しく揺れ動くのを自覚する。
物心がついた頃から傍にいたマザーへの胸中の変容に、思っていたよりも心が追い付いてくれそうにない。
気がつけば今日一日胸の中で植え付けられたほんの少しの猜疑心と、胸が塞がるような罪悪感。相反する二つの感情がぐるぐるとせめぎ合う中で、セツはただ前だけを見据えて、押し黙るしかなかった。
「セツ」
気づけば、ミアは名前を呼んで、セツの前に立つ。
「あ?なんだよ」
自分より背の高いセツの頬にそっと触れて、ミアはその頬を両手で引っ張った。
「にー」
変なかけ声と共に横に引っ張られて、セツはされていることがよく分からず呆然とする。結構思いっきり頬を引っ張った後、ミアは次にセツの眉間の皺をつんとつつく。
「ずっと怖い顔してる。だめだよ。」
知ってか知らずか、無邪気そのもののミアの言葉に、セツは苦笑ではない笑みを顔に刻む。
「ミアは、マザーのこと……」
ようやく絞り出した言葉はひどく乾いていた。吐き出す言葉に迷いがあるセツを眺めながら、
「大好きだよ」
迷わすミアから返ってきた言葉はまっすぐだった。余計な装飾もなく、ただミアの本心そのものを表している。
「これからどんなことがあっても、ママのこと大好き。ずっとわたしの、わたしたちの大事なひと!それだけはずっと変わらない」
明瞭で、底知れぬ信念を宿したその言葉が胸を刺した。その表情には一片の迷いもない。純粋で美しい澄み切った瞳に曇りはなく、どんなセツの悩みも見透かしてくるようで。
セツは……目を逸らした。
「そう、だよな」
そうだ。惑わされてはいけない。不安がる必要もない。
自分はただマザーを信じ、これまで育ててくれた恩返しするために存在すればいい。
他のことは……今は考えなくていい。
グレースハイムには大事な家族がいる。自分の居場所がある。
だからきっと大丈夫。きっと……。
そう自分に言い聞かせるようにセツは、自分でも気づかぬうちに、ぎゅっとミアの手を握り返していた。
触れ合うそれは優しさと温もりを伝えるものだった。セツの胸の奥に冷たく巣食っていた不安が、ゆっくりと溶かされていくような感覚があった。
「良かった。ようやく笑ってくれた」
「え・・・?」
「セツ。あの街へ行った時からずっと何か悩んでいるみたいで、苦しそうだったから」
「・・・そうか?全然、いつも通りだぜ」
嘘。グレースハイムのことで頭がいっぱいで、マザーに対して言語化できない複雑な感情でいっぱいだった。気付かぬうちにずっと顔が強ばっていたのかもしれない。
濁すように呟けば、「そっか」と一言告げただけで、ミアはそれ以上何も言わなかった。彼女の方が、セツよりずっとずっと大人なのかもしれない。
「帰ろっか」
「うん!」
二人は並んで歩き出す。
茂みを抜け、道が広がると、孤児院の灯りが遠くに見え始めていた。
そこが、自分たちの唯一の帰る場所。
森の奥の深い場所。
滅多に人なんて来ない。
差別や偏見の目から逃れ、世間から隔絶されたそこは、セツにとって安寧の地であるはずだ。
穏やかな風が二人の頬を撫で、再び静かな時間が流れていた。
今日ノアと出会ったことが、これからの未来にどのような影響を及ぼすのか──それはまだ、この時のセツには分からぬことだった。




