10話『聖女か、魔女か』
セツとヴィクター。戻る二人の間には重々しい雰囲気が立ち込めていた。
正直、セツは自分の胸中にわだかまる感情に整理がつかずにいたし、ヴィクターはヴィクターでセツとの論争に少し熱くなったことに、少なからず忸怩たる思いを抱いたようだ。
「──よし。完成だ」
やがて、ヴィクターは調合し終えた薬瓶を手に取り、蓋をしっかりと締める。
その瓶を一枚の古びた布で丁寧に包むと、無造作にセツへと差し出した。
「ほらよ。慎重に扱え。誤って途中で割れても、作ってやれねぇからな」
「……?」
その思わせぶりな口ぶりにセツは一瞬、どこか引っかかるも──結局、言葉にはならなかった。
ヴィクターの言葉の裏に含まれたものが何かを問いただす気にもなれず、ただ無言でそれを受け取る。
それは、加熱したばかりだからなのか。それとも、脈打つセツの掌の熱がこもっているせいなのか。手の中の薬瓶は、ほんのりと温かかった。
セツは、薬瓶をじっと見つめたまま、ぎゅっと掌の中で握りしめる。
「……サンキュー。先生」
ようやく絞り出すように告げたお礼の言葉に、ヴィクターはわざとらしく首を鳴らし、再びくたびれた椅子に腰を下ろした。どことなく、ほっとしたような溜息を吐く。
「礼は無用だ。俺は仕事をしただけだ。……こうしてあの人の依頼を聞くのも、これで最後になるしな」
「え、それって……」
告げられた言葉の意味が呑み込めず、セツは「は?」と疑問をそのまま音にする。
そんな無理解に首を傾げるセツに対し、
「そのまんまの意味さ。明日、俺は──この街を離れる。戻ってくるつもりもねぇ」
そう、はっきりと断言した。
ヴィクターのぶっきらぼうな態度にセツは首を横に振り、
「な、なんだよソレ!?初耳なんだけど!」
「今、初めて言ったからな」
「そーゆーことじゃなくて!急すぎるだろ!」
「……出会いがあれば、別れもいつかはやってくるものさ。それも唐突にあっさりとな」
やれやれと首を振り、ヴィクターは瞳を曇らせるセツを正面から見ると、「それに」と息を継ぎ、
「この街じゃ、俺のやれることも終わったんでね。これ以上ここに滞在する理由もない」
別れの感傷を一切感じさせない口ぶりに、セツは一瞬呆気に取られるも、
「……じゃあ、先生とはもう、会えないのか?」
少しだけ顔を俯かせて視線をそらし、まるで子どもがふてくされるような態度を取るセツに、ヴィクターは肩をすくめた。
それは肯定とも、否定ともつかない曖昧な仕草だった。
「──さぁな。なんだ。少年。まさかとは思うが、この俺との別れを惜しんでくれるのか?」
「っ……そ、そんなんじゃねぇよ!!」
思わず頬を染めて叫び返すセツに、ヴィクターは薄く笑みを漏らす。
「寂しいなら素直にそう言ったほうが、可愛げがあるものだ」
「だから、ちげぇって!!ああ、もう!調子狂うな!邪魔したな!」
ガシガシと頭を掻いて、セツはズカズカとそのまま身を回して出口へと向かう。
離れていく小さな背をヴィクターはふと、低く呼びかけた。
「──待て、少年」
セツが立ち止まり、振り返ると同時に、小さな何かが空を飛んできた。
咄嗟にそれをキャッチすると、
「……あ?なんだ、これ?」
「受け取っとけ。餞別だ」
それは片手にすっぽり収まる小瓶だった。その中でカラン、と音を立てて転がったのは、わずか一粒の錠剤だった。
「……コレ、なんの薬だよ」
眉をひそめて問いかけるセツに、ヴィクターはセツの方を振り返ると、その訝しげな瞳をまっすぐに見据えて言った。
「少年。お前さんに待ち受けるこれからの人生ってのは──まあ、決してやさしいもんじゃねぇだろうな」
「……は?」
「この先“何か”に迷ったときは、自分の目と耳で確かめろ。他人の言葉じゃなく──そうやって自分の信じたいもんを、信じりゃいい」
なんの脈絡もないその言葉は、すぐには咀嚼できない重さを帯びていた。
だが、セツは──不思議とその一言が、胸の奥に深く突き刺さるのを感じていた。
「それで、だ。もし、いつかどうしようもなく行き詰まる時が来るだろう──その時は、それを飲んで楽になれ」
──楽になれ。
不意に、ヴィクターの口から飛び出た不穏なフレーズ。それを聞き逃さなかったセツは思わず顔を顰めた。
「……それって、自殺用じゃねーか」
「それは、お前次第だ」
「……は、なんだそれ。ますますわけわかんねーよ」
脱力したようにセツは、深く息を吐いた。
結局、ヴィクターの真意は掴めない。
それなりに長い付き合いのはずなのに、今でもヴィクターという人間はどこか掴みどころがない。
──だが、今日で最後だというのなら。その本質を理解できないことも、今となっては取るに足らない問題だった。
「いいんだよ。今は何もわかんなくて」
ヴィクターは、強調するように言い、言葉を継げた。
「とにかく最終手段にとっとけ。肝心の効能については──まぁ、飲んでからのお楽しみだ」
そう言い放つと、ヴィクターはいつもの気怠い動作で、背もたれにぐったりともたれた。
──話は終わりだ。
その態度が、そう告げている
その姿を見て、セツの中に去来した想いを言葉にする術を見つけられず、ただ黙って薬を受け取った。
セツは薬瓶を胸元のポケットにしまいながら、そっとその感触を確かめるように手を添えた。
「──行こう、ミア。もう用は済んだ」
「……う、うん」
あえて、さようならは言わない。
神妙な空気は、少なくともセツとヴィクターの間には似合わない。だから、最後はあっさりとした別れがちょうどいい。
そのまま振り向かずに出入り口へ向かうセツに対して、ミアはどこか後ろ髪を引かれる思いで、ちらりとヴィクターを振り返った。
未だ不信と戸惑いを含んだ幼い眼差しだったが、セツが扉に手をかけると、前を向き直り、彼の背にぴたりと寄り添う。
ギィ──。
重く軋む扉を押し開けた瞬間、冷たい外気が肌を撫でた。
さきほどまで籠もっていた薬草とアルコールの混じった匂いが、まるで服の内側に染みついたかのように、いつまでも消えなかった。
「世話になった。先生」
セツが扉を閉める直前、一瞬だけ見えたヴィクター横顔。
その目が、真紅に光った気がした。
◆◆◆
ギィ……バタン。
扉が閉まる音が遠ざかると、診療所には再び、重苦しい静寂が戻ってきた。
ヴィクターは椅子に腰かけたまま、しばらくのあいだ微動だにせず、ただ天井を見上げていた。
誰もいなくなった空間には、薬草と消毒液の残り香がわずかに漂っていた。
やがて彼は、きしむ音を立てながら重たい体を椅子から持ち上げると、診療所の奥、ひび割れた窓の傍へと歩み寄った。
窓越しに見えるのは、煤けた路地を背にして並んで歩く、二つの小さな背中。
ヴィクターは、ガラス越しにその姿を見届ける。
「……強く生きろよ。少年」
ぽつりと、声が漏れる。それは届くはずもなく、ただ古びた診療所の壁に染み込んで消えていく。
「さて……そろそろ、俺も潮時かねぇ……」
寂れた空気を裂くように、独りごちたその声には、どこか言い知れない安堵が混じっていた。
「果たしてあの女は聖女か、魔女か。それこそ神のみぞ知る、か」
ゆっくりと立ち上がると、ヴィクターは診療所の明かりをひとつ、またひとつと落としていく。
光の消えた部屋には、暗がりと静けさ。
そして、遠くへ歩いていく足音の余韻だけが、残されていた。




