9話『盲目の信頼』
深いため息を吐くと、ヴィクターは錆びついた器具が乱雑に並ぶ作業台へと向かった。
背を向けたまま、彼は燻んだ色をしたガラス棚の扉を開き、中から取り出した小瓶。その中は──どろりとした赤黒い液体が鈍く光を反射しながら揺れている。
「……“例の薬”ねぇ。お得意様からの直接依頼とあっちゃ、俺としては断る理由もないが……」
ボソリと独り言のようにぼやきながら、年代物のビーカーや茶色く染まった乳鉢、目盛りの掠れたシリンダーを次々と取り出し、手際よく並べていく。
いずれも年季の入った器具ばかりだった。
「今から作るのか?」
「なぁに。調合に時間はかからんよ」
セツの問いに気怠げに返しながら、ヴィクターは瓶の液体を慎重に計量し、別の容器から蛍光色の粉末をひとつまみ──それらをビーカーの中へと投入した。
途端、紫色へと変色した薬液が泡立ち始め、ぷち、ぷちと不規則な音を立てながら弾ける。まるで意思を持った生き物のように、怪しく蠢いていた。
「げぇ!気持ち悪りぃ色してんな。ソレ……何の粉なんだよ」
「企業秘密だ」
「チェッ、教えてくれたっていいのに、ケチだな!」
「門外漢が知っていいもんじゃないからな」
セツの悪態を軽く受け流し、ヴィクターはアルコールランプに火を灯すと、ビーカーを固定して薬液を加熱しはじめた。
しばらく加熱すると、泡立つ薬液が徐々に落ち着き、やがては透明に近づいていった。代わりに鋭く鼻を突く刺激臭が室内に広がる。
「うぅ……くさいぃ……」
ミアが顔をしかめて鼻を押さえる。
その子どもらしい素直な反応に、ヴィクターは苦笑した。
「効く薬ほど臭いも強いものさ、お嬢ちゃん」
「──っ!」
まさか話しかけられるとは思わなかったのか、ミアはびくりと震え、慌ててセツの後ろに隠れた。
しばらくは落ち着かない様子で室内をきょろきょろと見回した末、その視線はやがてヴィクターの痩せこけた横顔で止まった。
無精髭に、清潔感のないボロボロな身なり。
見るからに怪しげな風貌。
幼いミアの目に映る彼の姿は、どう見ても“医者”というより“ならず者”に近かった。
「……ねぇ、セツ。本当にその……、この人と……お知り合い、なの?」
「まあ、ミアが知らねぇのも無理はねーよ」
控えめながらも、不信感に満ちたミアの問いかけ。
いまだに警戒を隠せない少女の様子に、セツは肩をすくめ、少し懐かしそうに続けた。
「ミアがヘイルシャムに来る前の話だ。昔、ヴィクター先生は子どもたちの定期検診でよく来てたんだ」
「えっ、そうなの?」
「ああ。街の医者って言えば、この人くらいしかいなかったしな」
そこで言葉を切ったセツの瞳が、どこか遠くを見るように細められる。
「それに……ヴィクター先生にはあのときも、お世話になったしな」
「……あのとき?」
「実はオレ、昔にさ、色々あってこの街の連中どもからボコボコに袋叩きされたときがあったんだよ」
「えぇ!?だ、大丈夫なの!?」
「…………まぁ、正直に言うと大丈夫じゃねーけどよ、でも、その時治療してくれたのもヴィクター先生なんだぜ。マザーが呼んでくれてな」
セツの回想に仰天しているミアの様子はさて置き、それまで黙々と薬の調合を進めていたヴィクターが、ふいに顔を上げ、かすかに口角を上げた。
「よく覚えてるな。少年。あの時ゃひどい有様だった。肋骨、二本はイかれてたぞ」
「忘れられるかよ。死ぬほど痛かったんだぜ」
軽い調子で話すヴィクターに、セツは歯を食い縛りながら首を振った。
「ってなわけで、実はオレ、これでもけっこう感謝してんだぜ?ヴィクター先生にも、あと……数週間ずっと付きっきりで看病してくれたマザーにもな」
「ふふ、ママ、セツのこと大事だったんだね」
「オレだけじゃねぇよ。ミアも含めて、マザーはヘイルシャムの子どもたち全員を大事にしてくれてんだ。昔も、今も」
「えへへ。それもそうだね!」
照れくさそうに言い括るセツに、嬉しそうに賛同するミア。
しかし、そんな微笑ましい光景に対し、ヴィクターは鼻を鳴らし、薬瓶の蓋を閉めながらぼそりと呟く。
「……大事、ねぇ。本当に大事に思ってるなら、こんなお使いをお前さんたちに任せるかね」
そのセリフには皮肉とも苦言ともつかない棘があった。それに気づいたセツの眉がぴくりと動いた。
「……何が言いてぇんだよ」
睨むようなセツの顔にある感情に気づき、ヴィクターは小さな溜め息をついた。
「お前さんならもう知っているだろ。少年。この街がヘイルシャムをどういう目で見てるか。──それを、あの人も知ってるはずだ」
ハッとして、声に詰まるセツを見据えて、ヴィクターは言葉を継ぐ。
「なのに、だ。ヘイルシャム出身の子どもふたりを、こんな偏見に満ちた危険な街に寄こす。昔から腹に一物抱えてる女だとは思っていたが……はて、何を考えているのやら」
それは、明らかにマザーシプトンへの非難だった。そして、それを聞かされたセツの反応は劇的で、
「やめろよ!マザーをそんな風に言うなよ!!」
聞き捨てならないとばかりに、突然彼は椅子を蹴って、勢いよく立ち上がった。
そのセツの挙動にミアが驚く中、セツは大きく手を振りながら、
「マザーだって好き好んでオレたちに任せたわけじゃねーんだ。そりゃ最初はすんげぇ渋ってたさ!たけど、オレとミアが困っているマザーの役に立てたくて、そんで無理を言って、お使いを申し出たんだよ!」
早口に、声を荒げるセツの擁護に、ヴィクターは冷静に告げる。
「それでもだ。本当にお前たちの安全を考慮するのであれば──マザーシプトンは最後までその願いを拒むべきだったのだ」
その渇いた指摘に、ハッと気付いて愕然と顔を強張らせるセツにヴィクターは小さなため息をつき、
「そういう意味では、あの人は保護者として──失格だな」
その苛烈な言葉に、セツは反応することができない。それほど、彼にとって衝撃をもたらしていた。
今日までセツはこの医者に、少なからず好印象を抱いていた。
無愛想ではあるものの、偏見持たずに対話してくれる数少ない大人であったこともそうであるし、その後の関わり合いにおいての人となりからもそうだ。
話していて意外にも気さくで、筋の通った人物であるし、セツとしては接することが苦にならない男であると思っている。
一方で、基本無関心なヴィクターの口から、他者を難じる言葉がこうもあっさり出たことが意外だった。
それも、セツにとっては聞き過ごすことのできない恩人の女性への糾弾が。
「さっきから好き勝手に言いやがって!先生にっ、マザーの何がわかるってんだッ!」
だから、今度こそ、怒りのままに爆発しよたセツは喉を絶叫が駆け上がる。
だが、その幼い激情をぶつけられたヴィクターはなおも表情を変えず、肩を竦めた。
「おや、癪に触ったか。そりゃ悪かった。何もお前さんを怒らせたかったわけではない」
「……ちっ」
誠意の感じられない謝罪ではあったが、セツはそれを落とし所として渋々と矛を収める。が、そうして意気を引っ込めるセツに「だがね」とヴィクターは息を継ぎ、
「ここだけの話。少年。お前さんとて薄々気づいてるんじゃないか? あのマザー・シプトンって女が、ただの“修道女”じゃないってことに」
「……っ、マザーの予言のことを言ってるのか?」
「その通りだ。この街でも有名な話だ。“神の声を聞く女”だってな。一部では“魔女”とも言われている」
唐突に、そんなことを語り出すヴィクター。
彼は訝しげに瞳の色を変えるセツの、その奥を覗き込んだまま、
「だが、神の声を聞く者は、神の側の人間とは限らない。あの人とはそれなりに長い付き合いではあるが、未だに彼女の“信仰”が、誰に向けられているのかは……俺にも分からんがね」
「……先生が何を言ってんのか、さっぱりわからねぇんだけど」
言いたいことがわからないセツは眉を寄せるばかりで、それを受けたヴィクターははっきりそれとわかる哀れみを双眸に宿して、目を伏せた。
「──さすがに子どもには難しい話だったな。まぁ、気にすんな。世の中には知らない方が幸せなことのが多い……」
言葉尻を濁すその言動に、セツの胸には説明のつかない騒めきが走ったが、それを振り払うように首を振り、唇を噛む。
「とにかく……マザーはマザーだ。オレたちみんなの母親みたいな存在なんだ。それ以上でも以下でもねぇよ」
鋭い視線でヴィクターを見つめて、セツは低い声で告げる。その毅然とした態度に、少しだけ目を丸くしたヴィクターが、たっぷりの間の後に喉の奥で笑った。
「ほう、信じるか。──それも、よかろう。あの人に拾われた命なら、なおさらな」
そう言って、ヴィクターは仕上がった薬瓶を掲げる。
「だが、忘れるなよ。少年」
薬瓶の中で光がゆらりと反射し、琥珀のようにきらめいた──その色が、セツの瞳の色と重なる。
「盲目の信頼は時に、一番大事なものを失うのさ」
セツは、自分がいつのまにか、手に汗を握っていることに、ようやく気付いた。




