7話『悪意を知った日』
記憶喪失で、まだ何も知らない子どもだったから。
孤児院に拾われたセツは当初、自由奔放でめったに泣かず、実によく笑う子どもだった。
人は笑いながら幸せに生きて、やがて寿命を迎える。
──そう信じて、疑わなかった。
狭い箱庭で与えられた人の優しさと温もりを享受し、大好きなマザーと血の繋がらない兄弟姉妹たちに囲まれて、いつまでも笑っていられるものだと、本気で思っていた。
しかし、
『化け物め!!』
それが当たり前の事ではないと、思い知らされたのは七つの頃──セツが初めて、孤児院の外へ出たあの日だった。
その日は、とても天気が良かった。
薬草を切らして困っていたマザー・シプトンのために、セツは内緒で孤児院の裏口からこっそりとひとりで抜け出した。
当然、本来であればそれは褒められたことではないが、マザーの助けになれると思えば、不思議と罪悪感は薄れた。
籠を抱えて、森を抜け、舗装された石畳の道に出たときは、胸が少し高鳴っていた。
森の空気は清らかで、草花の香りに満ちていた。風に揺れる葉音が子守歌のようにやさしく耳を撫でる。
セツは小さな手で薬草を摘み、ポイポイと籠に入れていった。
土の匂い、草のざらついた感触、青空に透ける光。そのすべてが心地よく、胸の奥を穏やかに満たしていった。
(マザー、喜ぶかな……)
思わず頬がゆるむ。
摘んだ薬草の間から、小さな野苺がのぞいた。そのみずみずしい赤い色に惹かれたセツは思いつく。
──そうだ。マザーや子供たちへのお土産に、たくさん苺を買って帰ろう。
そう決めて、籠を抱えたまま森を抜け、丘を下りて街へと向かった。
本当は、街に一人で行くことは禁止されていた。
けれど、“みんなのため”という大義名分がセツの背中を押す。
──それに、ただ純粋に、外の世界を見てみたかったのだ。
◆◆◆
「……ま、毎度あり……」
店主の声はどこか引きつっていたが、セツは気づかなかった。
潰れないように苺を布で包み、籠に大切にしまい込む。
昼下がりの街は、春の陽射しに満ちていて。石畳は光を跳ね返し、輝いていた。
賑やかで、人々の笑い声に満ちている。
乾いた車輪の音。
商人の掛け声。
パン屋の香ばしい匂い。
子どもが走る足音。
幾重もの音が入り混じり、雑踏は一種のうねりを作っている。
そのすべてが新鮮だった。
孤児院という小さな世界しか知らないセツとって、まるで冒険のようなもので、ただ歩いているだけで心が躍った。
一方で──セツの姿は、周囲の人々の目を引いていた。
白銀の髪。
鮮やかすぎる黄金の虹彩。
そして、黒であるべき瞳孔までもが、琥珀色に染まったその双眸。
まさに、人の常識ではあり得ない──美しさよりも「異質」が強烈に映えるその風変わりな容姿は、群衆の好奇と恐怖、そして、偏見を呼び寄せる。
そして、
「ヒッ……!?」
ふいに、引き攣った声が背後で上がる。
振り向いたセツの視線の先で、ひとりの老婆が立ち止まり、彼を凝視していた。
その目が驚愕に見開かれ、やがては徐々に怯えたように顔を歪ませた。
「……お前さん……その容姿…!……ああ、なんておぞましい……!」
それが他者を貶める言葉であると気づいたのはどれくらい時間かかったのだろう。
セツは籠を抱えたまま立ち尽くす。
緊張と困惑で胸の鼓動が、どくり、どくりと速くなる。
そんなセツと正面から向き合う老婆の双眸に、今度ははっきりそれとわかる畏怖の感情を浮かべた。
「あぁああ!不吉じゃ!悪魔の子じゃ……!」
その叫びが、引き金になった。
最初は小さなざわめき。
だが、それは瞬く間に、負の連鎖となって、群衆へと伝播していく。
「コイツ見ない顔だな。きっとあのイかれた孤児院のガキだ……っ!」
「奇異なナリしやがって、気色わりぃな」
「悪魔だ!悪魔の使いに違いないわ……!!」
セツに視線を注ぎ、足を止める人々。
各々が唇を嫌悪感に曲げて、語気も荒々しく言い捨てる。
そのただならぬ不快感を剥き出しにした彼らの態度にセツは思考が止まる。が、すぐに彼の言の内容が脳に浸透すると、
「……ち、違う。オレは──」
なんとか否定の言葉を絞り出したその時だった。
──ヒュッ。
セツの頬をすれすれに掠めた小石が、カランと乾いた音を立てて転がる。
「……え……?」
何が起こったのか理解する間もなく、今度は四方八方から次々に石が飛んできた。
「いっ…!?」
こめかみを打つ鈍い衝撃。鋭い痛み──視界が揺れる。
反射的に腕を上げて身を守るも、容赦なく頬に、肩に、無数の痛みが走る。
「やめ──っ!」
口から漏れ出た弱々しい制止の声を、怒号が掻き消した。
「化け物め!」
「悪魔の子はこの街に近寄るんじゃねぇ!」
「あの忌々しい魔女のところへ帰れ!!」
罵声が飛び交い、石の雨が降り注ぐ。
幼い耳には、憎悪の叫びが突き刺さる。増幅していく敵意が肌を刺すのを感じた。
なぜ罵られるのかも、どうして恐れられるのかもわからない。
ただ痛みと恐怖と混乱の中で、セツは籠を抱えたまま逃げ出そうとした。
──しかし、今度は鈍い更なる衝撃が彼の肩を打った。
ごろりと転がる大きな石。同時に、セツの小さな体も地面へと叩きつけられるように倒れ込んだ。
駆け寄ってきた足音。
だが、無慈悲にも、それはセツの身を案じたり、助け起こすためのものではなかった。
すぐに駆け寄る足音が聞こえた。
だが、無慈悲にも、それは決してセツを心配したり、助けるためではなかった。
「がはっ──っ!」
足音がぴたりと止また途端に、セツの腹に衝撃が走った。
息が詰まり、喉の奥から声にならない呻きが漏れる。
その後はもう、怒涛なる痛みの嵐だった。殴られ、蹴られ、吐き、血の味が口に広がる。
人の形をした“悪意”が、セツの幼い心を滅多刺しをしていく──
やがて、痛みがどこから来ているのかもわからなくなった。
世界が赤黒く滲んでいくにつれ、群衆の怒号が遠くなる。
◆◆◆
──ようやく暴力が止んだ時、空は夕暮れに染まっていた。
セツは地面に突っ伏したまま、動けずにいた。頬に触れる土の冷たさが、唯一、現実を繋ぎ止めていた。
全身が痛い。いや、それ以上に心が痛かった。
遠巻きに見下ろす人々の目──
恐怖と蔑み、そして生理的嫌悪感。まるで、路上で轢かれた小動物を見るような目。
そのおぞましい視線から逃れるために、セツは最後の力を振り絞って立ち上がり──籠を抱えたまま、駆け出した。
何度も転び、膝を擦りむき、息が切れても走った。
「二度と来るな!悪魔が!」
背後から追いかけてくる罵声が、いつまでも耳から離れなかった。
ようやく森にたどり着き、誰もいない木陰に座り込む。
掌には、砕けた薬草が散らばっていた。
頬に触れると、ぬるりと血がついた。
息を整えようとしても、嗚咽が喉を震わせる。
──化け物。
──悪魔の子。
それが何を意味するのかも、わからなかった。ただ、その言葉が冷たい刃のように心に突き刺さった。
セツが異常なのか。それとも、髪や瞳の色だけで迫害するあの街が異常なのか。
無知で幼い思考の循環は、結局、答えを出せなかった。
──夕暮れの森でうずくまるセツを、マザー・シプトンが見つけたのは、日が沈むころだった。
自失していたセツを、彼女が強く抱きしめてくれたのを覚えている。
泥だらけで汚れても、無様に震えていても、シプトンの腕の中は変わらず温かかった。
「……あなたは、何も悪くないのですよ」
森のざわめきに溶けるその言葉が、唯一の救いだった。
セツが声を上げて泣いたのは、この日が最初で──そして、最後だった。
この日を境に、彼は変わった。
──笑わなくなったのだ。
人の善性を信じていた無垢な子どもは、もうどこにもいなかった。




