6話『街へ』
「では、頼みましたよ。くれぐれも道中お気をつけて。それと──なるべく人目につかないようにね」
その忠告を胸に、見送るシプトンに行ってきますと告げたセツとミアは街へ向かった。
孤児院〈憩いの家〉は、街のはずれにあり小高い丘に建っている。そこから街へ向かうには、必ず森を抜けねばならなかった。
朝の森はしんと静まり返り、涼やかで清涼な空気と木漏れ日が差し込む森の中は爽やかな気で満ち満ちている。
遠くで小鳥の囀りが高らかに響き、それに混じって、風に揺れる木々のざわめきが心地よく重なる。
「やっぱり森って気持ちいいよね。空気も澄んでるし」
道の両脇には鬱蒼と茂る樹々。
元より人の往来が少なく、獣道とまではいかないが、整備されていない森の道はかなり荒れていた。
それでも、時おり幹の間から顔を覗かせる小動物や、所々に咲いている野の花は、目を楽しませてくれる。
「こうしていると、なんだかピクニックでもしている気分になってきちゃうねっ!」
もはや鼻歌でも出てしまいそうなほどご機嫌なミアは、小道を跳ねるように進みながら、振り返る。
「虫ばっかで鬱陶しいけどな」
「もう。セツはいつもそう言うけど、ここの道の景色、そんな嫌いじゃないんでしょ?」
「……さぁな」
セツは一瞬だけ遠い目をすると、素っ気なく返す。
どこか翳りのあるその双眸には、差し込む木漏れ日を反射した緑の光が淡く映り込んでいた。
だが、それは目の前に広がる森の長閑な景観ではなく、それを通り越した──遠い彼方を見つめているようだった。
だが、そんなセツの様子に気づかないのか、
「──あっ、みてみて!」
何かを見つけたミアがふいに足を止めて指さす。
すると、頭上を小さな群れの鳥が横切っていった。青い羽を広げ、森の外、街の方角へと飛んでいく。
ミアはその姿を目で追い、口元に笑みを浮かべる。
「ほら、鳥さんも街に行くみたい!わたしたちの案内役かなぁ?」
「鳥に道案内頼むとか……ミアもまだまだガキだな」
そう言いながらも、ミアの無邪気の言動に、セツの口元はわずかに緩んでいた。
二人は再び歩き出す。
森を抜ければ、石畳の街道が現れる。そこから先は、人気のある街の入り口へと続いていく。
目的地が近づくにつれ、セツの胸には、さっきマザー・シプトンが口にした言葉が過ぎる。
『あなたの場合、あまり街へは顔を見せない方がいい』
握られた拳には、ぎゅっと力がこもる。爪が沈むほど強く──
言葉にするにはあまりにも重く、思い出すのさえ躊躇われるような「あの時」の記憶が今でも、彼を支配している証拠だ。
陽光に包まれる明るい森の小道。
それなのに、セツの胸の奥には、じわりと不穏な影が広がり始めていた。
──その時。
「……ねえ、セツ」
「あ?」
「そういえばさっき、ママが街に行かないほうがいいって言ってたよね。……あれってどういう意味? なにかあった?」
ドキリとした。
ミアのことだ。詮索ではなく、何気ない好奇心での問いかけに過ぎない。そのはずなのに、胸の奥を突かれる。
しばし、セツは口ごもる。
そして、軽く目をつむってから──、
「…………別に、大したことじゃねぇよ」
“大したことじゃない”というような態度には思えなかった。
しかし、つっけんどんなセツの返答には、ミアのわずかな懸念を取り除いてあげようという心遣いに溢れていた。
とはいえ、当然それだけではミアが腑に落ちるわけもなく、
「でも……なんか、気になるんだもん」
少しだけむくれ、食い下がろうとするミアの視線を避けるように、セツは深いため息を吐いて、大げさに肩をすくめた。
「いいから気にすんな。とにかくオレが行くって決めたんだ。ガキのお前を一人で行かせるわけにもいかねぇしな」
どこか有無を言わせないような雰囲気に、ミアはやや身じろぎすると、それから小さく笑う。
「ふふ。やっぱり優しいね。セツは」
「だからちげーよ。そういうのやめろ」
そっぽを向いたセツは、自分の胸のあたりまで身長が伸びたミアの頭を無造作に撫で回す。よく見ると──彼の耳がほんのり赤く染まっていた。
そんなやり取りをしながら、周囲、ふいにそれまで生い茂っていた木々の流れの間隔が開き始め、自然が人の営みに切り開かれた形跡が生まれ出す。
次第に蹴る地面にも踏み固められ続けた故の感触があり、ついに二人は街の門にたどり着いた。
「……」
セツはしばらく、門の前に佇んでいた。
不安が、喉を掻き毟りたくなるような不安がセツの全身を支配していた。
「セツ、立ち止まってどうしたの? 早く行こうよ〜!」
なかなか進もうとしないセツを不思議に思うも、クス、と目尻を落として明るく笑ったミアは、セツの答えを聞くことなく、街の中に足を踏み出した。
セツはその小さな背中を数秒遅れて追う。
張り詰めた緊張感に喉が渇き切りそうだった。
そして──そんなセツの感情は、決して杞憂ではなかった。
◆◆◆
街の門をくぐった瞬間、前を向いたミアはわあと歓声を上げた。
「すご〜い!なんだか楽しそう!」
一度も孤児院の外へ出たことがない彼女が商店街の賑わい様にが惹かれるのは当然だったのである。それだけにもちろん、人も多い。
──しかし。
「ねぇねぇ、セツ!せっかくだし、ちょっとだけ色々見てみてもい、......?」
そう訊こうとした矢先、ミアはセツの表情の変化に気がついていた。はっきりとしたものではないが、ミアの目には確かに映ったのだ。
「......セツ?」
必死で動揺を隠そうとしているようだったが、それでもミアがセツに見つけたのは──焦燥。
どうしたの、とミアがもう一度問う間などほとんどない。
──なぜなら、ミアの思考が追いつく間もなく、"それ"はもう起こっていた。
「え......?」
──呟いたのはミア。
ぞくりと背中を這い上がってきた悪寒がミアを振り返らせる。セツの足は動かなくなった。
それは恐らく、"それ"に既に取り囲まれていたがゆえに────
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二人を襲ったのは、無言の視線の数々だった。
ドクン、ドクン。
明らかに一変する街の空気に、心臓が高く速く鳴り、セツはじっとりと背中が汗を掻くのに気付く。
堪えるようぶ瞑った瞼の裏には、別れ際のマザーシプトンの表情が浮かぶ。
『なるべく人目につかないようにね』
街は──決して、優しいところではありませんから。
あの時の、拭い切れぬ憂慮に湛えたシプトンの表情は、すでにこの異様な状況に答えを出したのだ。
ああ、そうだ──セツは思う。
この街は、何も変わらなかった。
いつだって、セツにとっては優しくはなかった。
──今も。あの時も。




