5話『薬不足』
腹が鳴った。
「腹減ったぜ...」
寝坊したセツはすっかり朝食を逃したせいで、ふらふらと食堂へ足を運んでいた。
食べ損ねた分、食堂で何か残っていないかとこれから物色するつもりなのだ。
「もう…セツってば、またキッチンの食べ物漁るつもりでしょ!決まったご飯の時間以外食べるのは良くないんだよ」
後ろから小走りで追いかけてきたミアが、呆れたように声をかける。それをセツは肩をすくめて返した。
「仕方ねぇだろ。最近変な夢ばっか見てて寝過ごしたんだからよ」
「はいはい。言い訳も良くないよ〜」
そんな会話しながら二人は食堂に入ると、ひんやりした朝の空気が残っていた。
木製の長机の上はきれいに片づけられ、食べ物の影はどこにもない。
「……やっぱ残ってねぇか」
「お昼まで我慢だね」
「んな時間まで待てるかよ」
ミアの言葉をあっさり切り捨てて、セツはキッチンの奥へ足を踏み入れる。
そのとき──小さなため息が聞こえた。
不思議に思って覗き込むと、戸棚を開け放したまま立ち尽くす後ろ姿があった。それはグレーアッシュの髪を垂らした、マザー・シプトンだった。
「……やはり、もう残りはこれだけね……」
そう小さく呟く声は、普段の落ち着きとは違い、どこか思い詰めているようだった。
「ママ……?」
ミアが恐る恐る声をかける。
シプトンは小さく肩を揺らし、ゆっくりと振り返った──その手には、底の見えた大きな薬瓶が握られている。
「あら。おはよう。ミア。セツを起こしてくれたのね。ありがとう」
微笑みを浮かべてはいたが、その表情からはわずかな翳りは消えなかった。
「……どうしたんだよ、マザー。顔色、悪いぞ」
セツは眉を寄せ、声をかける。シプトンははっと目を丸くし、すぐに穏やかな笑みを作った。
「大丈夫よ。ただ──少し薬が足りなくなってしまってね」
「薬?」とミアが首を傾げる。
マザーは静かに頷き、瓶を持ち上げて見せた。残った僅かな中身の液体が揺れる。
「孤児院の子たちの中には体の弱い子もいますから……常備しているお薬が欠かせないのです。けれどもう手持ちがなくて。街のお医者さまのところへ分けてもらいに行かねばなりません」
「へぇ……」
セツは腕を組み、興味なさそうに目を細めた。そんな無関係な態度をよそに、隣のミアが勢いよく声を上げる。
「じゃあ、わたしとセツでおつかい行ってくる!」
「はぁ!?おい、ミア!勝手に決めんなよ!」
セツが思わず声を荒げる。けれど、ミアは怖気づくどころか、まっすぐな瞳で言い返した。
「でも、ママが困ってるでしょ? セツだって、ママのこと助けてあげたいでしょ?」
「……っ」
図星を突かれ、セツは口をつぐむ。やがて仕方なく頭をかきながら、ぼそりと呟いた。
「……チッ。しょうがねぇな」
渋々返すと、ミアは嬉しそうに手を打った。
「決まりだね!やっぱりセツ、優しいんだから」
「はいはい。調子のいいこと言ってんじゃねーぞ」
二人のやり取りを見守りながら、マザー・シプトンはふわりと微笑む。
「ミアもセツもありがとう。とても助かるわ」
しかし──ふいに、その柔らかな表情を一転、 どこか憂慮に満ちた雰囲気を纏った。
「でも……いいのですか、セツ。あなたの場合、あまり街へは顔を見せない方がいいと思うのだけれど」
その慮るような言葉を聞いて、首を傾げるミアの反応をよそに、セツは金色の瞳を細めた。
一瞬だけ、訪れる沈黙。
それもシプトンの気遣わしげな視線に気づいた刹那、セツは意識を切り替えるように小さく息を吐き出した。
「あ?別に心配する必要ねーよ。オレはもういつまでも引きこもるガキじゃねぇんだ。おつかいくらいできる」
刹那の濁った感情を即座に表情の裏側に隠すと、言い繕うように笑みを浮かべ、
「マザーはここから離れられねぇし、ミア一人で行かせるわけにもいかねーだろ?今この孤児院の年長者は、オレしかいねぇんだから」
事実、数年前はもっと沢山の同い年の子たちがいたのだが、ほとんどが里親の元に引き取られて、残ったのはセツだけ。
十五になるまで里親に引き取られず、ずっと孤児院に残されているセツは、今では唯一の最年長である。
「だけど……」
まだ渋るシプトン。
その直後、セツの腹が盛大に鳴った。
「……と、その前になんか食わせてくんね?」
マザーは思わず目を瞬かせ──やがて小さく苦笑した。
「あらあら。しょうがない子ね」
少し張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ。




