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2話『絵本の時間』

 

 朝の光がステンドグラスを透かし、床に淡い色の模様を描いていた。


 ここは礼拝堂ではあるが、町の人々は町にあるご立派な教会へ行くため、こんな街外れにある辺鄙なところにわざわざ来ない。

 主に子供たちとマザー・シプトンだけが祈る場所なのだ。

 

 

 その礼拝堂の隅っこには、大きな本棚が並び、たくさんの本が収められている。


 その中には絵本や歴史書がざっくばらんに並んでいて、子どもたちが本を手に取ったり絵を描いたり、ちょっとした遊戯などに利用する場所にもなっているのだ。


 お祈りの時間を終え、静寂に包まれたその空間では、孤児院の子どもたちはお行儀よくチャペルチェアに並んで座り、その中心にマザー・シプトンが古びた絵本を手にしていた。



「さ、皆さん。そろそろ絵本の時間ですよ」



 柔らかな声に促され、子どもたちは素直に背筋を伸ばした。


 セツは、いつものように重たい腰を上げ、最後尾の列に加わる。彼の横には三つ編みをした栗毛の少女、ミアがぴたりと寄り添う。


 ミアは九歳ほどの年頃の少女で、栗色の髪を胸元まで垂らしている。両側で丁寧に編まれた二本の三つ編みは、年相応の幼さと無邪気さを滲ませていた。




「今日も《聖書の物語》を読みましょうね」



 シプトンが手にしたのは、表紙に金の箔押しが施された大きくて分厚い絵本だった。

 古びた紙からは微かにラベンダーの香りが漂い、何度もめくられた痕跡が、長年慈しまれてきた証のように残っていた。


 ──最初のページが、静かにめくられる。



「昔むかし、神さまは世界を創られました。そして、最初の人間であるアダムとエバをエデンの園に住まわせました……」



 シプトンの落ち着いた朗読の声が、教会の高い天井に穏やかに響き渡る。

 


(あーあ……またかよ)



 もう飽き飽きだと言わんばかりに、セツは辟易(へきえき)そうに眉をひそめた。


 毎週のように繰り返される内容。


 幼い子供たちにとっては楽しいかもしてないが、セツからすれば、この時間はただの退屈な儀式にしか思えなかった。


 ──それでも。


 聖書に最初に登場する人物たちが、かつては自分の両親だったと思えば、完全に他人事とも言い切れない。


 やさぐれた気持ちとは裏腹に、耳は自然とシプトンの声を追っていた。



「けれど、女のエバはヘビの言葉に唆され、ついに禁断の果実を口にしてしまったのです。──神の戒めを破ったアダムとエバは、楽園から追放され……」



 穏やかな語り口で綴られる──禁断の果実と失楽園の物語。



(こうして親父と母さんの話を“お伽話”として聞くのも、妙な気分だ)



「……楽園を追放されたアダムとエバは、最初にカインとアベルという二人の子を授かりました。けれど、兄のカインは弟アベルを妬み、ある日、野に誘い出して……」



 心なしか、シプトンの声が一瞬だけ陰を孕む。


 その一節で、今、一瞬だけ、未知なる違和感を覚え、セツの胸の奥にきゅっと痛みが走った。


 どこに違和感がある、というのはイマイチ判然としない。


 しかし、どこかに確実に違和感があったのだ。


 だが、その未知の感覚はシプトンが物語を読み進めるうちに霧散してしまった。


 相変わらず子どもたちは身を寄せて熱心に物語に耳を傾けていた。

 

 そして、ページがもう一度めくられた。


 


「……けれど、アダムとエバはその後、もう一人の男の子を授かります。その子はのちにわたしたち人類の始祖であり、その名は──“セツ”」



 ──その瞬間。


 セツは、ドキリとした。


 それは紛れもなく、自分の名だった。



「──あっ!セツと同じ名前だね!」



 ミアが勢いよく身を乗り出し、きらきらとした目で隣のセツを見る。


 周りの子どもたちも一斉にこちらを見る。予期せぬ注目に、セツは視線を逸らし、それを切り捨てるようにぶっきらぼうに返した。



「いや、偶然だろ。そこまで珍しい名前でもねーし」



 肩をすくめ、うんざりしたように見せながらも、その内心では動揺を隠せなかった。


 セツは恩人であるシプトンにも共に育った弟妹たちにも誰にも、素性を明かす気はさらさら無かったのである。

──その決意は固い。


 いくら相手が純粋な子どもとはいえ、この時代の存在ではない──ましてや子どもにとってはお伽話でしかない聖書に登場する同一人物であることをここで赤裸々に語ったところで、一笑に付されそうな話でしかないし、冗談だと受け止められるのがオチだ。


 憮然とするセツが唸る様子を見て、シプトンはゆっくりと絵本を閉じ、ふわりと微笑むと、



「セツ。世の中には偶然などありませんよ。あるのは──“必然”だけですから」


 そう告げる声は、静かに空気を撫でるように響く。


 セツの金色の瞳が、大きく見開かれた。


 何も言えないまま、言葉を失ったように、ただ息を呑む。


 シプトンの言葉に、セツが意識を奪われていると、



「ほらー! ママもこう言ってるよ?セツってもしかして私たちのご先祖さまの生まれ変わり?」



 横から割り込んでくるミアがきゃっきゃっと無邪気に笑い、セツの腕をつつく。

 そこでハッと我に返ったセツは、大きくかぶりを振って、



「うげー!やめてくれよ。マザーまでそんなこと言うと、みんな信じちまうだろ」



 悪態をつき、まとわりつくミアを軽く突っぱねながらも、セツはふとシプトンと目が合った。


 マザー・シプトンの透徹な眼差しが、まだ自分を見ていた。


 まるで、すべてをお見通しのような瞳。


 そうして爛々と輝くに藤色に己を映されていると思うと、ひどく落ち着かなくなる感覚を味わうセツは思わず目を逸らした。



(……夢の内容、オレが“アダムの継承者”だったことまで、話してねぇのに)



 まさか、マザーは気づいているのか?


 そう思ってしまうほど、彼女の意味ありげな視線は──まるで「無関係ではない」と暗に告げているかのようだった。


 シプトンの言葉が、どれほどセツの真実を捉えていたのかはわからない。

 そして、今の発言がどういう意味なのか、と疑問を上げる隙間はセツには与えられていなかった。



「さて──次の話は、<ノアの方舟> にしましょうね」



 セツから視線を外し、何事もなかったかのようにページが再びめくられ、シプトンの語りが続く。


 最後は、罪に染まった人々の堕落と、神の天罰の話だった。



「そして神は、大洪水をもって世界を清めようとしました。唯一、正しき者ノアとその家族、そして地上の動物たちは──箱舟に乗って生き延びるのです」



 その瞬間、子どもたちの目がいっせいに輝いた。



「来たー!ノアだ!」「動物さんがたくさん出てくるやつだ!」


「きりんもいた!」「ペンギンもいたー!」



 今までと段違いな反応を見るに、子どもたちの中でも特に人気のあるエピソードなのだろう。


 カラフルに描かれた動物たちと大きな船の絵に、皆が一斉に興奮気味に覗き込む。


 マザーも楽しげにページを広げて見せながら、少し声に抑揚をつけた。



「嵐の中を越え、箱舟はついに──新たな世界へ辿り着きました」



(……新たな、世界)



 セツの胸が、小さく軋む。


 あの異次元の渦を越え、全てを喪失した終焉の地から辿り着いたこの新時代。


 まるで、自分もまた箱舟に乗せられた生き残りの一人のようだと、らしくもない感情移入をしてしまう。

 

 なんともいえない感傷を振り払うように、セツはふと、聖書の絵本に広がる最後のページに目を落とした。



 ──そこには、青々とした広大な海と、大きな虹が描かれていた。


 やけに、印象に残った。







 ◆◆◆






 

 聖書の読み聞かせが終わると、子どもたちはそれぞれの活動へと散っていった。小さな図書室に向かう者、朝の掃除を手伝う者、仲良く手をつないで庭に出る者──。


 ミアも嬉しそうに、「今日のキリン、前より可愛かったね!」と話しながら、セツの手を引いて先に行く。


 セツは「……お前が描いた絵の話じゃねーのか、それ」と呟きつつも、その手を拒むことなくついていった。


 やがて礼拝堂には、マザー・シプトンの姿だけが静かに残された。


 誰もいない教会に、柔らかな沈黙が落ちる。


 窓辺のステンドグラスは、まだ朝の残光を残して淡く光っていた。


 マザーは静かに席を立つと、先ほど閉じたばかりの絵本をもう一度開く。指先がすっと滑るようにページをめくり──“セツ”の名が記された箇所で、ぴたりと止まった。


 ページの上にそっと手を置いたまま、彼女はふ、と瞼を伏せる。



「……ようやく、目覚めるのですね」


 

 誰に語るでもなく、微かに呟いたその言葉は、空気のなかに淡く溶けた。

 教会の高窓から差す光が、彼女の銀髪を神々しく照らしていた。


 外では朝の鐘がもう一度鳴り響く。 

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