9話『仮初めの終局』★
背後に置き去りにした『幸福』は
今も遠ざかる。遠ざかり続ける。
それでも、
立ち止まることもせずに前へ進む。
──欲しい『未来』を手に入れるために。
無我夢中で走り続けて、どれだけ時間が経ったのかわからない。
息は荒く、足元はもつれ、転んだ拍子に口に入った草と土を吐き出す。頬を伝った涙は、汗と共に後方へと飛び散っていった。
それでも立ち止まることができずに、心の中をぐちゃぐちゃにしながら、セツは先を見通すことのできない闇を駆け抜ける。
──逃げた。
──たった一人だけ。
やがて力尽きたように、セツは膝をつき、そのまま地面に崩れ落ちた。
土は冷たく湿っていたが、汗まみれの体にはむしろ生温く感じられる。
──アズラは、今、どうなっているのか。
その問いが脳裏をかすめた瞬間、セツはかぶりを振る。
ダメだ、考えるな。思い出すな。
しかし、脳裏に焼きついた光景が、否応なく脳内に繰り返される。
暗闇の中へと引きずり込まれる、妹の細い体。
最後まで振り返ることもなく、ただ逃げた──薄情な自分。
「……ッ」
遅すぎる罪悪感が、胸の奥からこみ上げてくる。
──どうして、自分だけが生き残ってしまったのか。
──どうして、アズラを助けられなかったのか。
(それは、オレが弱いからだ……)
戦っても勝算なんてあるはずもない。
あのままでは、アズラも、自分も死んでいた。
逃げることは、きっと最善だった。
正しい判断だった。
──そう、どんなに自分の行いを正当化しようと言い訳したところで、
(見捨てたことには変わりない──!)
爪が食い込むほど、セツは拳を握りしめる。
何がいけなかったのか。どこで間違ったのか。わからない。もう、なにもかも。
ただ、アズラという最後の家族を手離してしまった今、セツの手の中には何も残っていない。
その現実の前に、こうして醜く生き延びようとしたことすらも、ばかばかしい抵抗──もはや滑稽とすら思えてきた。
膝をつき、激しい自己嫌悪で打ち敷かれていた時だった。
セツはふと、異変に気づく。
──霧。
それは突然だった。
静まり返った森の中に、どこからともなく白い霧が湧き上がる。まるで意志を持つかのように、ゆっくりと、じわじわと広がっていく。
気づけば、辺りの暗闇は白に覆われ、見渡す限り何も見えなかった。
冷たく、湿った空気が肌を這い、体温を奪っていく。
(……なんだ、これは……?)
セツは顔を上げ、ゆっくりと立ち上がる。
しかし、どこを見ても霧ばかりで、視界はぼやけていた。まるで森そのものが、霧に呑み込まれたようだった。
突然の環境の変化に、セツが途方に暮れていたその時──!
「──!?」
確実に、何かが近づいてくる。
白い霧の中──冷たく湿った空気を切り裂きながら、音もなく忍び寄る気配に、セツは息を呑んだ。
背筋を這うような戦慄。
理性が危機を叫ぶ前に、本能が先に警鐘を鳴らす。
足が勝手に数歩、後ずさる。
──見えた。
霧の帳がわずかに割れた瞬間、その「影」が輪郭を帯びた。
血に濡れた双眸が、霧の向こうで静かに煌めいている。
( ア イ ツ だ !)
セツは確信した。
姿は確認できずとも、あんな悍ましい赤い目をしているのは、あのイかれた道化師以外にありえない!
「なんで、お前が……あいつは、……アズラは?」
独り言のように、疑問が口をついて出たが、当然のようにそれに答える言葉はない。
「お前がここにいるってことは……つまり、アズラは……っ!」
その先の言葉は続けられなかった。
最悪の想像が喉元で詰まり、口にすることを本能が拒絶した。
不吉な紅い目もまた、冷ややかにセツを見下ろすだけだった。まるで次の標的を選ぶ狩人のように。何の感情もない、無機質な静寂。
それと目が合った瞬間、
セツの中の“何か”が崩壊した。
「う、ああああああああああああああああッ!!」
感情の堤が決壊する。
怒り、悲しみ、悔しさ、絶望──すべてが叫びとなって、喉を裂いた。
こんなに走って、全てを犠牲にして、逃げてきた。
なのに、どうして!
どうして、逃げ切れない!?
くだらない、つまらない、なにもなせない、救い用のない最低の生き様だった──!
そんなふうにセツが絶望に支配されている間にも、目の前に、一歩一歩、影が迫ってきている。
その手が、セツを“終わらせよう”と伸ばしてくる。
「やめろッ!!来るなァア!!」
終焉を押し付けようとしてくる運命を、心が、感情が、魂が、拒絶する。
もう、限界だった。
こみ上げてくる熱さがあった。
腹の奥でまた「何か」が疼いていた。
それが、命の危機に差し迫ったことに反応するように、悲鳴を上げていた。
「来るな!!あっちいけッ!!」
だが、影は止まらない。
セツは振り返り、霧の奥へと駆け出した。もはや何を目指すでもない。ただ逃げること、それだけが今の彼にできるすべてだった。
ああ、死の世界であるかのように静かな森だ。
セツの足音以外は何も聞こえない。霧が音を吸収し、消してしまっているのではないだろうかと思えた。
視界は極めて悪く、足がもつれ、転びそうになる。
必死で伸ばした手が、太い木の幹にしがみつく。ざらついた樹皮が手のひらに食い込む感覚が、わずかに意識を繋ぎ止めた。
「一体、なんなんだ……っ」
喉が痛い。体も、心も、すべてが痛い。
「オレに……なんの恨みがあるっていうんだよ……っ」
けれど、その痛みが、セツの中の何かを呼び覚ましていた。
──返せ。
──家族を。
──アズラを。
いつの間にか、恐怖は憎悪に代わり、セツは目の前の脅威に敵意を向けた。
「返せよ……!みんなを……返せよォオオッ!!」
その絶叫と同時に。
凄まじい速度で迫った衝撃が、セツの胸を真正面から捉えたのは────
「…あ?」
何が起きたのか理解できなかった。
セツの身体に、痛みとはまるで異質な冷たさが広がっていく。
恐る恐る、自分の胸を見た。
手が、セツの胸を──心臓を、貫いていた。
「…………は?」
何かが身体に入り込む、不快な感触。
皮膚を、骨を、内臓を──通過された奇妙な感覚。
いったい、何が起こっている。
今の状況に脳の処理が追いつけず、セツは間の抜けた声を漏らすだけだった。
痛みはなかった。
血も、流れなかった
それでも、受けた衝撃を思えば、それが「攻撃」であるとはすぐにわかった。
肉体ではない。肉体のさらなる奥底──人間の存在を形成する最も根本的な領域を蹂躙されているのだ。
「……が、は……」
それを意識した途端、眩暈と吐き気に襲われる。血の代わりに溢れ出す唾液が一気に喉から吐き出された。
視界が滲む。
息が──できない。
込み上げる熱と、自覚の遅すぎた侵蝕が全身に広がり、セツの全身から「意識」が流れ出していく。
「自分」が失われ、空っぽになる感覚を味わった。
その最期の瞬間。
「“──”」
セツは必死に目を凝らし、かすれる喉で、ひとつの名を呼ぶ。
──最期は、救えなかった『彼女』の名前を呼んだ。
「“────”」
自分にその名を呼ぶ資格はない。
でも、それでも──呼ぶ。
最期の最後まで、
もう二度と会えない彼女の名前を呼び、
呼び、呼び続けた。
呼び 続け、 た。
ぼくのことは許さなくていい
もし 生まれ変わったら
次は逃げずに 君と共に散ろう




