プロローグ『真夜中の逃走劇』★
『アイツ』は、家族を殺した。
血に染まった手で、炎に焼かれる家を背に立ち、低く囁いたのだ。
『お前はこの世界にいてはいけない存在なのだ』
暗闇の中、その言葉が何度も脳裏をよぎる。
──焼きつくように、
何度も、何度でも。
──なぜ、こんな目に遭わねばならない?
答えは分からない。
ただ、目覚めた瞬間からこの逃走は始まっていた。
森の奥に潜む殺意が、自分を狙っている。姿は見えずとも、気配が肌を刺すように伝わってくる。
「はぁっ、はぁ……っ、はぁっ!」
少年は荒い息をつきながら、深い森の中を駆けていた。
冷たい風が、森の木々をざわめかせる。
月光が黒々とした枝の間を縫って揺れた。
裸足の足が湿った落ち葉を踏みしめるたび、わずかに水音が響く。夜露に濡れた大地が冷たい。
しかし、立ち止まることは許されなかった。少年の胸は警鐘のように激しく鳴っている。
背後には何かがいる──音もなく、影のように忍び寄る何かの気配が。
いや、“何か”ではない。
──きっと、”アイツ”だ。
オレの家族を殺した。オレの大切なものを奪い上げた──アイツに違いない!そうとしか考えられない!
『──にげて!!』
未だに背後から聞こえる。血を吐くような少女の絶叫。
同じく家族を失った彼女の、身を裂くような懇願の叫びだけが後を追ってくる。
それから逃げるように逃げるように、耳を塞ぎ、頭を振り、声にならない声を上げながら、少年は全てを投げ出して走った。
走り続けた。
ここで死ぬ訳にはいかない!
だって自分は、すべてを置き去りにしてきたのだから──自分が、生き延びるために。
弱かった。どうしようもなく脆かった。
だから、ありとあらゆる感情も思考も蔑ろにして、自分本位に逃げ出している。
もうなにをすればいいのかわからない。
どこへ行けばいいのかも、どう考えるべきなのかも、全部。
ただ──、
「……っ、逃げなきゃっ……!」
歯を食いしばる。息が詰まる。
心臓が痛いほど鳴る。
諦めたら、殺される!
それではここまでの多くの犠牲が一瞬で無駄になる。それだけは、させない。
気づけば、月は雲に隠れ、あたりは不自然な霧に包まれていた。
その瞬間、
「!?」
少年の背後の闇が──裂けた。
「っ……!」
少年の前に、『何か』が、現れた。
突然だった。何の前触れもなく、霧が森の中で形を成すように。そこに”いる”としか言いようがない何かが、森の静寂の中に佇んでいた。
一切の情報をこちらに寄越す気がない──横暴とさえ思える暗闇のせいで、その輪郭の正体までは成さぬ『存在』。
逃げ道がない。
少年は息を呑み、数歩後ずさる。
「……来るな……!」
声に力はなかった。震えている。恐怖か、怒りか、それとも両方か。少年はそれを振り払うように、さらに奥へと走る。
足がもつれ、転びそうになる。必死で手を突き出し、太い木の幹にしがみついた。ざらついた樹皮が手のひらに食い込む感触が、かろうじて彼を現実につなぎとめる。
「一体、なんなんだ……!オレに、なんの恨みが……っ」
喉が焼けるように痛い。恐怖が心臓を締めつける。──けれど、心は理不尽な現実へ次第に憤怒を抱き始める。
──返せよ。みんなを、返せよ!!!
叫びそうになった瞬間、黒い指が、空間ごと塗りつぶすように迫ってくる。
闇が揺れる。
まるで少年の存在そのものを掴み取るかのように、静かに、確実に近づいてくる。
そして────直近になって、ようやく確認できた。
「……な、ぁ!?」
その、追撃者は──────、