雨降りリメンバー
雨が降るたび、僕は決まった場所に足を向ける。
駅前の喫茶店「ミドリコーヒー」。緑色のレトロな看板と木枠の窓が特徴的なその店は、どこか懐かしさを漂わせ、薄暗いランプの下で僕たちが静かな時間を共有する場所となっている。
梅雨の季節には毎日のように通うことになる。その理由は、いつも同じ席に座っている男がいるからだ。
その男、渡辺清志は、かつて僕の親友だった。正確に言うと、「生きていたはずの」友人だ。
清志は大学時代に出会った、僕にとってかけがえのない存在だった。僕たちは同じサークルに所属し、いつも一緒に過ごしていた。趣味も考え方も似ていて、周囲からも「二人はまるで兄弟みたいだ」と言われていた。
それだけ親しく、信頼し合っていたからこそ、彼が進もうとする道に僕が嫉妬したことなど、今でも信じられないくらいだ。
清志が目指していたのは、ある専門職の資格を得るための奨学金付きのコースで、競争率も高く、合格は難しいと言われていた。だが、彼の能力ならば合格は確実だった。
僕は自分には到底手の届かない彼の才能に、ひそかに劣等感を抱いていた。その感情がいつの間にか嫉妬へと変わり、つい彼に嘘をついてしまった。
「そこは過酷な業界だから、やめておけ」と。
彼は僕の言葉を信じ、別の進路を選ぶことになった。そして、それが僕たちの間に決定的な溝を作ることとなった。
彼は新たな道に進むために一生懸命努力していたが、僕にはその姿が痛々しくも見えていた。なぜなら、それは彼が本当に望んでいた夢ではなかったからだ。そして、その事実に気づきながらも、僕は何も言えずにいた。
雨の日だった。清志は飲み会の帰り道、突然の交通事故で命を落とした。
あの日から、僕の中で彼の記憶が重くのしかかっている。もし僕が余計なことを言わなければ、彼は今でも自分の夢を追い続けていたかもしれない。僕が彼の道を狂わせてしまった——。その罪悪感が、今でも僕の心を締め付けているのだ。
それ以来、雨の日になると清志がこの「ミドリコーヒー」に現れるようになった。初めて彼の姿を見たときは、驚きと恐怖が入り混じった感情に襲われた。彼は生前と変わらぬ表情で、窓際の席に座っていた。
僕は何度も目をこすり、夢ではないことを確認した。彼の微笑みが本物であると確信したとき、僕はどうしていいかわからず、その場に立ち尽くしてしまった。
「どうしたんだよ、そんな顔してさ」
清志は僕に話しかけ、いつものように笑った。
その声はかつての彼そのものであり、僕の心の奥に眠っていた記憶を呼び覚ました。僕は信じられない思いで、彼の隣に座り、話をした。会話の内容は何でもない日常的なものであり、彼の生前と何ら変わりはなかった。しかし、その一方で、彼がそこに存在しているという事実が、僕にとっては異常なことに他ならなかった。
それからも、雨が降るたびに僕は彼に会いに行くようになった。初めは恐怖があったが、次第にそれもなくなり、彼との時間が心地よくさえ感じるようになった。彼との会話が、僕にとっての慰めとなり、罪悪感に苛まれる日々から一時的に逃れる手段となっていた。
ある日、清志が僕に真剣な顔をして尋ねてきた。
「お前、まだあの日のことを気にしてるんだろ?」
僕は驚き、咄嗟に返答ができなかった。彼が何を言おうとしているのか、すぐに理解できたからだ。
あの日のこと——。僕が彼に嘘をつき、彼の夢を変えてしまったあの夜のこと。心の奥底でそれを悔いている僕の姿が、彼には見えているようだった。
「いや、別に気にしてないよ」
と僕は顔をそらして答えた。
「ふーん。でもさ、俺がここにいる理由って、お前が俺のことを忘れられないからなんだろ?」
彼の言葉に、僕はドキリとした。彼が僕の心を見透かしているようで、どうしようもなく居心地が悪くなった。僕が彼のことを忘れられない限り、彼もまたここに留まり続けるのだろうか?それとも、僕の未練が彼を縛り付けているのか。
「俺もお前に未練があるんじゃないかって、最近思うんだ」
清志は静かに言った。
その言葉には、ただの会話以上の意味が込められているように感じた。彼は何かを伝えたくて、ここにいるのではないだろうか?僕の中で湧き上がる疑問と罪悪感が交錯し、言葉を発することができなかった。
その後も、雨の日には僕と清志の「再会」が続いた。彼と過ごす時間が僕にとっての慰めとなり、次第にそれが僕の生活の一部となっていった。
しかし、それは同時に、彼の存在が僕にとって重荷であることも意味していた。彼の言葉が頭の中をぐるぐると巡り、僕の心を掻き乱す。彼がこの世に留まっている理由が、僕自身にあるのではないかという疑念が、日に日に強まっていったのだ。
ある日、僕は清志に思い切って尋ねた。
「なあ、俺にできることって、何かないか?」
清志は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻って、静かに答えた。
「そうだな…お前が俺のことを大切に思ってくれるなら、俺のことを“普通に思い出して”くれればいい。それだけで、俺は十分なんだよ」
「普通に、か…」
僕は彼の言葉を噛みしめた。
清志の言う「普通に」という言葉には、ただの記憶として過去を振り返るだけではなく、日常の中で彼との思い出を受け入れることが含まれているように感じた。彼が僕に望んでいたのは、特別な執着や罪悪感ではなく、穏やかな回想だったのだ。
それから、僕は彼との時間を「最後の時間」として意識し始めた。会話の一言一句を心に留めるように、彼との会話を味わうようになった。
ある雨の日、清志が僕に静かに告げた。
「そろそろ、お別れかな」
僕は胸が締め付けられるのを感じ、思わず問い返した。
「もう、来ないのか?」
清志は小さく頷き、目を細めて僕を見つめた。
「ああ。俺はここにいる理由がなくなったんだ。お前が俺を“普通に”受け入れてくれたからな」
僕はその言葉に、言いようのない寂しさを覚えた。彼が消えることで、僕は彼を完全に失ってしまうのではないかという恐怖が胸をよぎる。しかし同時に、彼の言葉には穏やかさと安心感が含まれており、それが僕の心を温かく包み込んでいた。
「お前には、新しい未来が待っているんだ。だから、俺を手放してほしい」
と清志は優しい声で続けた。
僕は何も言えなかった。胸が熱くなり、目頭が熱くなった。涙が溢れそうになったが、必死に堪えた。清志が言うように、僕の未来を考えるべき時なのかもしれない。それでも、彼との別れが近づいていることを受け入れるのは、あまりにも辛かった。
「お前がいなくなるのは、本当に寂しいよ」
と、僕はつい漏らした。清志は静かに頷き、少し笑った。
「でも、思い出は消えない。俺たちの友情は、どこにいても変わらないから」
彼の声には、どこか力強さがあった。僕はその言葉をしっかりと心に刻みつける。
雨が窓を叩く音が、少しずつ静かになっていく。まるで、清志が去る準備をしているかのようだった。最後の瞬間が近づいていることを感じながら、僕は清志を見つめた。
「清志…ありがとう。お前がいてくれて、本当に良かった」
彼は微笑み、ゆっくりと僕の方へ手を差し出した。僕はその手を取ることにした。
今までの思い出が、まるで映画のフィルムのように頭の中で流れ始める。大学のキャンパス、サークルの仲間たちとの楽しい時間、夜遅くまで語り合った思い出。そして、彼が夢を追っていた頃の姿。
「さあ、行こうか」
清志が言った。
その言葉に僕は頷き、彼と一緒に店を出た。雨はまだ降っていたが、傘を差して歩く僕たちの影は、少しずつ薄れていくようだった。店の外に出ると、清志はゆっくりと振り返り、僕に向かって微笑んだ。
「いつでも思い出してくれ。お前が幸せになることが、俺の願いだから」
その瞬間、彼の姿が雨の中に溶け込んでいくのが見えた。まるで彼が雲のようにふわりと消えていくようだった。僕は目を細めて、その光景を見つめた。彼が消えたことを実感するまで、時間がかかった。心のどこかにポッカリと穴が空いたような感覚がした。
雨の中で立ち尽くしながら、僕は彼の言葉を胸に刻んだ。これからは清志との思い出を、優しく抱きしめて生きていこう。彼が夢見ていた未来を、少しでも実現できるように。清志との友情は、決して消えない。心の中で生き続けることを、僕は信じることにした。
その日から、雨の日に「ミドリコーヒー」に行くことはやめた。代わりに、晴れた日には彼との思い出を持って散歩に出かけることにした。彼が愛した景色を感じながら、日々を生きていく。
数ヶ月後、僕は大学のサークル活動を再開した。新しい仲間とともに過ごし、清志との思い出を語り合った。清志のことを忘れないために、彼の好きだった音楽を聴いたり、彼が好きだった食べ物を食べたりすることが、僕の心の支えとなった。
ある日、ふと気づくと、清志の面影が自分の中に生き続けていることを感じた。彼の言葉、笑顔、夢——。それらは今も僕の心の中で生きている。彼の望み通り、僕は少しずつ新しい未来を歩み始めていた。
ある雨の日、ふと立ち寄った公園のベンチに座ると、周囲の景色が目に飛び込んできた。木々が濡れ、光が反射する様子は、まるで清志がここにいるかのような錯覚を覚えた。彼との思い出が美しく輝き、涙が自然と頬を伝った。
その時、清志のことを思い出すことができた。彼はもういないが、心の中で生き続けている。僕はその事実に、少しずつ向き合えるようになった。
「清志、元気でやってるよ」
と心の中で呟いた。
雨が上がり、空が晴れ渡る。日差しが差し込んで、心が温かくなる。清志が僕の背中を押してくれているように感じた。これからは彼との思い出を胸に、新たな道を進んでいく。自分自身を見つめ直し、彼のように夢を追い求める人生を歩んでいくことを、決意したのだ。
清志との別れは悲しいものだったが、そのおかげで新たな希望を見出せた。これからの人生においても、彼が教えてくれたことを忘れずに生きていこう。彼の存在は、決して消えない。いつまでも僕の心の中で輝き続けるのだ。
雨が止み、世界が色づく。清志が語った「普通の思い出」とは、こういうことなのだろう。過去の思い出を胸に、未来を見つめて歩き出す。彼との再会がもたらしたものを忘れずに、新たな一歩を踏み出すことを誓った。
その日、僕は初めて清志がいない世界に向かって、前を向くことができた。彼はいつでも僕の心の中にいて、どんな時も応援してくれている。彼の微笑みを思い出しながら、僕は新しい未来へと歩き始めた。