はち。やるべきことを片付けなければなりません。
あぁ。
ひさかたぶりに『公爵夫人の私室の寝台』で目が覚めました。
カーテンをよけて窓を開けてみれば、ずいぶんと日が高く昇っています。だいぶ眠り込んでいたようです。
部屋の中を見渡せば、この内装、家具、寝具、すべてが懐かしいこと。
回帰する以前のわたくしは……死ぬ二年ほどまえにこぢんまりとした別宅(今はまだ影も形もありません)へ移り住んでしまいました。気心の知れた侍女やメイド以外に、わたくしの症状を知られたくなかったからです。
ですから、この部屋での目覚めはひさかたぶりの感覚なのです。
でも二十八歳の今のわたくしにとっては約一ヶ月ぶりの私室……というのが正しいのかしらね。
昨夜、疲労困憊だったわたくしはメイドたちに入浴を任せたままウトウトして、全身マッサージを受けている途中からの記憶がありません。どうやら寝落ちしてしまったのでしょう。ほんとうに疲れましたもの。
それでも自分の寝台でちゃんと寝衣を着て寝ていました。
なるほど、王都邸宅のメイドたちがみな良い仕事をしてくれたということですね。彼女たちには特別手当を支給しなければなりません。
腕を伸ばして踵を上げて伸身。
上体を倒して屈伸。
なんの違和感も問題もなく動く身体に、感動すら覚えます。
ぐっすりと睡眠をとったおかげでしょうか、それともこれは若さゆえでしょうか。昨夜の疲労なんていっさい感じません。今は元気が漲る心地すらします。
というか、病が発症するまえはこんな感じだったかもしれません。
若さに任せ、自分の健康を過信し、多少の胃の痛みは薬でごまかして働き続けていました。そのままズルズルと十年が経過して……。
初めに気がついたのは息子だったかしら。顔色が悪いと指摘されたのよね。
そういえば胃痛を抑える薬もずいぶんと強い物を処方していただくようになっていたし、それにもかかわらず痛みが無くならないと自覚をし……。
迷ったけれど、息子たちの薦めもあって大学病院で精密検査を受けたら……余命宣告ですもの。
いろいろと我慢に我慢を重ねて、わたくしも激務をこなしていましたから、ねえ……。
日の高さから察するにもうお昼近い気がします。
わたくしはメイドを呼ぶベルを鳴らしました。
洗面にお着替えに食事。
そしてやるべきことを片付けなければなりませんからね。
◇
「奥さま! ……体調は、よろしいのでしょうか」
わたくしが執務室で仕事をしているという報告を受けたのでしょう。家令のポールが慌てたようすで入室し、わたくしの顔色を窺っています。
「いいわよ。絶好調よ」
わたくしは、彼の問いかけに答えながら目当ての書類を探し続けます。
「それは……よう、ございました……」
???
……へんね。ポールったら歯切れの悪い。こんなにオドオドして。
「あの、奥さま……」
「なあに?」
「なにか、お探しでしょうか」
わたくしが執務机周りに溜まっていた書類をバサバサと選別していることから察したのか、そんな風に声をかけられてしまいました。
「ねえポール。いま上がっている請求書の類は、これですべてなのかしら」
この公爵家に関わるすべての収支を確認するのもわたくしの役目。でも請求書を一枚一枚精査するのは会計士の仕事なのだけど……。前回のわたくしは、よくもまあ、あれを見つけたものだわね。見慣れないものだったから、かしら。
「はい。さようでございます」
へんね。
無いわ。
高級娼館【花の楽園】からの請求書が。
「旦那さまは、ゆうべ娼館へ行ったのでしょう?」
「は? あ、……はい」
「娼館からの請求書はいつ来るの?」
そうよ。請求書だったのよ。領収書、ではなく。
きっと現金を持ち合わせていなかったのでしょう。
わたくしだってそんなもの持って外出しません。外で買い物をするにしても、会計をするのは従者の仕事ですもの。少ない金額ならお付きの者が払い、大きな金額ならまとめて公爵家へ請求させるもの、ですわ。
だから旦那さまのあれも、後から請求書が来たのだと推測できます。
「はあ??? いえ、閣下があちらへ足をお運びになるのは外務省の仕事があるゆえのこと。我が公爵家にあちらからの請求書が届いたことなどございません!」
ポールが必死の形相で説明をしてくれます。
「ふうん。昨日の今日、届く……というものでもないってわけね」
わたくしの呟きを聞いたポールの顔色が蒼白になっています。なんだか汗をかいてるし……具合が悪いのかしら。
「ま、いいわ。届いたらわたくしにちゃんと見せなさい。変な隠しごとなんてしないでちょうだい。ね?」
やさしく言ったつもりだったのに、ポールの顔色が戻らないのは……きっと体調不良のせいね。
思えば、ポールも働き過ぎよね。休暇らしい休暇を取ったところをみたことないもの。
というか。
使用人たちの休暇って、どうなっていたかしら。
……月に一度か二度、休みだったような?
あぁ、ここにジャスミンがいれば! すぐにわたくしの疑問に答えてくれるものを!
いいえ。有能な彼女が今ここにいないという事実に嘆いている場合ではないわね。
みんなクルクルとよく働いてくれているけれど、働き過ぎではないかしら。そんなことで体調を崩したら元も子もないわよね。
五日働いて一日休みを取らせる……ということを使用人たちには徹底させようかしら。
まあこれは、侍女頭でもあるジャスミンとよくよく相談してから決定することにしましょう。
わたくしは公爵家の家紋の透かしが入った便せんと封筒を取り出すと、それにささっと必要なことを記入しました。吸取器で余分なインクを処理しながら文言に誤字脱字が無いか確認して……。インクが乾いたらキレイに畳んで封筒に入れて。ついでに小切手も入れて。
封筒に赤い蝋を垂らしシーリングスタンプを押し付けて……完成。
封蝋も公爵家の家紋。
ちょっと煤が混じってしまったけど気にしない。かえっていい味になったとでも思いましょう。
「ポール。このお手紙を届けて」
「はい。どちらへ……」
どうしてかしらね。どこかポールが及び腰に見えるわ。
いつもはもっと堂々と、泰然自若といった風情の人なのに。
「【花の楽園】の支配人? って言うのかしら。最高責任者に当たる方へ渡して」
「――はい?!?!」
あらまあ。なんて素っ頓狂な声をあげるの、ポールったら。
そんなに目を剥いて驚かなくても。
「一度くらい、わたくしもお顔を拝見したいと思って」
いい機会だもの。
あちらへ乗り込んでみたいじゃない? どんなところなのか、わたくしには未知の世界なんだし?
わたくしとしては直接乗り込んでみたい心境なのよね。
でも、いくらわたくしが神から無礼講の許しを得ている身とはいえ、突撃されるほうにしてみればいい迷惑なんだし先触れ必須だと思うの。
やりたい放題でも、最低限のルールは順守しないと。
つまり、その旨を書き込んだお手紙になったわけだけど、あちらさまはどんな反応を見せるかしらね。
とっても楽しみだわ。
ところで、ポールの顔色が真っ白になってしまったけど、だいじょうぶかしら。
やっぱりちゃんとお休みは取らせないとね。
※次話は、ポール(家令)視点の三人称形式でお送りします。