しち。新鮮で腹立たしくてズルいひと & ポールの所感
旦那さまと対峙すること数分……いえ、数十秒かしら?
なぜ、旦那さまはなにもおっしゃらないのかしら。人を呼び止めておいて無言なんて、ずいぶん失礼だこと。
沈黙のなか、玄関ホールに設置されているおおきな柱時計の、カチ……コチ……と針をすすめる音が響き渡ります。
旦那さま……。
口元がうにうにと蠢いてことばを発しかけ、でもそれを呑み込む……というのを繰り返しています。えぇ。なにか言いたげなのは、そのお顔を拝見すれば分かりますとも。
そして縋るような上目遣い。
……じつに、新鮮ですわね。
お背の高い旦那さまからは、見おろされることはあっても、わたくしが見おろすなんて初めてのことです。上目遣いももちろん初めて拝見しましたわ。
そして、じつに腹立たしい。
そういえば、旦那さまはわたくしを『愛している』らしいです。わたくしのお葬式でわたくしの棺に縋りついて、みっともなく泣き崩れる旦那さまの姿、女神さまのところで見ましたもの。
そのときにわたくしのことを愛しているとかなんとか、言ってましたもの。
愛してる?
「ちゃんちゃらおかしい」ということばは今こそ使うべきなのでしょうね。
わたくしは愛されているなんて実感、欠片も感じませんでしたわ。むしろわたくしの存在なんて忘れているか無視していると思っていたくらいですからね。
愛してる?
それはきっと彼の思い描いた幻想のわたくしなのでしょう。
生きて、彼の隣に立つわたくしのことなど一瞥すらしなかった人です。わたくしがなにを考え、なにを感じ、どんな思いを抱いていたのかなんて、知ろうともしなかった人です。病でやせ細ったわたくしを顧みることすらなさらなかった。
妻と真摯に向き合うことから逃げたひと。
臆病なひと。
ズルいひと。
今も。
わたくしから話しかけるのを待っているのね。
いつもアクションを起こすのはわたくしからですものね。
言いたいことがあるのなら、言えばいいのに。
ほんとうに、ズルいひとだこと。
重苦しい空気のなか、ただ黙って旦那さまを観察していたとき
ボーン ボーン ボーン
静寂を破り、柱時計が時を告げました。
どうやらタイムアップのようですわ。わたくしはこっそりとため息をつきました。
「おでかけのお時間でしょう。先方さまをお待たせしては、あなたさまのお名前に傷がつきます。こんなところでお飾りの妻に構っている暇などありません。ささ、お出かけくださいませ」
「……クリスティアナ? なにを言って……」
——鬱陶しいこと。
イライラが最高潮の今、議論を交わすつもりなどありませんわ。とっとと出かければいいのに。キレイな『美姫』が集う花園へ。
いいえ。
我慢など、もはやわたくしには不要なのでしたわ。
理想の貴族夫人とはこう有るべきと称えられた自分など、捨ててしまおうと決めていたのでした。
「当初のご予定なのでしょう? とっとと行きなさい! グズグズするなっ!!」
……怒鳴るって、意外とスッキリするものなのね。
わたくし、結婚して初めて旦那さま相手に怒鳴り散らしましたわ。しかも命令系で。
お腹の底から出した声は、我ながらドスの効いたパンチのあるものでした。
その証拠に、旦那さまは硬直し、周囲の使用人たちも目を剥いてわたくしを見上げています。
帰還した公爵夫人はヒステリックな人格に生まれ変わっていた……とでも思っていそう。
でも。
そんな他者の評価なんて、いまのわたくしには意味がありません。構うものですか。
わたくしは階下で驚き目を剥く者たちに背を向け、再び階段を上り始めます。
……ああ、太ももが痛いわ。足の上げ下ろしがこんなにも辛いとは。痩せ我慢なんてしないであの騎士のお世話になるべきだったかしら。
「奥さま、失礼いたします」
わたくしの身体がふわりと浮きました。
騎士がわたくしを横抱きに抱きあげています。
「お御足が震えていらっしゃいました。これ以上はご無理をなさらないでください」
騎士はわたくしの体重など苦にもならないようで、しっかりとした足取りで階段を上ってしまいました。あなたもわたくしと一緒に馬を飛ばしていたのだから、疲労は同じだけあるはずなのに。若さと鍛え方と基礎体力の違いがあるとはいえ、不甲斐ない女主人でごめんなさいね。
騎士はその辺にいた使用人にわたくしの部屋への案内を頼むと、そのままズンズンと歩を進めてしまいました。
だからわたくしは、玄関ホールに残された者たちのようすを観察することができませんでした。
……ちょっと見てみたかったな、なんて思いませんよ?
……ちょっとだけ、しか。
◇ ◇ ◇
家令のポールは、たった今、自分のこの目で見たものが信じられなかった。
あれはほんとうにカレイジャス公爵夫人だったのだろうか。よく似た別人だと言われたほうが、まだ納得ができる。
あのクリスティアナ・カレイジャス公爵夫人が、たったひとりで、騎馬で、子どもたちを領地に残したまま、先触れもなく、少数随行員だけを伴にして、帰還したと言うのか?
前代未聞であった。
しかも!
いつもいつも夫のジュリアン・カレイジャスに気を配っていた夫人が。
いつもいつもその美貌にふさわしい柔和な笑みを絶やさなかった夫人が。
いつもいつも上品で理性的で聡明で、声を荒らげる姿など夢にも想像しなかった夫人が。
とても冷たく酷薄な瞳で夫を見おろし、夫にさっさと仕事に行けと怒鳴るとは!
まさか怒鳴るとは!(これは異常事態!)
粗相をした下女に対してもやさしく諭すように注意を与えていた、あの夫人が!
所作のすべてから不機嫌オーラを発し、他者を近づけさせないような態度をとるとは!
しかも!
いつもなら夫の外出時には馬車の姿が見えなくなるまで見送っていたのに、その夫を放置し見送ることなくさっさと自室に引き上げるとは!
「クリスティアナは……」
無視され、置いていかれた形になってしまったジュリアン・カレイジャスがポツリと呟いた。
「足が、治ったのだな……そうか。良かった」
「閣下?」
「だが……不機嫌そうだった……領地でなにかあったのだろうか……」
ブツブツと呟きながら、ジュリアンは踵を返した。ロングコートの裾がバサリと広がったが、彼がそれに長い脚を絡ませることはなく、颯爽と歩を進めた。
妻に言われたとおり、密談の時間が差し迫っていたのは事実である。時間を無駄にするわけにはいかない。
「だが……お飾りの妻……? なんのことだ?」
ジュリアンは首を傾げた。
ことばの意味は理解できるが、該当するものが思い至らないと言いたげに。
「閣下。おそらく奥さまは、ご自分のことをおっしゃっていたのでは?」
ジュリアンの呟きに対しポールが自分の意見を述べると、彼の主人は足を止め家令を睨みつけた。
「……はあ?! クリスティアナにそんな要素など無いではないか!」
「ですよね」
クリスティアナ・カレイジャス公爵夫人は完璧な淑女であり、完璧に公爵夫人としての職務も熟していた。しかも立派な嫡嗣を生んでいる。『お飾り』などではない。『名実ともに』カレイジャス公爵夫人は彼女しかいない。
だが、文脈的に該当する女性はクリスティアナだけである。皮肉だったにしろ、彼女がなぜそんなことを言いだしたのか、ポールにも理解できない。
「ですが、その……奥さまは、とても、お怒りだったと拝察いたします」
今思い出しても夫人の冷たい視線に、胃の腑が絞られるような心地がする。美人は表情を無くすと近寄りがたい印象を与えると聞いていたが、本当のことだと実感した。
陽だまりのような柔和な笑顔を浮かべるカレイジャス公爵夫人は、どこへ行ってしまったのか。
「怒っていた? 不機嫌そうではあったが……そうか、あれは怒っていたのか」
ポールの十歳年下の主は、人の気持ちや機微を察するのが苦手である。とくに女性のそれについては。
この国の筆頭公爵家の唯一の嫡嗣として生を受け、気遣われることはあっても他者を気遣う必要などない生活をしてきたせいだと、ポールは分析している。
そして、当然というか必然というか、彼には親友と呼べるような友もいない。(学園時代の同期の顔見知りはいる)
彼と同じ年頃に王族がいなかったゆえに、「同年代のだれかの顔色を窺う」という必要も経験もなかった。
そんな彼の生涯でもたったひとり、他者の顔色を窺ったのは、のちに妻となったブリスベン伯爵令嬢クリスティアナだ。彼女をデートに誘ったときはとても緊張したとポールに語ったことがある。
伯爵令嬢はすでに彼の婚約者になっていたが、ジュリアンは常に彼女を気にかけ、こまめに連絡をし、贈り物を欠かさず丁寧に……彼にとって史上最大に気を使って接していた。
実に「優等生」な婚約者ぶりであったが、それらはポールを始めとする側近たちのアドバイスを素直に受け入れたからだ。ジュリアンだけではデートに誘うという発想すらできなかったであろう。
「クリスティアナはなにに怒っていたのか?」
相変わらず女心に疎いジュリアンのことばに、ポールはこっそりとため息をついて答えた。
「それは閣下が直接お聞きになればよろしいかと」




