十きゅう。悪夢と後追いと娘の未来
ああ女神さま!
あのあと、とてもとても大変だったのですよ!
ひたすらわたくしを抱きしめながら泣き続ける旦那さまを宥めるのが!
小一時間は泣き続けていたと思います。半狂乱、と言ってもいい状態でした。
迷子の子どもだってあんなに泣かないのでは、と思うほど泣き続けていました。
その後、夢を見ていただけですよと、納得していただくまでにまたしても時間を取られました。
なんとかやっと泣き止んだときには、旦那さまのお目がパンパンに腫れていました。視界を覆われ見づらそうにしながらも、その視界になんとしてもわたくしを入れようとするのです。
つまり、付きまとわれました。
お着替えくらいさせてくださいませと説明しても、嫌だ離れない離れたくないと意固地になってしまって……。
わたくしがどこへ行くにも後を追いかけてきます。後追い時期の幼児なら愛らしいと思えますが、相手は旦那さまですよ?
三十三歳児ですよ?
これ、閨事の延長での「離したくない」発言とは別次元の「離れたくない」案件発生なのです。
理由ははっきりしています。悪夢のせいです。
悪夢から覚め正気に戻った旦那さまに、どんな夢を見たのか問い質しても、その内容を答えてはくれませんでした。
本当のことになったら困るから言いたくない、などと言い訳をして。
ですが、泣き続ける旦那さまを宥めているあいだ、何度も旦那さまは呟いていました。
「私が愚かだった……申し訳なかった……クリスティアナ……生きて、生きていてくれ……私を許さなくていいから、なんでもするから……死なないでくれ……っ」
もうね。
この呟きを聞いたら悪夢の内容なんて確信できましたわよ。
わたくしが体験した前回の人生の顛末を、旦那さまも夢の中で体験したのね、と。
わたくしに死なれ、成長した子どもらに罵られ、見捨てられ、途方に暮れる……という『悪夢』。
念願だったわたくしとの閨事のあとに、あの悪夢ですか……。まさしく今の旦那さまにとっては『飴のあとのムチ』だったのでしょう。
「辛い記憶は、人に話すと楽になると聞きますよ? 夢とはいえお辛い思いをなさったのだから、わたくしに打ち明けてくださいませ?」
わたくしがそうお願いしても、旦那さまは悲しそうなお顔をしながら首を振るのです。
「起き抜けは混乱していたが、あれは悪夢だと理解した。夢に過ぎないのだと。
だが……悪夢だからと忘れてはいけない、きみにだけは話してはいけないと……そんな気がするのだ。これはきみと分かち合う辛さではない。私が背負わなければならない罪だ」
そう言いながらも、またじわじわと涙ぐむのですから……なんと言いましょうか……。手のかかる方ですわ。
「でも……今のままですと、旦那さまのお御足が痺れてしまいますわ」
「きみの重さで痺れるのなら、むしろありがたい」
……『是非もない』から『ありがたい』になってしまいました。
苦痛がありがたいって。旦那さまったら、マゾヒズムの素養をお持ちということかしら……。
この会話を聞いた人なら、状況を見ていなくても察していただけるかしらね。わたくし、旦那さまのお膝の上に座っています。
場所は旦那さまの執務室です。
執務机に向かう旦那さまの代わりに、書類を捌いていますの。
今、旦那さまのお目が腫れているせいで物がよく見えない(自己申告)からです。ですから旦那さまは両瞼の上から冷たいタオルを覆って腫れが引くよう努めています。
……努めているのですよね?
わたくしの背中にぴったりと貼りついていますけど。
わたくしのお腹周りに、彼の長い両腕が巻き付いていますけど!
時おりわたくしの肩越しに書類を覗き込んでいますけど!
わたくしは仕方なく、旦那さまの代理で書類の精査をしているのです。
でもこれ、旦那さまのお膝の上に座る必要性はありませんよね?
絶対の必要性はないのですが、旦那さまがわたくしから離れたくないと駄々をこねるので致し方なくこのような仕儀にあいなりました……。
じつはこれ、とても。
わたくしにとっては、とても恥ずかしい状況なのです。
「これはいったい……どうしてあのような状況に?」
旦那さまの秘書官であるハリスン卿が、部屋の隅に控えるポールに声を潜めてこっそりと尋ねています。
こっそりと尋ねているはずなのですが……彼の声はなんだかとてもとおりが良くて、離れた場所に座っているわたくしの耳にもしっかり届きました。
ああ。いたたまれません。
「閣下が奥さまをお放しにならないから……だな」
ポールがぽつりと答えます。
ポールは家令なので、この部屋――公爵閣下の執務室――に控えているのです。いつご下命があってもよいように。
ハリスン卿は旦那さまへお仕事の書類を提出するために入室して、執務机に陣取るわたくしの姿を見て、一瞬ギョッとした目を向けてきました。
が、優秀な彼は全力で『見なかったこと』にしたらしく、真顔に戻ると机に書類を提出して部屋の隅へと下がり、ポールにあの質問をした……という流れです。
本日の公爵閣下のご予定は、一日中王都邸宅の執務室で領地経営に関する書類を精査すること……だったそうです。
が、いま現在、そのお仕事に着手できない状況になってます。
できるだけ早くお目の腫れが引いてくれませんと……。
恥ずかしいうえに、わたくしにもわたくしの仕事があるのですからね!
百歩譲って、この部屋に旦那さまとふたりきりだというのなら、まあ夫婦ですし? いちおう和解しましたし?
旦那さまのお膝の上を独占……なんて、新婚のころだってやらなかった甘い雰囲気もありかと思いますよ。少しくらいの恥ずかしさなど我慢の範疇ですわ。
ですが、家令のポールと秘書官のハリスン卿という第三者がいるという事実がね。
もうね。
いたたまれないったらないのですよ!
またポールがこの状況を温かい目で見守っているという事実がね。
違うわよ、ポール! あなた、誤解していてよ!
ゆうべの旦那さまのイタイ告白のあれやらこれを聞いていたから、そのようにニヨニヨしているのでしょうけどね。
旦那さまがわたくしを放さないのは閨事系のアレではなくて、三十三歳児の後追い状況なのですからね!
あとできちんと説明しないと誤解されたままですわね。
あぁ、心労が増してる気がします……。心労が増しているけど嫌じゃないという辺りが、また恥ずかしさも増し増しな状況なのです……。
どうしてくれましょう。あとで旦那さまの痺れた足を擽ることで対価にしようかしら。
「あ、それ。早めに対応しなければな」
わたくしの肩越しに手元を覗き込んだ旦那さまがぽつりと呟きました。
わたくしの手にある書類は、隣領のドレイク侯爵家との通行関税に関する議事案です。ドレイク領は大きな港があり、我がカレイジャス公爵家の農作物など輸出入を一手に引き受けてくれている状況です。ドレイク領内の通行税や港湾の使用税などを見直そうという案が、出て……。
あら?
わたくし、この顛末を知っていますわ。
いろいろ揉めたけれど、ドレイク侯爵の一子、アンソニー卿の鶴の一声で決まったのよ。
『ぼく、エリカ嬢と結婚したいです!』
まだ幼かったころのアンソニーさまがわたくしの娘エリカとお友だちになって。
お互い気に入って仲良くなって。
ふたりは婚約者になって。
カレイジャス家とドレイク家は縁戚になるのだからと、格安の税率に決定したのだったわ。
エリカとアンソニー卿がお友だちになったのって、わたくしがカレイジャス本家に引き籠っていた六ヶ月のあいだの出来事……でしたわね。
ドレイク侯爵夫人とお茶会で意気投合して……その場に子どもたちも同席させていたから……。
あら?
今生では、わたくし……。まだドレイク夫人とお知り合いになって、いない?
だって、子どもたちが【宝探しゲーム】に飽きてしまったころ、ドレイク夫人からお茶会のお誘いがあって。
気分転換も兼ねてお出かけしましょうとドレイク領へ赴いて……。近いのよ、公爵家の領地本邸宅とドレイク家のカントリーハウスが。
お互い、行き来するようになったのですもの……。
「たいへん!」
このままわたくしがこの王都邸宅でのんびりしていたら、ドレイク夫人とお友だちになれないではありませんか!
そうしたらエリカとアンソニー卿も知りあえません!
エリカの未来の旦那さまとの出会いが無くなってしまいます!
夢の中で女神さまが最後におっしゃっていた『早いとこ領地へ行って、ひと仕事済ませてしまいなさい』とは、このことを示唆していたのね!
「どうした?」
「すぐに、領地邸宅へ向かいますわ!」
だから立ち上がりたいのですけど、旦那さまの腕ががっちりとわたくしの腰に回されているせいで、身動きがままなりません。
「たしかに早めに決めなければいけないが、それほど慌てる必要はないぞ」
そうですね。ドレイク領との税率のお話はね、これから話し合いを進めて、最終的に決定するのは今から一年もさきのお話ですからね、急ぐ必要はありません。
ですが、ドレイク夫人がご子息とともにあちらのカントリーハウスに滞在している期間はそれほど長くないのです!
「いいえ! いますぐ行動しなければ、娘の未来が変わってしまう可能性があります!」
「エリカの未来?」
「えぇ! ですからこの手をお離しくださいませっ。わたくしすぐ出発します――」
「ならば、私も一緒に行こう」
「え?」
「私も一緒に領地へ行く。そして子どもたちとちゃんと向き合う。きみと約束したことだろう?」




