十ろく。まともにきみを見たら
わたくしが意を決して話しかけると、旦那さまの視線はわたくしに寄越されるのですが、それは一瞬のこと。すぐに目を逸らしてしまいます。
眉間にだいぶ深い皺を寄せて。
「では、なぜ、そうやってわたくしから目を逸らしてしまいますの? わたくしを愛しているということが真実ならば、目を逸らさないでくださいませ」
わたくしが極力感情的にならないよう静かな声でお願いしてみると――。
旦那さまはわたくしへと視線を寄越します。
が。
ちっともその視線が定まっていません。わたくしの髪の辺りを見たり口元や喉元や……果てはわたくしの背後の壁辺りを見ていたり。
解りますのよ? 目が泳いでいることくらい。
しかも相変わらず眉間に深い皺を刻んで。
旦那さまったら、挙動不審の塊になっていますわ!
「愛しているというわりに、ご自分の妻をしっかり見ることもできないのですか?
寝顔は見れても、起きている妻には関心がないのですか?」
なんだか悲しくなってきてしまいました。
「わたくし、旦那さまに見ていただきたくて、いろいろとバカなこともしていましたのよ? 変顔とか」
「変顔?」
「毎朝、馬車までのお見送りのときですわ。いつも旦那さまはわたくしのことなど振り返りもせず、さっさと馬車に乗ってしまいましたものね。
旦那さまの秘書官のハリスン卿からなにか伺っていません? 彼とはよく目が合ったのですけどね」
「知らない。聞いていない……」
ハリスン卿はいつも全力で目を逸らせてくださっていましたもの。
本当に『見なかったこと = なかったこと』にしてくれていたのね。
「さようでございますか。まぁ、今となってはどうでもいいことですわね……。
それで? わたくしから目を逸らす理由はまだ伺っておりませんわよ? お答えくださいまし」
わたくしがそう問い詰めると、旦那さまはサッと視線を逸らせて俯いてしまいました。
白状したくないのね。でも逃がしませんよと睨み続けていると……。
……なにやらじわじわと旦那さまのお顔が紅潮してきました。
汗も、かいていらっしゃる?
お顔どころかお耳や首の方まで真っ赤になってしまって……。
そんなに答えづらい質問だったのかしら。
ポールも怪訝そうな顔で旦那さまのようすを窺っています。
しばらくそのまま睨み合い(視線が合わないのでその表現が正しいのかどうか、甚だ疑問ではありますが)をしていたのですけど。
わたくしとポール、ふたり分の視線を受け続けた旦那さまは、とうとう耐え切れずといった調子で声をあげました。
「まともにきみを見たら……抱きたくなるではないかっ!!!」
―― は い ? ? ? ?
旦那さま、いまなんておっしゃいまして?
本日何度目になるのか、もはや数えられない問いをまたしても自分自身に投げかけたわたくしは、まちがっておりませんよね?
一度白状したからなのか、旦那さまのお口はスルスルと滑らかにことばを紡ぎ始めました。
「きみはいつも魅力的だ。いつだってうつくしい。結婚まえだってそうだった。結婚してからも相も変わらずそのうつくしさに陰りなど見えない。
不機嫌そうにしている今だって、凛としたうつくしさで私を魅了し続けている!
私はいつだってきみに愛を囁いていたかった。でもそうしたら抱きたくなる。夜だろうと昼だろうと関係なく寝所に引き籠りたくなる。
だがそれは駄目だ。私には仕事があるし、きみにだって職務があるし、なにより子どもたちが母親の姿が見えなくなったら不安になるだろう?」
旦那さまはご自分の頭を掻きむしります。
そしてなおも語り続けます。
「結婚まえの私は、たいした仕事はしていなかった。だから心置きなくすべての時間をきみのために割くことができた。
だが今はそういうわけにもいかないじゃないか。
それに結婚まえはまだ私は女体を知らなかった。
結婚して初夜を迎え、きみを抱いた。真実、天国はここにあるのだと実感した。
それはもう、とてつもなく幸せで幸運で素晴らしい時間を体験した! 体験してしまったのだっ!
一度知った甘美な味を我慢するためには、なにかを犠牲にしなければならない。それが、きみを見ないこと、だったんだ。
きみを視界に入れさえしなければ、私は平常心でいられる。平常心を持って仕事に臨める。
だから、極力、苦しかったけれど、断腸の思いを感じながらっ、きみを見ないようにしていたのだっ!」
なにか……とてつもなく不埒なことも言っていませんでしたか?
「あー、ジュウ? 確認させてくれ。つまり……奥さまを見ると性欲が抑えられなくなって仕事に支障をきたすから、見ないようにしていた……ということか?」
堪りかねたのか、ポールが確認のために口を挟みました。
旦那さまは力強く頷きました。
「あぁ。それに、私がクリスティアナと閨を共にすれば、クリスティアナはすぐに妊娠してしまうではないか。
双子たちを生んだあと、クリスティアナは体調を崩していた……主治医から、無理をさせてはいけないと聞いている。出産は、場合によっては命に係わるとも。
私はクリスティアナを守らなければいけない。
私の欲よりも、クリスティアナの命の方を優先するのはとうぜんのことではないのか?」
旦那さまのおことばを聞いたわたくしとポールは、しばらく呆けてしまったのですけど……。
大雑把に把握するところの旦那さまの考え方は、まちがってはいないと思います。
体調を崩した妻を無理させないとか、夫は妻を守るものだ、とか。
ですが……どこかおかしいとも感じるのはなぜかしら。
「あー、ジュウ? もう一度確認させてくれ。つまり……奥さまを妊娠させたくなくて、おまえはおまえの欲を我慢していた……ということか? 妊娠出産は命に係わるから?」
ポールが自分のこめかみを押さえながら、再び確認のことばを口にしました。
旦那さまは力強く頷きました。
「そうだ!」
「アホかっっっ!!! それで奥さまを寂しがらせるなんて、本末転倒もいいところじゃないかっっっ!!!」
火山が噴火するような勢いでポールが叫びました。彼の勢いは止まりません。
「一度の同衾で絶対妊娠するなんてことはないんだからな!!」
「いや、だが……」
「それ、たまたまだからっ! おまえが超絶当たり屋だっただけだからっ!!
毎回毎回そういうわけにはいかないものなのっ!!! それに危険日を避ければいいだけの話だからっ!!!!」
「……危険日?」
耳に新しいことを聞いたとばかりに旦那さまが首を傾げると、ポールはさらに声をあげました。
「主治医が初夜に適切だと指定したのは、まさにっその日だったけどな!!!」
おそらく。
前公爵夫人が十年間懐妊しなかった余波だったのでしょう。前夫人の苦しみの二の舞にならないようにという配慮です。
わたくしたちの初夜……というかつまり結婚式を挙げた日は、わたくしの体調を第一に優先させて決められたものでした。
でも。
そのせいだったのですか。
わたくしを抱きたくて仕方なくて、でもそれを避けなければという不思議な信念のもと、わたくしを避けていたのですか……。
できるだけ視界に入れないよう、声をかけないよう。
我慢に我慢を重ねた結果が、あの眉間の皺なのですか……。
たしかに、接触がなければ波風も立ちません。
でもその分、恨み辛みが蓄積していくものですが……そんな人の心の機微など理解不能なのでしょうね。旦那さまには。
あー。
頭が痛いですわ。
気がついてほしくて変顔していたわたくしもたいがい馬鹿だと思いますけど。
ジュリアンさまも。
なんてバカなひとなの。
おバカで面倒くさくて……ほっとけない、いとしいひと。
致し方ありません。
「では旦那さま。わたくしの身になって考えてくださいまし」




