夜伽を命じるなら、早く言ってください
美海が叫んだ。が、当の和正は、冷静な顔をしていた。
「桜川さん、影武者って、影武者ってどういうことですか?」
納得しているかのような和正の横顔に美海がすがるようにして聞いた。
「あぁ。分かっている。昨晩こいつにとうとうと説明された。」
「こいつとはなんですか!」
後ろからいつの間にか座っていた中山が叫んだ。
美海は、中山の声に驚き、後ろを振り返りながら言った。
「帰してください。まず、私たちを家に帰してください。」
とにかくこのわけのわからない雰囲気から一刻も早く抜け出さなくてはと思った。
「帰すことは出来ない。そなたらが乗ってきた車は壊れている。われらが回収し、車に詳しいものを呼び寄せ直させている。車が直るまでの間だけ、影武者をつとめて欲しいと和正に頼んだのだ。」
「車がないと帰れないんですか?」
美海は、懇願するように和正を見る。
「あぁ。屋敷の外に出て歩いてみたが、ここは、本当に、俺らがいた世界とは違う。多分、あのタクリー号がこの世界と俺らの世界を行き来できる唯一のものだ。」
和正は、顔をこわばらせている。その横顔を見ると、信じざる得なくなった。
「影武者って何をするんですか?」
美海は、再び前を向き直った。
「私は、命を狙われている。当分の間姿を隠す故、その間、この和正がこの水戸桜川家当主となるのだ。」
和正は、きっと和成を睨んでいる。
「桜川さん、私たち、これから一体どうすれば・・。」
美海は、和正に用意された部屋に入るなり、口を開いた。
「静かに、声を落とせ。見張られてる・・。」
「え・・?」
美海は、あたりを見まわしたが、自分たち以外、人がいる気配は感じられない。
「昨日の夜、あの和成の部屋に連れていかれ、そして、影武者になることを言われた。もしならなければ、車を返さないということ、そして、あんたの命を保証しないと言われた。」
「わ、私の命ですか?!」
「そうだ。あいつらは、俺に頼んだんじゃない。脅迫したんだ。まるで俺がここに来るのを知っていたかのように。今朝、早くに車があった場所を確認しに行ったが、もう俺のタクリー号は無くなっていた。修理しているなんて嘘だ。どこかに隠したんだ。それから、ずっと見張りがついている。」
和正の言っていることには、真実味があり、美海は急に身震いがした。
「でも、命を狙われている人の影武者なんかしたら、桜川さんだって危険ではありませんか。」
「だからって、これを引き受けなければ、帰れないどころかお前が殺されるかもしれないんだぞ!」
美海は、びくっとした。殺されるという言葉に身体がかたまり、震えが止まらなくなった。
「ど、どうしてこんなことに・・。」
手の震えがとまらず、声も震える。人間、窮地に追い詰められたら、涙も出ない。とにかく、全身が怖くてたまらないと叫ぶかのように震えている。
「俺が、あの車に乗せたせいだ。」
和正は、そっと美海の青ざめた顔を覗き込むみながら言った。
誰かのせいだと、この得体のしれない怖さをぶつけたかった。夢なら覚めてほしいと思った。でも、今、目の前の疲れ切った顔をしている人を責める気にはなれない。
「ち、違います。これは、誘拐です。そして脅迫、監禁、犯罪です。あなたのせいではありません。犯罪に巻き込まれたのです!だから、考えましょう。ここから抜け出す策を。」
今ある力をふり絞って話した。自分で、何を言っているのかも分からないが、とにかく影武者にならなければならない和正を勇気づけなければと美海は思った。
和正は、笑った。口元がふっとゆるむほどの小さな笑いだったが、美海の顔に安堵をもたらせてくれるような笑いだった。
そして、
「そうだな。」
とつぶやいた。
女中の朝は早い。日の出と共に起こされた。
冷たい井戸でさっと顔を洗い、すぐさま、朝餉の支度に調理場へ連れていかれる。
薪をくべ、かまどに火を焚くところから始まるが、こういった仕事は、特に美海の苦にはならなかった。もともと料理が好きであったし、身体を動かすことにはなれている。
接客のバイトをするより、むしろこっちの方が性に合ってるかもしれなとさえ思った。
ぼろいアパートに暮らし、銭湯暮らしにも慣れているため、女中同士で、市井の銭湯に行くことも割と楽しかった。この世界で与えられた役が女中で良かった。
間違っても上流階級の御姫様で良かった。新たな自分の可能性を見出したような気分だ。
ただ、屋敷の外に出て、町の風景、行き交う人々を見るにつけ、本当にここが異世界であることを実感した。
女中同士の会話を聞きながら、この世界の状況も少しづつ把握していった。
三十年前、尊王はと名乗る武士たちが幕府を倒そうとした。
しかし、佐幕派が勝利。反乱に失敗した大名、武士は捕らえられことごとく斬首されたこと。そして、より一層桜川の支配が強まったこと。
これを気に元号は江戸から明治となったこと。
美海が習ってきた歴史が逆転していた。
桜川幕府は尊王派によって倒され、桜川の天下は終わったのだ。江戸共に。
(尊王派が負ける。江戸城が開城されてない。桜川の世が続いている。つまり、ここは、もしも歴史が違っていたらというパラレルワールドか。)
ようやく少しずつ頭が整理し始めてくる。ゲームのような世界だが、本当に生身の人間が暮らしている様子を見ると、ただの仮想空間のようにも思えない。
自分たちの認識と、この世界での常識が違えば違うほど誰かと共有したいという思いが出てくる。その誰かとは、もう一人しかいない。
(あの人に会いたい)
美海は、もう二週間も和正に会っていない。これまでの人生、誰かに会いたいなど渇望したこともないが、ここに来てから和正と会う事を切望している。
和正に関する情報なら何でも知りたいと思った。
どこかで会えないものかと、何か用事を見つけては、屋敷をうろうろしてみたが、その度に女中頭に呼び止められる。
(プリンスファンの気持ちがよう分かるわ)
校内でプリンスを追っかけた事も人を好きになったこともないが、今は、女中として主を追っかけている。周りの女中仲間からは、身分差の恋を望む無謀な女中のように見られているがかまわない。もともと人の目を気にしない性格だ。
何とか、殿のお世話が係になれれば、接触ができるかもしれない。
しかし、そう簡単にもいかなかった。
女中頭は、何かと美海に用を言いつける。
それも、下女とよばれる下働きのなかでも最も過酷な仕事だ。水汲み、肥溜めかき、火起こし。せめて御膳の配膳係にでもなれれば、目にとまることもできるのだが。
(偉い人が女中に手をつけるなんて話を聞いたことあるけど、女中は、女中でもくらいの高い女中やってことが分かったぞ)
実際やってみて分かることは色々ある。
美海が、慣れ始めたように薪拾いを始めるとどすの聞いた中年女の女中頭の声がした。
「今から、殿様が湯あみをするからその薪は湯殿へ持って行って。」
両腕一杯に薪を抱えている美海をちょうどいいと思ったらしい。
「へーい。」
もう返事すら板についてきたようだ。
湯殿の外のかまどには、ちょうど下男が薪をくべているところだった。
「あぁ。あんたか。」
もうこの白髪の下男とも顔見知りになってしまった。
「薪を持ってきました。」
美海が隣に膝をつくと、下男は、竹筒を美海に渡した。
「ちょっと、わしは用事がある。この竹筒で火を吹いてくれ。それから、その小さな窓から殿様に湯加減のほどを聞くのじゃ。良いか、中をじろじろのぞいてはならぬぞ。ただ声をかけるのじゃ。」
「待ってください!私は、殿さまにお声をかけてはならぬ身ですよね?」
ルールはルールだ。美海は、ここに来た時、とうとうと女中頭に自分の身分を説明された。帰る家も身よりもない下女だと。この屋敷に奉公にあがる人間は、元武家の娘などが大半で富豪商家や農家でも庄屋の名家であったりと身分のある者ばかりだ。その中で美海は、中山から女中頭に家もない娘を殿が拾ったと説明されていた。よって、下働き中の下働きで良いと。
「私は、作法を身につけておりません。なんとお声がけしていいのかも分かりません。」
ルールを逸脱することは、美海の信条ではない。世界は変われど信条は変わらぬ。
「大丈夫じゃ。」
下男は、そんな美海の不安を一蹴するかのように言った。
「何が大丈夫なのです?」
「それは、殿様に聞くといい。とにかく、殿さまがお声がけしろと言ったのだから、”あ”でも”すん”でもいいからそこにおることを示すのじゃ。」
よく分からないが、新たな命を下されたと解釈していいのだろうか。
ちゃぷん。
湯がゆれる音がした。美海は、はっとした。一生懸命吹いていた竹筒から顔を離し、頭上にある窓へあげた。そのまま立ち上がり背伸びをするととちょうど木の柵がある窓から中がのぞける高さだった。
「申し上げます!お湯加減のほどはいかがでしょうか。」
作法はよくわからないが、無礼でなければよかろう。
「田中か?」
はっとする声だった。美海は、がばっと窓の中へと目を向けた。
「桜川さんでしたか。」
そのまま窓にかかった木の柵を手で掴もうとした時
「あっつ!」
草履をはいた足を火のついたかまどに近づけてしまった。
「大丈夫か?!」
和正がざばぁと湯から立ち上がる音がした。
「大丈夫です。桜川さん。」
足からもう一度視線を窓の中に向けた時、小さな窓から美海を見つめる和正の顔があった。漆黒の髪の先から滴り落ちる雫。濡れた頬。薄い茶色の瞳。湯で濡れた白衣を一枚、その身に纏っていた。
(世界が違えども変わらんもんがここにもあったわ。)
美海は、話さなければならないことも、聞かなければならないことも全て忘れて、ただ久しぶりにあった和正の姿に呆然とした。
「煤だらけだな。」
セクシーな男は、口元を大きくゆるめ、ぷっと笑った。
「仕事中ですから。」
美海は、手で袖を持ち、ぐいぐいっと自分の顔を拭った。
「苦労かけてるな。すまない。」
美海の姿を窓越しに見た和正の顔がどんどんと落ち込んでいく。
「謝られることではありません。私、女中の仕事楽しいですから。」
和正は、仕事をしている姿を見ると、可哀そうと思うのだろうか。確かに、望んでしている仕事ではないが、元の世界でもここと同じくらい働いているのだ。そうやって毎日大学来ている学生のことを和正は知っているのだろうか。ここだって変わらない、寝食を与えてもらう代わりに働くのだ。
「ほんとお前って変わっているよな下女が楽しいとか。」
和正がまたくっと笑った。
「いや、笑うところじゃないでしょう。」
「田中。今日の夜。お前を呼び寄せる。」
急に和正が真面目な声で言った。
「夜ですか?」
「あぁ。待っていろ。」
和正は、そのまま湯殿から出て行ってしまった。
美海が、ぼんやりと一日の仕事を終え、八人部屋で布団を敷いていると、がらっと襖が開いた。一段落ち込んだ畳の部屋に女中頭が入ってきて、その体格のいい体をどすんと落とした。
「美海、ちょっとこちらへ。」
突然呼ばれて、美海は、恐る恐る前に出た。他の女中たちは、ささっとその場で正座をし、美海の様子をじっと見ている。
「今日、湯あみは?」
「いいえ、してません。」
今日は、忙しく、屋敷の外の銭湯に行けなかった。
「外に出なさい。」
女中頭についていくと、屋敷の裏の井戸についた。
「脱ぎなさい。」
「へ?」
着物を脱げということか。しかし、着物を脱ぐと、半襦袢に腰巻姿になってしまう。元の世界の服は、風呂敷に包んで、女中部屋の押し入れにしまってある。
「もういい。時間がない。」
女中頭が一言告げると、井戸の桶へずんずん向かって歩き、そのまま桶の水をざばっと美海へかけた。
「ひぃぃ。」
五月中旬。だいぶ暑くなってきているが、夜中に冷水を浴びるには、冷たすぎる。
が、問答無用にばしゃばしゃと水を頭からかけられる。もともと与えられた粗末な着物が濡れそぼってひたひたになっている。
美海の一つにまとめた髪からは、ぼたぼたと雫が落ちている。
「もう、もう、息が出来ません・・・。」
あまりに連続で水を顔にかけられ、立ちながら呼吸困難になるところだ。
「これでいいだろう。」
腹いせのような行水が終わると、美海は、腰を曲げ、はぁはぁと息をついだ。
そのまま女中頭に言われるがままついていくと、西側の縁の前だった。縁の前で着物を脱ぐように言われ、下着姿で地面にひれ伏すように言われた。
「下女のみうを連れて参りました。」
女中頭が地面に頭を下げたまま静かに言った。その声を聞き届けると障子がすすっと開いた。中には、ゆらゆらと揺れる燭台が一つ灯され、よく見ると両脇に正座した女性が二人いる。
「みう、中へ」
さらに威厳のある声が奥から聞こえる。
女中頭が肘で美海のわき腹をこつく。
「へ、へぇ。」
こういう時の返事の仕方が分からない。とりあえず時代劇で見た下男がよく言っている言葉を真似してみた。美海は、ゆらりと立ち上がると、そろそろと歩き、石段に草履を並べ、縁に乗り、そのまま障子の中へ入った。
瞬間。ぱしっと両脇の女性によって障子が閉められた。美海がぱっと後ろを振り返ると突然両脇にいた女性にがしっと後ろから肩を掴まれた。
「うわあ!」
驚きの声を上げると、前方の結上げ髪の女性が荒々しい手で美海の下着の紐を振り解いた。
「いかがなされました!」
何をどう言ってこの女性たちを止めていいのか分からない。後ろの二人の女性が、上下の下着をがばっとはぎとっていく。
「あ、ああ・・。」
美海は、思わず、手で前を隠し、しゃがみこもうとしたが、後ろの女性に両肩を掴まれているせいで真っ裸のまま立っていなければならなかった。
「な、何をするんですか・・?」
美海は、怖さと恥ずかしさのあまり足ががくがくと震えた。
それでも後ろの二人の女性は無表情のまま美海の身体を一歩も動かさないと掴んでいる。
「ふん。顔はそれなりに整っているけど、身体は痩せてるね。」
下着をはぎとった女性は、眉にしわを寄せながら、上から下まで美海をじろじろと見ている。
「やめてください。服を、服を返してください。」
これじゃあ性犯罪じゃないですか。
その時、ばしっと素肌に白い服がたたきつけられた。
「早く、これをお着。」
掴まれていた肩がゆるんだ。美海は、倒れこむように地面に手を付き、畳に落ちた白い布を拾い上げた。
「殿様の寝所にはべるには、何も持ち込んではならぬ。その白衣一つで参るのだ。」
「し、寝所へ参るのですか?」
「そうじゃ。殿様が庭を散策の折にお前の姿を見かけたとのことだ。湯あみをなされる際に佐助に言いつけ、火焚き番にさせたのも殿の御所望じゃ。たかが下女の意志を確認したかったと。」
(早く言えよ桜川!)
「殿の過分なるご厚意、しかと感謝申し上げよ!」
「は、ははぁぁ!」
素っ裸に白衣で前を隠しながら、美海は、畳に額をつけた。こんな時でも時代劇の作法を思い出していた。
確かに和正に会いたいと願った。だが、まさかこんな形で呼び寄せられるとは思っても見なかった。