幕府統治の世が続いている?!
和正ががばっと後ろを振り返った。
「誰だあれは・・?」
そうつぶやくと、叫んでいた声の主は、和正の方へと駆け寄ってきた。
「また、運転をなされましたか!」
運転席の和正の横で地面に片膝をつきながら、中年の上品な男性が見上げている。髪はオールバックだが、着物に羽織袴を着ている。
「暗い時間に運転なされてはなりませぬ。もうお休みになられているかと。」
和正は、状況がよくわからず、口が半開きになっている。しかし、和装姿の男性は、すくっと立ち上がると和正の背中に手を回し、抱えるかのように車からおろした。
「あ・・・。」
和正が、呆然としていると和正の背中を押しながら
「さ、お部屋へ参りましょう。」
と誘導した。
数歩歩き始めたところで、「あ。」と何かを思い出したかのように和装男性は立ち止まった。
「そちらにいる、娘。」
くるっと美海の方へ振り返る。美海は、助手席でびくっとした。
「どこぞの下町の娘だろう。後で金を渡すから明日の朝、家へ帰りなさい。」
「私ですか・・?」
「女中の部屋へ案内する。」
和装男性が言い捨てるかのように話し、そのまま和正に寄り添い、再び歩き始めた。
美海は、もう何が何だかよくわからなかったが、このわけの分からない場所に置いてかれては困ると思い、すぐに車から飛び降り、二人の後についていくことにした。
美海は、頭の中で状況を把握しようとぐるぐると回転させてみたが、どこを見ても観たことのない場所だ。和正の運転でどこか別の大きな屋敷に入ってしまったのだ。そう思うしかなかった。
和正が、タクリー号で道を走ったようには見えなかったが、とにかく間違って入ってしまったことを伝えなくてはと後ろで焦りを感じた。
獅子が鞠を追いかけている絵が描かれている木戸の前に和装男性が立った。この戸の絵だけでも重要文化財に指定されそうな勢いである。
(この絵、どこかで見たことあるな)
そう思っていると、がらっと和装男性がその扉を開けた。
「さぁ、殿。お入りください。」
和正は、背中を押され、中へと入れられる。美海も続いて中へ入ろうとすると、がしっと和装男性から腕を掴まれた。
「女中部屋は、こっちだ。」
先ほどの和正に対するにこやかな笑顔と大違いだ。
「私、女中なんですか?!。」
そう言いかけた時、きっとその男性から睨まれた。
(ひぃぃ)
よくわからないが、ものすごい威圧にそのまま、無言で和装男性についていく他なかった。
世界は変わろうと、世の中美海に厳しい。
「ねぇ。あんた変わった恰好してるね。」
もう布団を敷いて休もうとしている女中に囲まれた。
「それ殿さんの趣味?」
「あの御方は、変わった人だからね。自分で作った服を女に着せて楽しむって話だよ。」
「あんた、あの殿さんに町で拾われたんだろう。」
女中は、皆、簡素な着物に身を包んでいる。
「すみません。私、ここに迷い込んできた者でして。」
「うん。」
「ここは、どなたのお家でしょう?」
美海の質問に皆が一斉に驚きの顔をした。
「あんた・・殿さんに連れてこられたんじゃないのかい?」
「違います、私は、車に乗っていたら、このお家の庭に入り込んでしまっただけです。一体ここがどこなのか・・」
女中たちが顔を見合せた。
「あんた、可哀そうに。無理やり連れてこられたんだね。しかもそんな男みたいな服まで着せられて。」
「町で暮らしてたら、殿さまの顔なんて知らなくて当然だわ。」
「ええ、ですから、その殿さまとは・・?一体ここは誰のお家で?」
美海は、同情されるよりも、いい加減、答えをはっきりさせてほしくなった。
「ここは、水戸桜川邸。桜川和成様の屋敷だよ。」
「さ、桜川和成様?!」
美海は驚いた。そして、女中達は、驚くのも無理はないという顔をした。
「桜川和成様って誰ですか・・?」
今度は、女中たちが驚いた。
「だから、桜川和成様だよ。お名前くらい聞いたことがあるだろう?御三家の一つなんだから。」
「ま、待ってください。では、ここは、御三家の一つ、水戸桜川家なんですね。そして、現在の当主が桜川和成様。」
「そうだよ。」
女中の一人が、美海の顔を覗き込むように言った。
(分かった!ここは、桜川さんの実家に来てしもたんや。和成様というのは、桜川さんのお父さんや。桜川さんは、殿の息子。若殿様で彼は、実家の自室にいる)
全ての謎が解けたかのようにスッキリした。
「もう、全部わかりました。すみませんが、今日は、ここで休ませてもらい、明日の朝、自分の家へ帰ります。」
美海は、囲まれていた女中たちにひとりひとり挨拶をし、用意してもらった布団へと入った。先ほどのの作業場は自分の実家の近くにあったのか。そう合点がいくと、急に睡魔が襲ってきた。
朝、見慣れない天井が目に飛び込んできた。気が付くと周りには、誰も居なかった。
障子一つ挟んだ廊下では、誰かがせわしなく歩いている。
疲れ切った身体を起こすと、美海は、そろそろと布団をたたみ始めた。
和正を探さなくてはならない。
どうせ帰るにも、一言挨拶をしなくてはと思うが、廊下に出てみると、どこに行ったらいいか分からない。
しかも、腕にはめていたはずの腕時計がいつの間にか消えている。
時計が無いというのは、美海にとってこの上なく心細い。
毎日時間通りに行動する。生きる道しるべが無くなったのも同然だ。
とにかく早く家に帰りたい。
このまま何も言わずに出て行ってもいいものだろうかと考えたが、周りの人間は皆、忙しそうだ。
美海は、あてもなく廊下をのろのろと歩き、食事の匂いがする方へと歩いて行った。
十五メートルほど歩くと、調理場が見えてきた。
「あの、昨晩は、お世話になりました。」
十人ほどの着物姿の女性が三角巾をして立ち働いている。
「あら、もう帰るの?」
昨日の同部屋だった女中が美海の方へ振り向いた。
「はい。ただ、出口はどちらでしょう?」
美海は、自分が履いてきた靴を抱えながら聞いた。
「あぁ、ついてきて。」
先ほどの女中に続き長い廊下を歩くと、ぱたぱたと美海を追いかけてくる足音がした。
「ちょっと待って。」
後ろの声が美海たちを呼び止めた。
「何?」
前方を歩いていた女中が振り向いた。
「殿様がその娘に会いたがっているみたいなの。殿さまの部屋へ連れて来いって。」
「まぁ・・可哀そうに。」
昨晩に続き、また可哀そうの言葉を言われた。
「あんたをこっそり逃してやろうと思っていたのに、ごめんね。」
前方の女中は美海の手を取り、その甲を優しくなでながら言った。
よくわからない憐みの眼差しを背中に受け、美海は、案内されるがまま、再び獅子の絵の木戸の前に立った。
「ここから先は、中山様が御案内されるから。」
そう案内女中に告げられ、その女中は、こんこんと軽く木戸を叩いた。
かたかたっと音を立てて木戸が横に引っ張られた。
中には、昨日の和装男性が立っていた。
「中に入れ。」
相変わらず威圧感がすごい。美海は、木戸の奥の畳敷きの廊下をすり足で歩いた。
木戸を開けると直ぐに部屋かと思ったが違った。さらに長い畳敷きの廊下を歩き、最奥の部屋へと案内された。障子の前で正座をするように言われ、中山は、障子の中をうかがうかのように見た。
「殿。連れて参りました。」
「入れ。」
その一言で中山は、丁寧に障子を開ける。
開けられた先には、和正が座っていた。しかし、和正は、シャツに黒いパンツ姿ではない。藍色の着物を来ている。
「中山、下がれ。」
また、一言で中山は、すすすっと障子の向こうへと去っていった。
美海は、和正と対面した。
「ここ、桜川さんのご実家だったんですね。ご実家に行こうとしていたなら、教えてくだされば良かったのに。私、もう帰りますね。ここの最寄りの駅はどこでしょう?」
美海は、胡坐で腕組みしている和正にすらすらと言った。
「最寄り駅は・・・ない。何故なら、この世界では蒸気機関車が走り始めたばかりだからだ。」
「蒸気機関車?」
「そして、俺は、桜川和正ではない。」
「はい?」
「俺は、桜川和成だ。」
和正の顔をした人物がわけの分からないことを言っている。
美海は、この桜川和成という人物が言っていることがまるでおとぎ話を語っているようで一ミリも信じることができなかった。
つまり、聞かされた話はこうだ。
まず始めに、今いる世界が美海たちがいる世界とは違うということ。もうこの時点で分からない。そして、その入り込んだ世界が第十八代将軍桜川家隆が統治する世であるということ。最期に、今話している人物は、桜川御三家の一つ、水戸桜川家当主、桜川和成ということ。
これらのことをいきなり話されて「あぁそうですか。」で納得出来る話ではない。
「あの、私が知っている歴史では、桜川幕府は、十五代将軍をもって終わり、武士の時代は終わったのですが。」
「よいか。私も和正と話していて、ようやく頭が整理できたところだが、確かに江戸は終わり、明治と元号を変えた。しかし、桜川幕府は倒幕されてはいない。未だこの国は将軍の天下で今は、十八代将軍桜川家隆様の御世だ。大名達は、より一層幕府との結びつきを深め、将軍の家臣だ。それぞれ領地を与えられ、諸藩を治めるが、この国のどの領地も桜川将軍のものである。」
「桜川幕府の世が続いている・・。」
「あぁ。そうだ。」
美海は絶句した。何を聞けばいいかも分からず、ただ、困惑した表情で正座をしている。
その時、すすっと後ろの障子が開く音がした。どさっと美海の横で誰かが座った。はっと美海が顔を上げるとそこにいたのは、和正だった。いや、本当に和正だろうか。美海が怪訝そうな顔で和正の顔をみた。
「大丈夫。俺だ。和正だ。」
その声、その喋り方に和正だと確信した。しかし、和正は、昨晩別れた時の姿ではない。前にいる和成と同じ藍色の着物を着ていた。
「桜川さん・・その恰好・・。」
美海の言葉を遮り和成が答えた。
「この者は、私と同じ顔をしている。」
(ええ。そうですね)
さっきから思っていたことを口にした。
「だから、この者は、今から私の影武者となる。」
「影武者?!」