使う人間、使われる人間
午後七時。
三つ掛け持ちしているバイトのうち、一つがコーヒーショップだ。
店頭のレジで注文を聞き、出来上がったコーヒーを渡す。時には、席まで運ぶ。
仕事としては難しくないが、忙しい。
繁華街の中にあり、客足が途絶える事がない。
三十席程ある店内は、常に満席だ。
特に若い子たちがダラダラと喋り、場所を陣取っている。
美海は、特に店長に言われたわけでもないが、二時間以上もコーヒー一杯で動かない客の横を、掃除をするフリをして退去を促している。
今日も一グループ店内の中央を陣取り、動かない若者がいる。
「ごほんっ。」
少しわざとらしい咳をしながら、ちりとりとほうきを持ち、長く伸びた男性の足の横にかがんだ。
「美海ちゃん、バイト何時上がり?」
かがんだ頭上から声がした。驚きながら美海が顔を上げるとお昼に見た顔がそこにあった。
「あなたは、産業文化理論の・・・。」
「うん。九条篤定ね。こっちが近衛と鷲司。」
「こんにちわ。」
もう二人の男性が九条の脇から手を振った。
嫌な予感がする。美海は、箒とちりとりを両脇に持って後ずさりした。
「バイトが終わるまでここで待たせてもらうよ。」
「えっ。」
「あ、コーヒー一杯なんてけち臭いことしないよ。あそこのショーケースにあるスイーツ全部注文するよ。」
美海はまたもや、押し切られる形で待たれることとなった。どうも柄じゃない。こういう人間とは、あまり長い時間一緒にいない方がいい。
午後八時十二分。
ずらりと並んだケーキ達。このケーキ一つ六百円する。バイトの美海でさえ、このケーキの一つも食べたことがない。
「好きなだけ食べなよ。」
「いいんですか?」
物欲しそうな美海の顔に九条がうなづいた。
「うん。その変わりちょっと相談があるんだけど。」
眼鏡の奥の九条の瞳が光っている。
「グループ課題の事なんだけど。美海ちゃん、どの程度のものを目指している?」
「どの程度とは・・?」
遠慮なくケーキをほうばっている美海が顔を上げた。
「いや、実はね。僕ら結構忙しいんだよね。インターンシップとか後継者の集まりとか色々あってね。だから、あの授業の課題に僕らの時間をあまり割けないというか。まぁ、僕らそんなに学校の成績に比重をおいてなくて、別に単位さえ取得できれば、評価が何だろうとかまわないんだよね。」
「それは、Cでもかまわないって事ですか?」
「うん。Cでもかまわない。」
「でも、やるからには、いい評価がもらいたいと思いませんか?」
「いや別に。たかが教養科目一つの成績なんて取るに足らないよ。そんなことより僕らには、大事なことがたくさんあるからね。」
「でも、私は、奨学金をもらっているので、学校の成績を落とすわけにはいかないんです。」
「それは、美海ちゃんの事情だよね。僕らが美海ちゃんの成績のために頑張らないといけないの?」
「でも、勝負は、全力を尽くさねば。」
「こんなグループ課題僕らの勝負でも何でもない。」
ぴしゃりと言われた言葉に、美海は口をつぐんだ。
「でも、美海ちゃんが独りで頑張るということは、止めやしないよ。」
「どういう意味ですか?」
「美海ちゃんがA評価を目指すというのならそれは、それで勝手だから。」
「じゃあ・・。」
「だけど、僕らは、C評価が取れる分までしかやらない。後の評価の底上げは、美海ちゃん独りで頑張ればいい。」
「でも、評価はグループ全体にされるんです。私が頑張ってA評価の課題を成し遂げたら、あなた方もA評価をもらうんですよね・・?」
「うん。まぁ、僕らはAでもCでもどちらでもかまわないんだけど、まぁ、Aをもらったならちょっとしたご褒美をあげるよ。」
「ご褒美?」
「商品券とかどう?君、服とか鞄とか色々欲しいでしょ?頼んでもないことをするのだから御礼って言うのも変だし、かといって何もないのもやる気でないでしょう?」
美海は、頭が真っ白になった。今、自分は、金で取引されているのか。そんな気分になった。でも、考えてみたら、彼らのいう事にも一理ある。自分は、奨学金のためにA評価が必要だが彼らにとってそれは、どうでもいいのだ。A評価を目指すというのは、個人の事情に巻き込んでいることになるのだろう。
(しかし、今まで、学校の課題には無条件に頑張らねばと思っていた。こんな風に他の事と課題を天秤にかける人もいるのか)
やっぱりエントランスボーイとは相容れない。
「ご褒美とか商品券とかそんなもの要らないです。私は、A評価が欲しいので独りで頑張ります。ただ、一つだけお願いがあります。」
今日囲まれた女子学生と食事をすること。九条に突き付けられた条件は、こちら側の要求と取引された。でもこれでいい。
九条との会話で二十三分も使ってしまった。
これは、あまり有益ではない。自分とは、相容れない人と時間を共有するのは、全くもって、時間の無駄だと思う。
午後八時三十五分。
美海は、底の擦り切れた岩のようなリュックを背負ってバイト先を出た。もう四月半ばだという
のに夜は冷える。
午後九時二十分。
何だか今日は、身体の芯まで冷えている。家に帰ってリュックを置くと、すぐさま銭湯セットを持って家を出た。こんな日は、温まって早く寝るに限る。