もしも世界が変わったのなら
どどどどどっ!
馬の足音が山の静寂を切り開いていく。
「殿!殿っ!どうなさいました!」
険しい山道をまるで狂ったかのように駿馬にまたがり胴を叩いている。後ろを追いかける家老が青ざめた。
「その先は、崖でございます!どうか、馬を・・馬をお止めくださいませ!」
ここ近年、戦などない。馬に乗ることなどもはや上流階級の乗馬倶楽部のみでたしなみ程度だ。
今日も雪が融けた山に乗馬散策をしに来ただけだった。
よもや主人が、突然狂いだしたかのように馬の尻を鞭でうち、胴をけり、急斜面の山を駆け上がっていくとは思わなかった。
「宗光様、どうか我が殿の馬を止めてください!」
桜川幕府大老井伊直茂は、後ろに付き従っていた御三家の一つ尾張桜川家、桜川宗光へと叫んだ。
宗光は、先頭の暴れ馬より五十メートル下にいた。まさかの緊急事態に、すぐさま手綱を引き締めた。胴を蹴り、先頭を追いかけたが、距離は一向に縮まらない。
もともとこの殿の乗馬能力は優れていた。
幼い頃から馬に親しみ、何より二十代半ば。
体力は、その身体の最盛期を迎えていた。
「殿、駆け上がった先は、すぐさま崖ですぞ!馬を、馬を緩めくださいませ!」
二人の家老と側近を合わせ十二人の従者が先頭へと叫んだ。しかし、馬の速度が落ちる気配がない。
(まずい!)
誰もが思った。
この山は、標高こそさほど高くはないが、山頂より西側は、山肌がえぐられ崖が出来ている。下山するには来た道を戻るか、北側へ迂回するより他ない。
このまま、この急速度で駆け上がり、馬は、山頂でピタッと止まるだろうか。山頂部分はわずか十メートル程度しかない。十メートルで止まりきれなければ、そのまま十五メートル下の谷へ落下する。
(一体どうなされた?)
井伊は、息を切らしながら先頭にくらいつきながら考えをめぐらした。
(こういった無謀なことをなされる方ではない。むしろ慎重すぎるほど慎重な方だ。誰よりも生への執着があり、危険なことはまったくもってなされる方ではない。その殿が何故、馬を暴走なされるなど・・!)
井伊は引き離される前に先頭へと目を凝らした。馬が暴走し、主が引きずられているのか。または、手綱を引く主が馬を暴走させているのか。
「はっ!はっ!」
馬にかける主の声が絶え絶えに聞こえる。
(なんと、殿が馬を走らせておられる。)
どちらにしよ、山頂まで後十メートル。手綱を引き締め、馬の速度を落としにかからなければならない。それができなければ馬から主だけでも引き下ろさねばならない。
「頼む!誰ぞ、殿に追い付いてくれ!」
井伊のふり絞った声が前方へと響く。
「殿!殿ー!」
宗光が手を伸ばし、前方斜めを走る主へと手を伸ばそうとした瞬間。突然木々が開き、真っ青な空が視界いっぱいに広がった。
「ああ・・ああっつ・・。」
宗光は、ぎりぎりまで馬の速度を上げたが、山頂にたどり着いた瞬間、「どうっ。」と掛け声と共にとっさに手綱を引き上げた。
前方を駆けていた馬はもういない。
雲一つない青空めがけて突進して行ってしまった。
「殿ぉー!」
追い付いた井伊は、馬から飛び降り、主が走り抜けた先を見下ろした。
さきほどかすかに聞いたどんっという鈍い音。
震える肩で何度も空気を吸い、崩れ落ちるかのように膝を付いた。眼下には真っ赤に染まった主と馬が横たわっている。