表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

青春卒業式 笑太と泪と伊美と紗加

作者: 貴志埜舞

大人の愛に目覚める事を青春からの卒業と考えて、その儀式を青春卒業式と命名しています。

               1

 笑井笑太わらいしょうた父笑井葉梨わらいはなし母笑井杉世わらいすぎよの二男で、兄に笑井杉太わらいすぎたがいる。

 笑井家は、その苗字が示すとおり、笑いが絶えない明るい家族である。「笑顔は世界を救う」を座右の銘とし、全てを笑いの種にしてしまう父笑井葉梨、その父のもたらす笑いで顔がしわくちゃになってしまったと言って喜んでいる母笑井杉世そしてあんまり笑い過ぎて腹が捩れてしまい、ついに入院せざるを得なくなったことがある兄笑井杉太。こんな家族の中で育った笑太も飛び切り明るい性格である。今、少年から青年に脱皮しつつある。

笑太と松山松夫、竹本竹伸、梅沢梅治の男子生徒四人に栄家伊美えいけいび乃木紗加のぎさかの女子生徒二人を合わせた六人は、爆笑高校の同級生で、仲間内でも特に仲の良いグループだった。しかも、「ギャグや洒落、おとぼけがこの六人の標準語」と言われるくらい何時でも周囲に笑いを振りまいていたので、クラスメートからは「お笑い松竹梅」と呼ばれて親しまれていた。このニックネームがグループの男子四名の苗字から付けられたのは明白だ。最初のうちは中心になっている二人の女子の名前から「エイケイビ6」と呼ばれたり「ノギサカ6」と呼ばれたりしていたのだが、大の乃木坂ファンの校長先生から「エイケイビ」や「ノギサカ」を使うのは教育上好ましくないという何とも有難いお言葉があり、結局は、「お笑い松竹梅」に落ち着いたという経緯がある。ここは「いきさつ」と読んでほしい。

 この「お笑い松竹梅」の六人は、学校の成績ということでは全員上位十位以内という優秀な生徒の集まりだった。しかし、授業のときなど、他の生徒の目や耳があるときには、つい、周りを笑わせたいという本能が働いてしまって、珍解答をしてしまい、教室を爆笑の渦に導いていた。

例えばこんな具合だ。

伊美は、「シンダコノトシヲカゾエル(勿論、死んだ子の歳を数える)」の意味を聞かれて、黒板に「新蛸の歳を数える」と書いて、「捕れたばかりの蛸は新しいに決まっているから、歳を数えても仕方がないということ」と答えたり、一〇年後の世界にタイムマシンなど使わずに簡単に行ける方法がある、一〇年間生きていればいいだけだと真顔で言ったりしていた。

松夫は、「覆水盆に帰らず」というのは、猛烈サラリーマンの覆水氏がお盆に故郷に帰らなかったことで同級生や親戚から責められて後悔したが今更どうしようもなかったということから来ている諺だと答えた。

竹伸は、保健の授業中に、「リンゴ一個を一〇〇年間食べ続ければ、だれでも一〇〇歳まで生きられる。」と得意げに「長寿の秘訣」を語ったり、体育の授業のときには、「子供でも一〇〇メートルを九秒九で走れば一〇秒を切れる。」とふざけて言ったりもしていた。このときは、いつもは厳しい体育の先生もあまりの馬鹿々々しさのためか、竹伸のおふざけにお咎めなしだった。

梅治の十八番は、先生がよく考えようと言うと、すかさず、「人間はカンガルーの足だ。」と言うことである。勿論、「人間は考える葦である。」のパロディである。また、ルパン三世の五ェ門は、次元からときどき先生と呼ばれるから、本職は学校の先生に違いないとわざと大真面目に言って見たりする。

紗加は、アラン・ドロン、ジャンポールベルモンド、カトリーヌ・ドヌーヴそれにブリジッド・バルドーなどの名だたるフランス人俳優が主演している仏映画を随分見たけれど、不思議なことにお釈迦様は一度も出て来ないのよねと言ってクラスメートを爆笑させた。

笑太は、数学の先生が余談だけれどもと言って「リーマン予想」の話をしようとしたときに、すかさず、「知っています。サラリーマンになるのはよそう、向いていないから、と言った人です。」と答えたり、「デカルトは相当大きな人だったに違いない、我重い故に便器に割れ有りと言うくらいだから。」などと答えて皆が笑っても、ただ、きょとんとした顔をしていた。

他にもいろいろありすぎて、とてもここでは紹介しきれない。そんな具合だから、同級生は皆彼らを天然系だと信じていて、その優秀さに気付いている生徒は皆無に近かった。

本人たちは、「お笑い松竹梅」というあだ名で呼ばれていることを知っていたが、全く気にしていなかった。というより、そう呼ばれることを喜んでいたと言ったほうがよい。周囲の目や評価など気にしないで、とにかく、みんなを爆笑の渦に巻き込むことに生きがいを感じる、そんな風変わりな六人だった。だから、笑太が東京の「桜慶大学法学部」に合格したと聞いたクラスメートたちは、笑太の合格が信じられなくて、「笑太の家はそんなに金持ちだったのか。」などと裏口入学だと信じ込んでいた。最終的には、栄家伊美が学年一位、乃木紗加が二位、笑太がそれに続く三位で、他の三人も全員一〇以内だということが卒業式の表彰で明らかになって、笑太ら六人を除く卒業生全員が驚いたばかりだ。

 そんな愉快な六人組ではあったが、爆笑高校の卒業式も終り、四月からは、笑太が東京に行ってしまうので、「お笑い松竹梅」も解散せざるを得なくなった。卒業式の後、六人は、自分たちで勝手に「会議室」と呼んでいる梅治の家の離れに集って、少しだけ感傷にひたりながら、思い出話などに華を咲かせていた。

               2

「ねえ、笑太、東京での下宿先は決まったの?決まっていたら教えて。」

栄家伊美が興味深々という顔で尋ねた。

「うん。決まったことは決まった。何で?」

「私、今まで黙っていたけれど、実は、笑太のことが大好きで、大好きで仕方がないの。だから心配なのよ、東京に行っても、ちゃんとしたところで勉学って言うの?そういうのに集中できる環境に住めるのかなって。」

「え、栄家伊美って、そうだったの?全然気が付かなかったよ。笑太は知っていたのか?竹伸や梅治はどう?」

 松山松夫は、伊美の言ったことを素直に信じてしまい、自分は、そんなことは今まで全然思いもしなかったけれど、それは自分だけだったのかという顔をして、笑太や隣に座っている竹伸と梅治に尋ねた。

竹伸と梅治も松夫と同じように、伊美の予想外の告白に驚きながら、ひょっとしたら、これから展開するかもしれない伊美と笑太のラブストーリーを期待して心を弾ませていた。二人とも、お笑い松竹梅は、そういう男女の問題、つまり、淡い初恋とか秘めた愛などというものとは全く無縁なカラッとしたグループだと信じていたからだ。松夫も含めた三人は、「栄家伊美のこれまでの言動からは笑太に特別の感情を抱いているなんて微塵も感じられなかったのに女心って分からないものだなあ。でもこれって笑太にとって喜ぶべきことなのかな、それとも・・・。」という複雑な気持ちだった。三人は、伊美の外面的にせよ内面的にせよ本当の顔を知らず、伊美と言えば、かなり変わった眼鏡をいつもかけていて、そして、一旦、話し出したらもうどうにも止まらない愉快なクラスメートというイメージしかなく、恋愛の対象として全く見ていなかったのだ。笑太本人は、伊美の予想外の言動にあっけにとられてしまい、ただ、ただ、きょとんとしているばかりだ。笑太も勿論伊美の本当の顔を知らなかった。

伊美は、普段は、笑太たちとバカを言い合ったりするお笑いキャラクターだけれども、その風変わりな眼鏡をはずすと、良くあるケースであるが、実は、なかなかの美人で、黙ってさえいればミス何とかに選ばれてもおかしくなかった。黙っていることが出来ればだが。

笑太たちは、自分たちのすぐ傍に「連れ添って歩けば、周囲の男性から羨望の眼差しで見られる可能性がある」女性がいることに全然気付いていなかったことになる。あまり近くにいると、その価値に気づかず、無くして初めて気付いて自分を襲う喪失感に茫然と立ち尽くす、よく唄の歌詞にあるやつだ。

笑太や松夫たちの様子を見ていた乃木紗加が、一つわざとらしい咳払いをして話を始めた。

「やだわ。君達は、まだまだ「お子ちゃま」なのね。いい、今からあなたたちの優しいお姉様が教えてあげるわ。最後のレッスンよ。よーく聞いてね、旅立つ少年たちよ。それからいちいちわざとらしく栄家伊美なんてフルネームで呼ぶのはおかしいわよ、松夫クン。栄家とか伊美でいいのよ。私のことをお姉様とか女王様って呼ぶのは構わないけれど。」

「誰も女王様なんて呼んだことなんかないわよ。みんな、紗加でいいからね。」

 伊美が笑いながらツッコミを入れた。

 栄家伊美(当一八歳 四八ではない。以下、「伊美」という。)と乃木紗加(当一八歳 四六ではない。以下、「紗加」という。)は名コンビである。

紗加が、小学校一年生に「一足す一」を教えるときの先生のような表情で話し始めた。

「伊美が言ったことを翻訳するとね、こうなるの。良く聞いてよ。

『笑太が東京でどうなってもそんなことはどうでもいいのよ。でも、私が東京に遊びに行った時の活動拠点がなくなったら大変。だから、笑太がどんなところに住むのか早く知りたかったの。』

こんな感じね。ね、伊美、そうでしょう。」

「ばれたか。さすがに紗加はごまかせないわね。」

「そりゃそうよ。私たちって。小学校に入学したときから今までずっと同じクラスなのよ。何から何までくっきりすっきりお見通しよ。」

「アー良かった。そんなことだろうと思ったよ。でも、残念ながら、伊美の期待に応えることはできそうもないな。」

笑太は、とりあえず、伊美の突然の告白が冗談だと分かり安心した表情を見せた。

「なんで、どうして。理由を教えて。笑太は、愛するこの私を拒否するって言うの!」

 伊美はそう言いながら、今度は最初から笑っている。

「後半部分は翻訳してもらわないと、どう判断していいかわからないな。」

松夫と竹伸それに梅治が笑いながら口を揃えて紗加に尋ねた。

「オーマイゴッド!マンマミーア!こんなところかな。特に意味はないのよ。それはともかく、笑太も含めて四人は素直でユーモアもあって、とってもいい男の子たちだけれど、これからは女性の言うことをよくよく考えてから行動してね。女性は、みんなあなたたちみたいに単純でストレートな物言いなんかしないんだから。ま、さっきの伊美が言ったことは極端過ぎる例だけれどね。」

紗加は今日がグループ最後の日という気持ちがあるせいか、いつもより優しい言い方になっている。ま、その優しさも、今、紗加自身が言ったように、もっと吟味してみる必要があるのかも知れないが。

「女性は私以外みんな天性の嘘つきだという今の紗加の話はともかく、あ、今の『私』って紗加のことじゃなくて、私つまり栄家伊美のことね、日本語は難しいわね、英語はもっと難しいけれど。えーと、何の話だったかな。」

「笑太が東京で住む家のことだよ。」

松夫が笑いながら助け船を出した。伊美は能弁だが、ときにあちこち話題が飛んで行ってしまって、自分でも何が何だか分からなくなることがある。これが天然なのか意図的なものなのかは誰にも分からない。

「そうだった。ねえ、笑太、結局どういう所に住むことになったの?これは紗加の翻訳はいらないわね。」

「それがね、僕は学生専門のマンションに住みたかったんだ。いろいろな大学の学生と知り合いになるチャンスも出来るしね。」

「まあ、笑太ったら、そんないやらしいこと考えていたの?」

伊美が怒った顔をして、両手で二本の角を作りながら、笑太を詰問した。

「なんで、いやらしいってことになっちゃうの。」

「だって、今、笑太、自分で言ったじゃない。いろいろな女子大生と遊べるからって。そんなこと、私、許さないわよ。」

「ねえ、伊美、それって誤訳だよ。僕たちが言うことはそのまま文字通りの意味で捉えてよ。いちいち意訳したりしないで。僕は、『いろいろな大学の学生と知り合いになるチャンスも出来る』と言っただけだよ。」

「笑太は気が付いてないだけで、それって私たち美しい天使たちが聞くと、いろいろな女子学生と遊びたいとしか聞こえないのよ。ま、いいわ、今日は特別に卒業記念ということで許してあげるわね。」

「僕は伊美の許しを必要とする立場なの?何時からそうなったの?」

「何時から?関係ないわよ、そんなこと。笑太クンをからかっているだけだから、何時から許しが必要になったかなんて、そんなことどうでもいいのよ、ねえ、紗加。」

 紗加は伊美と笑太のやり取りを聞いて笑いながら頷いた。

「なんだ。からかわれていただけか。」

「笑太も伊美の顔色から冗談かどうか判断できるようになったら、本当に卒業って言えたのにね。もう少しお姉さんの授業が必要なのかしら?」

乃木紗加は、大きな丸眼鏡がトレードマークになっていて、見た目も、笑太たちより年上の印象が強いので、同級生の間でも、何時からか「お姉」と呼んだり、少し丁寧に呼ぶときには、「お姉さん」や「お姉様」という呼び名が広まっていた。紗加自身も自分のことを「お姉様」や「お姉さん」と言ったりする。紗加は、見かけによらず、本当は恥ずかしがり屋なのかも知れない。

親友の伊美だけが知っていることだが、紗加も丸眼鏡を外せば、伊美に負けず劣らずの美人だった。美人、美人と騒がれ、実力で何か勝ち取っても、美人だからさ、と言われるのが嫌で、いつも丸眼鏡をかけるようになったらしい。伊美のおかしな眼鏡は、ただ単にみんなを笑わせられるからという単純な理由からだったが、それに比べると、紗加には多少自意識過剰の面も見られることになる。勿論、大きな丸眼鏡は伊達眼鏡だ。

伊美も紗加も、わざと、おどけた感じを印象付ける顔を作っているが、紗加は、顔だけではなく、性格にも仮面を被せておどけた女性像を作り上げていた。そのお蔭で、二人とも、面食いと呼ばれる薄っぺらな面々に声を掛けられることから自分たちを完全に防御することに成功している。

その代わり、美人や可愛いらしい女の子の前では緊張し過ぎて普通の会話さえ満足に出来そうにないまだまだ幼さが残り、しかも、自意識過剰気味な笑太たちからすれば何時でも気楽に冗談が言い合える異性の友人となってくれている。伊美も紗加も、笑太たちにとっては有難い存在なのである。

伊美と紗加の二人は、笑太、松夫、竹伸そして梅治の四人に対しては、おどけた女子高生という仮面を脱ぎ捨てる必要を感じていなかった。つまり、笑太たちには大人の男を感じない、そういう男の子たちだったと言えよう。もっとも、笑太たちは、そんなことは何も考えず、ただただ愉快な仲間としか思わずに伊美や紗加と付き合っていた。まあ、だからこそ、この六人の友人関係は長続きしたのだろう。笑太たちは、いわば、お釈迦様の掌の上で飛び回るだけの孫悟空だったわけである。

もし、伊美と紗加が仮面を外し、それなりのお化粧をして現れたら、笑太たちは、それが伊美と紗加だとは気付かずに、ボーとなってしまい、

「ぼ、ぼ、ぼーくは〇〇と言います。綺麗はとってもあなたです。あ、間違えた。あなたはとっても綺麗です。す、好きでーす。大好きです。あなたのためなら、何でもします。だから教えて下さい。あなたの下着の色は何ですか?見てもいいですか?あれ、僕は何言ってるんだろう。」

いきなりそんな事を言ってしまって、平手打ちを食らうことだろう。

「それで、結局、どういう所に住むことになったの。」

紗加だって、笑太の東京での住み家には大いに興味がある。

「それがね、伯父の家なんだ。母の兄の家。」

「最悪ね。笑太にとっても私たちにとっても。」

伊美は宝くじに外れたときのような表情をしている。紗加も同じだ。もともとそんなに期待できないのは分かっていたけれど、笑太が一人住まいのアパートかマンションに住むようになることを願っていたのだ。

「それでも、食事の心配もないし、買い物や洗濯なんかも自分でやる必要ないんだろう。いいじゃないか。僕は最高だと思うよ。」

 竹伸や梅治もこの松夫の意見に賛成だという。

「でも、伯父伯母が目を光らせているからあんまり遊べないよ。」

「ほら、やっぱり、笑太は東京の女子大生目当てで桜慶に行くんだ。それだったら東京になんか行かなくたってここにだって遊び相手がいるじゃない。ねえ、紗加。」

「え、伊美、本気なの?笑太と遊ぶ気があるの、あなた。」

「え、私、そんなこと言った?やだ、卒業で少しおかしくなっているのね。ごめんね、笑太、私を求めても応じられないのを理解してね。」

「うーん。さすがに僕も伊美を求めたりしないと思うけれど。一応、一覧表にバツを大きくつけておくね。」

「あっ、バツじゃなくて三角くらいにしておいて。」

「でも、今、応じられないってはっきり言ったじゃない。」

「卒業でおかしくなっているのよ。」

伊美と笑太とのやり取りを聞いた紗加が、笑太もこれなら東京に行っても大丈夫かなと思って笑いながら言った。            

「はい、笑太は合格。伊美の卒業試験に無事パスよ。」

「笑太、よかったな。休みに帰ってきたら東京での話を聞くのが楽しみだよ。」

そう言った松夫だけでなく竹伸と梅治も笑太が持ち帰ることになる東京での冒険談、冒険と言っても、ジャングルや砂漠に行ったりするやつではない冒険、を本当に楽しみにしている様子だ。

そんな三人の様子を見て、紗加が言った。

「あなたたち三人は大学も地元の学校だし、しばらく私と伊美がレッスンを継続してあげるから楽しみにして。」

「伯父さんのところの家族構成はどうなっているの?」

紗加と伊美の矛先が自分のほうに向きそうになったので、松夫は慌てて話題を変えた。

「まず伯父が緒可志嘉朗おかしかろう、伯母が緒可志佳太和おかしかたわ。そして娘が三人いる。つまり、三姉妹!一番上は僕より一つ上の「瞳」、真ん中が僕と同い年の「泪」で一番下が僕より一つ下の「愛」。年子なんだ、三人とも。この四月からそれぞれ女子大二年、桜慶大一年、そして女子高三年になる。」

「ま、大変。笑太、そんな家に行ったらだめよ。あなたも一緒に逮捕されるかもしれないわよ。」

「どうして。何で、突然、逮捕なんて言葉が出て来るの、紗加。」

「だって、三姉妹で名前が『瞳、泪、愛』なんてまさにあれじゃない。猫の目というやつ。大泥棒よ。正体隠して警察の人とイチャイチャしたりして。私、ファンで何度も見たのよ。」

「ははは。紗加、さすがに古いこともよく知っているし、反応も早いな。」

「でも、あれね。偶然の一致にしては出来過ぎてるわね。」

「なんてたって伯父の名前が「おかしかろう」で伯母が「おかしかたわ」だからね。冗談で漫画のまんま名前をつけたらしいよ。」

笑太の伯母の名前に伊美が反応した。

「え、笑太の伯母さんって『犯し方は』なんて名前なの?よく戸籍通ったわね。」

「違うよ。緒可詩佳太和だよ。伊美が言っているような名前があるわけないだろう。」

「それもそうね。でも、笑太気をつけてね。三姉妹の妖しげな雰囲気に吞まれないで無事に帰ってきてね。ずっとずっと待っているから、待つのを辞めるまでずっとよ。」

「うまい!伊美に座布団一枚。」

「冗談だけで言っている訳じゃないのよ。笑太って、私たち以外にガールフレンドって呼べる女性っていないでしょう、免疫がついていないのよ。だから東京の子の洗練された手口にコロッとやられちゃいそうで心配なの。」

「でも、みんな従妹だよ。そんなことしないって。」

「分からないわよ。だって従兄妹や従姉弟同士でも結婚できるんだし。」

「えっ、そうなの。知らなかった。」

「よく法学部に合格したわね。」

「だって、これから法律を勉強するんだからいいじゃないか。」

「でも法学部志望の人って高校のときから法律に関係する新書なんかを読んだりしてある程度知識を持って進学するんじゃないの。笑太のような人は少数派だと思うわ。」

「そうなのか。ちょっと心配になって来た。」

「今日で最後だから特別講義ね。いとこ同士は四親等なの。いとこは男女と年長年下の組み合わせで「従姉弟」「従兄妹」「従兄弟」「従姉妹」の四通りあるので、全部をひっくるめるときは「いとこ」ってひらがなで書くのが適当ね、余談だけれど。私って雑学博士でもあるでしょう。美しいだけの女じゃないのよ。えーと、何話していたんだっけ。そうだ、それで親戚の間では三親等までは結婚できないの。例えば伯父と姪の結婚は認められないの。でもいとこはいいわけ。祖父母が共通よね、いとこの場合。本人から祖父母まで二親等遡って、そこから相手のいとこまで二親等だからいとこ同士は四親等になるのよ。分かった?」

「何か面倒くさいね。」

法学部進学が信じられない笑太の感想だ。

伊美の説明を聞いて松夫が思いついたギャグはこうだ。

「四頭身なんて、ドラえもんよりは少しいいくらいなんだね、笑太の従妹たちって。」

「今の松夫の冗談は聞かなかったことにしてあげるわ。卒業祝いで。それより、予想される三姉妹の攻撃と防御方法を笑太にレクチャーしてあげましょうよ、紗加。笑太が東京に着いた途端に猫の目たちのお色気攻撃にさらされる危険があるわよ。」

「そうね、それがいいわね。私から行くわ。まず、長女の瞳さんね。朝、笑太が目覚めたらネグリジェ一枚で馬乗りになっているかもね。それで憂いを含んだ目で見つめるだけで何も言わないの。それで笑太がどうしたのと聞いても答えないでゆっくり頭を振るだけ。そしてまた憂いたっぷりの目で笑太を見つめるのよ、黙って。こんなのやられたら笑太はイチコロかもね。でも、いきなり飛び掛かったりしたら駄目よ。いたずらの可能性も高いんだから。こういう時は何も気が付かない振りをするのが一番。そのうち向こうが諦めるか、からかっていただけなら飽きて止めるわ。」

「ありそうね、それ。さすが紗加。どこかでやったことあるんじゃないの。」

「まさか。私ってそんな人じゃないのよ。好きな人が出来たら、正々堂々、好きだって言ってお付き合いをお願いするわ。」

「それで交渉成立となったらそりゃ目出度いね。赤飯炊いてみんなでお祝いするよ。その時は笑太も東京から飛んで帰って来いよ。」

 紗加の本当の顔を知らない梅治は茶化したつもりでいる。伊美も紗加も相手にしない。お互いに本当の顔を知っているから。

「梅治は放っておいて、私は二女の泪さんについて予想するね。笑太がお風呂に入っていると、間違ったふりしてドアを開けて、ごめんなさい、ごめんなさいってキャッ、キャッ言いながら入って来て、自分もちゃっかり服を脱いじゃって既成事実を作っちゃおうとするかも。まあ、この手に乗るかどうかは笑太の考え方次第だけれど、さっさと着替えてお風呂を出てしまうのが一番無難ね。本気かどうかなんて簡単には分からないもの。」

「ねえ、二人とも今日はおかしいんじゃない。いつもはこういう話題全然しないのに。春だからかな。」

「だって、心配なのよ。我らが笑太クンが無事に帰ってこれるかどうか。最後は三女の愛ちゃんね。これはもう間違いないわ。JK十八番のパンチラね。これしかないわ。少し練習して免疫付けよう。」

紗加の提案で伊美がポーズをとろうとしたら、竹伸が冷やかした。

「伊美がチラッと見せたくらいじゃ免疫付かないんじゃないか。もうちょっと、なんて言うか、可愛いって言うか、美人って言うか、そういう強力ワクチンが必要だよ。」

 それを聞いた伊美が「卒業祝いよ。」と言いながら眼鏡を外して投げ捨てた。

「これでもダメ?」

ドタッという音がした。伊美がポーズをとる前に、眼鏡を外して妖しげな表情を見せただけで笑太が倒れてしまったのだ。

「やっぱり、笑太のこと心配。ねえ、東京まで付いて行ってあげようか。お手当はディズニーランドとディズニーシーご招待でいいわ。」

 伊美の場合、心配しているのか、それを口実にしたいだけなのか、判別しづらい。

「いや、大丈夫、大丈夫。心配しないで。元気な顔で帰って来ることを約束するよ。」

 頭を搔きながら笑太が立ち上がった。

「笑太、元気な顔で帰って来るのはいいけどさ。お前が倒れるのが早すぎて、俺たち、別人のように綺麗になった伊美のチラっとを見逃しちゃったぞ。これ『付け』にしておくからね。」

梅治は冗談ではなく、本当に残念がっていた。

「梅治クーン、ホントに残念ね。伊美ったら今日は下着付けていないらしいわよ。」

紗加がめずらしく妖しい笑みを浮かべながら言った。

「本当なの?」

笑太もびっくりの二乗という顔をしている。

「ははは。勿論、嘘よ。本当にすぐ騙されるんだから。乃木紗加お姉様最後のレクチャーね。君たちのような少年以上青年未満の男の子はね、女の子のことを特別なものとして考え過ぎているの。世の中の半分は女性なのよ。もう少し普通にしていればいいの。伊美があの変な眼鏡をかけているときと接し方は全く同じでいいの。眼鏡をとったら美人だったとしても、ね。あのことだって握手するのと同じように気楽に考えて。そうじゃないと反って失敗するわよ。これ、私からあなたたちへの贈る言葉。」

 お笑い松竹梅の最後の集会はこの紗加の言葉で締めくくられた。

               3

「東京駅に着いたら、ホームで泪ちゃんが待ってるからね。泪ちゃんには到着時刻だけでなく何号車に笑太が乗っているかということまで伝えてあるし、笑太の顔は写真を見て分かってるって言ってたから心配ないわ。念のため、泪ちゃんのスマホの番号のメモを渡すからね。嘉朗兄さんにくれぐれもよろしくね。佳太和さんにも勿論だけれども。分からないことは瞳ちゃん、泪ちゃんにすぐに聞いてね。女の子ばかりだから、笑太を大事にしてくれるはずよ。泪ちゃんなんか、笑太と同じ桜慶大進学なんだから、ホント、安心だわ。」

 笑太の母笑井杉世は、自分の世代の常識で語っている。今の時代、三姉妹の中に突然従弟が飛び込んでいったらどうなるか、特に笑太のようにまだ少年を脱し切れていない場合、どんな洗礼が待っているか、そんなことは杉世には想像できないことだった。

 新幹線の座席に座って、駅で買った缶コーヒーを飲みながら、笑太は、事前に伯父の家から送られてきた三姉妹の最近の写真を眺めていた。最後に会ったのは、笑太が小学校の三年生のときだったので、あまり、覚えていないし、覚えていても、役に立ちそうにない。十年位経っているのだ。女の子はそれなりの女性に変身しているはずだ。特に泪たちは東京で暮らしているのだから、中身はともかく、外見はもう大人の女性そのものかも知れない。

 そんなことを考えながら、母から渡された伯父の家族全員の集合写真を見て、泪たちは三人とも、なかなか美人揃いだなと笑太は嬉しくなった。家族全員で写っているものだけでなく、一人一人で撮った写真もあった。長女の瞳は美人系、大人の女性のアンニュイな雰囲気を漂わせている。おそらく、笑太に渡す写真ということで、意識して撮影したのだろう。化粧の仕方や表情ひとつで写真の印象なんていくらでも変えられる。でも、笑太クンの頭には、そんなこと全く浮かばない。ただ、目の前の写真に写っている瞳の姿から、自分をすっかり包んでくれる優しさを持ち、かつ、どこか寂し気なところがある素敵なお姉さんという像を勝手に作り上げてしまって、その虚像と一緒にいる自分の姿を思い浮かべて酔いしれてしまっている。爆笑高校の卒業式の日に、紗加が与えてくれた教訓はどこかに忘れて来てしまっている。

 次の写真の被写体は、三女の愛だった。愛の写真は、長女の瞳の写真とは対照的な感じで、ただ、ただ、愛くるしいとしか言いようがないセーラー服姿の愛がカメラ目線でニッコリ微笑んでいた。見る人が見たら細かく手を入れて作られたものだと分かる写真だったが、笑太は、あの、愛ちゃんがこんなに可愛らしくなったのか、と可愛い従妹と再会できることを単純に喜んでいる。道路でぶつかって倒れてしまったとき、相手の男性によって、「あ、大丈夫です。大丈夫です。それよりお怪我はなかったですか。本当に不注意で御免なさい。」と可愛らしく謝る方法と、「ぶねぇな、気を付けろ!」と昔のスケバン風に相手を怒鳴りつける方法の両方を巧みに使い分ける女子高生がいるなんてことは頭の隅にもない、それが我らが笑太くん。

 三枚目が今日待ち合わせをして、緒可詩家まで案内してくれる予定の二女の泪。写真を見るなり笑太は驚いた。亡くなってから何年も経つのに、いまだにビデオライブに大勢の観客が詰めかけると言われている女性歌手そっくりな泪が写っていたからだ。ジーンズ姿も様になっている。泪は、同い年で、しかも、四月からは同じ桜慶大に通うことになる。この写真の泪と一緒に家を出て、電車に乗ってキャンパスまで通う。周囲の男性たちの羨望の眼差しをしっかりと意識しながら、どうってことないよという顔をして優越感に浸っている、そんな自分の姿を思い浮かべて思わずにやける笑太だった。

「お客様、とても嬉しそうでいらっしゃいますね。」

視線を写真から通路に移すと、明るく微笑んでいる社内販売のお姉さんが横にいた。泪の写真にばかり気を取られて、彼女が来ていたことに全く気が付いていなかった。

「ええ、あなたがとても綺麗だと思って。」

笑太の口から自然にこういう言葉が出て来た。伊美と紗加のレッスンの成果かも。

「あら、お客様は皆様そうおっしゃるのよ、困ってしまいますわ。それで何かお求めになりますか?」

お気を付けて、ご旅行を楽しんでね、という言葉を残してその社内販売の女性が前方の座席の方に歩いて行ってしまった後、笑太は、また、泪の写真を見て妄想に耽った。

 キャンパスでいつも二人が仲良く会話している。笑太が時には得意の冗談をかましたりして。そうすると泪が「笑太ったら、いやだ。」とかなんとか言って、笑太を叩く振りをする。それを見ている友人たちの羨ましそうな顔、また、顔。友人たちにも二種類あって、笑太の友人の場合と泪の友人の場合の両方が考えられる。泪は共学の桜慶大付属高出身だから、泪の男の友人だって、相当数いるだろう。付属からの進学者の間では、泪が三姉妹の真ん中で男兄弟はいないってことをみんな知っているはずだ。六年間も通っていたのだから。彼らは、笑太と泪の関係を怪しむだろう。もう、体の関係があるのだろうかなんて、そんなことまで考える学生もいるかも知れない。いいね、いいよ。楽しくなってくるな。そうだ、泪と相談して、演技をしよう。いかにも、深い仲にある男女を装うのだ。羨ましく思うだろうな。高校のときの伊美や紗加では、一緒に歩いていても誰も振り向いてくれなかった。今度は違う。二人の後を付ける学生もいるかもしれない。そうだ、泪と示し合わせて、キャンパスの出口で落ち合って、尾行して来る学生がいたら、駅の近くのスーパーで仲良く買い物をしながら、わざと腕を組んで家に帰ろう。そうそう、どっちみち家の表札に緒可詩の他に笑井というのも付け加えることになるから好都合だ。絶対、あの二人はもう結婚しているかそうでなくても同棲しているぞって勘違いする学生が出て来るぞ。そこまでいったら種明かししよう。いや、ずっと、演技を続けて行って、いつの間にか演技ではなくて、真剣勝負になるというのもいいな。伊美が教えてくれた、いとこ同士の結婚は認められるって。泪と結婚したら、瞳姉さんは本当に姉になるし、愛くるしい愛ちゃんは可愛い妹だ。言うことなしだ。万歳!

 笑太が、そんな妄想に浸っていると、車内放送で、間もなく東京駅に着くというアナウンスがあった。

 ホームに降りてすぐに、写真の泪と同じ服のジーンズルックの女性の姿が目に入った。大き目のバッグを持っている。笑太が泪を見つけやすいように、今日着る予定の服と同じ服を着ている写真を予め送ってくれたんだと思った。けれど、どうも、写真の泪とは別人で、服の一致は偶然に過ぎないのではないかとも思われた。今、ホームにいる女性は、確かにそれなりの美人だし、スタイルも良い。でも、一緒に歩いて周囲の男性から羨望の眼差しを受けるという笑太の妄想からは遠い、そんな感じだ。写真に写っている泪の顔は、瞳の写真と同じようにどこか大人の女性の寂しさを漂わせていたが、今、そこにいる彼女は、明るく活発なイメージで、このまま一緒に地球の果てまで走り抜くぞー、とか言い出しそうだった。笑太がその女性が泪だと断定しかねていると、女性の方から、声を掛けて来た。

「おっす、笑太。オ・ツ・カ・レ。久しぶりだね。荷物もって上げる。叔父さん、叔母さん、それに杉太兄さん、みんな元気でしょ。あ、それと笑太は高校卒業おめでとう。私も、卒業おめでとうの仲間よ。お祝いの品は、何がいいかな。そうだ、今欲しくてたまらない靴があるの。それでいいわ。我慢してあげる。値段?そんなに気にしなくてもいいわよ。せいぜい数万円よ。何ぼんやりとしているの。危ないわよ。東京の人は、昔の「狭い日本そんなに急いでなんとやら」の世界そのまんまだから、田舎から出て来たばかりだと面食らうかも。でも大丈夫よ、心配しないで。桜慶付属一の美女天使と呼ばれたかった私が付いていて、いつも導いてあげるから心配しないで。大丈夫、大丈夫。今日も元気だレッツゴー。」

 これだけのことを笑太が聞き取るのがやっとという早口でしゃべった後、泪は笑太のバッグを持って階段を降り始めた。後ろから付いて行きながら、笑太は、慣れない東京に出て来て、迷いもせずに、すぐに泪と出会えたことでほっとする一方で、車中でイメージした泪と過ごす学生生活を大幅に修正しなければいけないかも知れないと思って、それまで高揚していた気持ちが低下していくのを感じていた。

 改札を出た途端に、泪が笑太の腕を捕まえて、タクシー乗り場の方向に引きずるように引っ張り始めた。

「ねえ、笑太。これからホテル行こう、ホテル。いいでしょ。折角、東京に出て来たんだから楽しんで。私が相手をして上げる。桜慶付属一の美少女と呼ばれたかったこの私がね。今日は何だってしちゃうわ。心の整理はできているのよ。笑太が東京に出て来るって聞いた時からずっと考えていたの。私って乙女チックでしょ、ずっと一つのことを想い続けるなんて。笑太がその気になったらいつでもできるように準備オーケーの状態よ。タクシーの中で試してもいいわよ。」

「でも、一度、家に行ったほうがいいんじゃないかと・・・。」

「いいのよ、家になんか行かなくて。明日でいいの。今日は夜遅くまで、じっくりと楽しんで。私、こう見えてもすごいのよ。あれやらこれやらいろいろな武器を持っているの。笑太は、経験が少ないか、ゼロでしょ。今夜は覚悟してね。」

 いきなり泪にホテルに誘われるという展開に笑太は狼狽えてしまったが、そのうち、今日、泪と初体験をすることになっても悪くないなと思い出した。松夫、竹伸、それに梅治にそのことを話してやるんだ、実物そのままの泪の写真でなく、列車内で眺めたあのゾクゾクっとするような泪の写真の方を見せながら。三人とも羨ましがるだろうな。ひょっとしたら鼻血を出してぶっ倒れるかも。でも、東京の女の子って、みんなこんななのかな、そんなことないよな。泪は特別なのかも。泪にとっては普通のことなんだろうか、最初はいつだったのだろう。まさか中学生のとき?それにしても経験者であることは間違いないな。泪に全部任せて、人生初の夢の世界だ。そんなことを笑太が妄想していると二人が乗ったタクシーは東京でも三本の指に入る高級ホテル「ホテル財務」に着いた。何年か前になぜか名称変更している。

 さすがに、そこがラブホテルではないことは笑太でも分かった。

「やられた。騙された。何だよ、泪、僕はすっかりその気になっちゃっていたよ。」

 笑太が笑いながらそう言っても、泪はフロントに着くまで何故か黙ったままだった。

「ダブルの部屋を予約済の緒可詩です。」

「緒可詩様ですね。いつもご利用有難うございます。これがお部屋のキーカードになります。何かありましたらいつでも係にお電話下さい。」

 フロント係に礼を言って、泪は笑太の腕を取ってエレベータの前まで案内した。

「いつもご利用有難うございますって言ってたけど、泪はこんな高そうなホテルによく泊まるの。」

「まさか。父が会社の仕事の関係でこのホテルを頻繁に使うのよ。主に接待でね。だから、ホテルのレストランのシェフとか今のフロントの方なんかとすっかり顔見知りになっているの。ホテルからしたら上得意ね。毎回、結構な金額を落としていくから。それに、私たち家族もよくラウンジでお茶を飲んだり、時には最上階の見晴らしのいいレストラン、気楽なブフェスタイルのレストランなんだけれど、そこでお食事したりしているので、ホテルの方とも顔見知りになっているの。それとね、一つ教えてあげる。フロントの方が言った『いつもご利用有難うございます』の意味をね。」

「文字どおり、泪がいつもここを利用しているって意味じゃないの。」

「あれってね、もう少し頻繁にお出で下さい、お待ちしてますよって意味だと思ったほうがいいの。」

「へえー、そうなんだ。知らなかった。」

そう言いながら、そう言えば、卒業式の後、女性の言葉の解釈は難しいと紗加が言っていたけれど、解釈が難しいのは女性の言葉だけじゃないんだな、泪のほうが、東京生まれの東京育ちだから自分より大人になるのが早いのかもと、笑太は思った。

「そうなのか。大人の世界って複雑なんだ。大人になるって、大変なんだね。」

「そりゃそうよ。あのね、学校の先生がおっしゃっていたけれど、『おとな』という言葉は、『おとなしい』からきているんだって。子供は思ったことをすぐに言ったりしてうるさいけれど、大人になるとね、言った後の相手の反応なんかもよく考えながら話すので、自然と静かになる、だから、おとなしくなることが大人になることなんだって。」

「じゃあ、泪はまだ大人になっていないってことなんだね。」

「え、何か言った?」

「何でもないよ、気のせい、気のせい。」

「お部屋はあの角を曲がったところよ。」

「そう言えば、さっき、ダブルの部屋って言ってたよね。」

「そうよ。私も一緒だから。」

「えっ、本当に?そんなこと思いもしなかった。」

「あら、案内人の仕事が終わったらすぐに帰れっていうの。笑太ってそんなに冷たい人だったの。幻滅。」

「いや、そうじゃないよ。そうじゃないけどさ。僕たちいとこ同士と言ったって男と女だよ。同じ部屋に泊まるのって抵抗感じないの?」。」

「私は全然ないわよ。あっ、分かった笑太ったらいやらしいこと考えているんでしょう。だめよ、そんなことばかり考えてちゃ。私もよく考えてはいるけれど。」

だんだん笑太の頭は混乱してきた。タクシーに乗るあたりから、泪の様子はおかしかったと言えばおかしかった。どうしたのだろうかと思ったところで、笑太は、伊美や紗加と三姉妹対策をやったのを思い出した。これは全部、泪のいたずらなんだ。所謂ドッキリってやつで、僕が完全に引っ掛かってその気になったところで、愛ちゃんか瞳さんがパネルを持って出て来るんだ。危ない、危ない、引っ掛からないぞ、と一旦は気を引き締めた。

「さあ、部屋についたわ。中に入ったら早速しましょうね。」

「え、何をするの。ちょっとゆっくりしたいんだけれど。」

「ホテルに着いてすることと言ったら、あれとあれって相場が決まっているでしょう。さあ、早く服を脱いで。着替えはこのバッグの中でしょ。後で持って行くから、さ、さ、早くシャワーを浴びてしまって。時間が勿体ないから。私も笑太のすぐ後でするから。一緒でも構わないけれど」

 お風呂に入っていると、泪が間違えた振りをして入ってくるというシナリオを伊美は予想していたけれど、その通りになって来たな、この後、本当に泪が間違えたと言って入って来て、裸になってしまうのかな、なんて笑太が嬉しいような、怖いような、そんな展開を考えながらシャワーを浴びていると、本当に泪が入って来た。服は着ていたけれど。

「着替えは、そこにおいてあるからね。次は私がシャワーするから、着替えを持って出て、ベッドのところに戻ってから着てくれる。少しでも急ぎたいの。もう私、我慢できなくて。ね、笑太、お願い、そうして。」

 言われるままに、笑太は、ベッドのところに行って新しい下着を付けて、ズボンを履き、シャツを着た。結局、すぐに脱ぐことになるのかな、などとまだ妄想が頭を離れないでいた。すっかり泪のペースに嵌っている。

「お待たせ。」

そう言って、泪がユニットバスから出て来た。服を全部着替えていた。今度は少し、シックな感じでこのホテル内を一緒に歩いても恥ずかしくない。

「さあ、行こう。」

「行こうってどこへ行くの。」

「最上階のブフェレストランよ。さっき話したでしょ。私もうお腹が空いて、空いて、我慢の限界。シャワーしている時間がホントに長く感じたわ。」

「そうか。ホテルの部屋についてする「あれ」と「あれ」って、シャワーを浴びてさっぱりしてレストランで食事することだったのか。」

「当り前でしょ。他に何があるの。あっ、やっぱり笑太はいやらしいことを考えていたんだ。まあ、仕方ないわね。ホテルで、こんな美女と二人きりだものね。」

「でも、泪だって、そう言うことを連想させることばかり言ってたじゃないか。すっかり面食らって、さすがに東京の子はすごいな、これから四年間大丈夫かなって少し心配になっていたんだ。」

「いやだ、私の言ったことをよく思い出して。私は、一つもいやらしいことなんか言ってないわよ。全部、笑太の妄想。」

「でも「今日は何でもしちゃう」とか「タクシーの中で試してもいい。』、それに『いろいろな武器を持っている』、『笑太は経験が少ないかゼロでしょ。』とも言っていたよね。」

「そうよ、その通り言ってたわ。これのことよ。今、私、凝っているの。」

そう言って、泪はスマホのゲームの画面を笑太に示した。確かに闘いがテーマのゲームで勝ち進むと武器も増えていく、笑太が未経験の新しいゲームだった。

「泪のほうが一枚上だと言うのがよく分かったよ。いきなり「ホテルに行こう。」って言われて、僕はすっかり舞い上がってしまったんだね。なんでもかんでも、いやらしいことに繋げちゃったみたいだ。でも、とってもハラハラドキドキして楽しかったよ。こんなスリル満点の時間は今まで全然経験したことがなかったから。今度、実家に帰ったら、高校の友人たちに面白可笑しく聞かせてあげられるお土産話ができて嬉しいよ。有難う、泪。」

「ユーアーウェルカムよ。あ、一つ嘘をついてたの、私。それは謝るわ。」

「嘘?」

「うん。私も泊まるみたいなこと言ったけれどあれは嘘よ。食事して部屋で少し雑談ていうか、我が家のことを説明したら私は帰るわ。明日の朝、チェックアウトの頃、お迎えに来て、フロントの辺りで待っているわ。それからお金のほうは心配しないで。全部、父の方で処理することになっていて、ホテルも了解しているから。」

「一つ聞いてもいい?」

「何?今日の下着の色は何ですか、なんて言う質問には答えないわよ。って言うか、答えられないわよ、今は履いていないから。」

「ははは。引っ掛からないよ。高校の仲間にも同じ手でからかわれたことがあるから、その手の話には慣れているんだ。」

「まあ、そんな彼女がいたの、高校に?」

「いや、彼女なんかじゃないよ。僕たちは、「お笑い松竹梅」というあだ名をつけられた、とっても愉快な六人組で、そのうち二人が女子だったんだ。彼女たちが、僕たち男子勢は、大人の女性の刺激に慣れていないから心配だって言って、卒業式の後でレッスンと称して、いろいろと冗談半分にやってくれたんだよ。」

「分かったわ。おそらく笑太は気が付いていないと思うけれど、その二人のうち、どちらかは「笑太命」なのよ。女の直感。」

「えっ、そうなの。そんな感じは三年間で全然感じなかったけど。」

「好きだ、好きだって言うだけが愛情表現じゃないのよ。」

「そうなのか。僕なんか、好きな人が出来たら一直線に突き進むことしか考えられないけれど。それでさっき聞こうとしたことだけれど。今日の泪の行動のシナリオって、泪自身が考えたの?」

「それって、試験の途中で答えを聞くようなものよ。」

「そうか、分かった。まだまだ途中だってことだね。」

「さすが桜慶進学の笑太くん。飲み込みが早いわ。これからもお楽しみに。最後まで行って、楽しかったって落ち着いて言えたら、試験合格ね。」

「でも良かった。泪って普通のノーマルな女の子だったんだね。ホテルに行こうって言われたときから、ドキドキしながらも心配になっていたんだ、何か、泪ってとんでもない女の子だったらどうしようかなって。これから一緒に暮らすことになるのに。でも安心した。四年間よろしく。」

「こちらこそ。楽しみにしてるわ。笑太が男子学生と友達になれば、その人と私も親しくなれる可能性が高いんだもの。なにしろ、同じ家に住んでるんですものね。できるだけ私の趣味に合った人と友達になってね。それから普通の女の子というのは間違っているわよ。これだけ美しいんだから。」

「はい、はい、そうだね、そうだね。それとさ、泪は、中、高と共学でしょ。決まった人とかいないの?」

「男の友だちは山ほどいるわよ。何しろ、私、この美貌だもの。だけどみんな気さくに冗談を言い合ったりできる人ばっかり。わざわざ少女の演技を必要とするって感じる男の人には残念ながら出会わなかったの。それで、大学では、外部進学の子もたくさん入って来るじゃない、それに期待しているの。一生に一度の運命の出会いを。」

「ふーん、そうなのか。」

 笑太は、泪が、いたずら好きみたいだけれど、本当に普通の女の子だったということに安心し、そして、どうやら自分は泪にとって「運命の出会いの人」候補に入っていないということにほっとするようながっかりするような、複雑な気持ちになった。

 最上階のブフェレストラン「ミハルカス」では、東京の夜景が良く見渡せるテーブルに落ち着き、笑太は好物を次から次へと胃袋に注ぎ込んだ。未成年で酒が飲めないのが残念だった。成人式を終えたら、もう一度、ここへ来て、ワイングラスを傾けながら、このステーキの焼き具合は最高だね、なんて言ってみたいな。そのとき、向かいの席に座っているのは誰がいいかな、写真に写っているほうの泪なら最高だな。でもあれは創りものだからな。本物の泪だったら、ワインを味わっている僕の向かいで大ジョッキのビールを一気に飲み干しながら「ブハッツ、うめえ。」とか言いかねないもんな。伊美はどうだろう。眼鏡をとった伊美の顔は普段の伊美からは想像できないくらい綺麗だった。あの伊美なら大歓迎だな。但し、静かに食事してくれたらという条件付きだけれど。でも、三年間もあんな美人と一緒にいて全然気が付かなかったなんて、ホントに馬鹿だな、僕たち。でも、もし気が付いていたら、あんな風に気楽に付き合えなかったな、きっと。

「部屋に戻るよ、笑ちゃん。」

泪の声で笑太の空想は中断した。いつの間にか、呼び方が「笑太」から「笑ちゃん」になっている。

「食事したら疲れが一度に出ちゃったわ。やっぱり泊まっていっちゃおうかな、私。」

  部屋に戻るエレベータの中で泪が物憂げな表情を作りながら笑太を誘った。

「それじゃ、僕の代わりに泊まればいいよ。僕は伯父さんの家に泊まるから。」

「合格ね。とりあえず私の試験はこれで終わりよ。」

「良かった。でも、きっと、明日から瞳さんや愛ちゃんからも出題されるんだろうな。気を付けなきゃ。」

「大丈夫よ。私の試験をパス出来たんだもの。姉さんや愛のことを警戒したりしないで、楽しんで、青春館の出口にある恋愛ゲームだと思って。応援してるわ。」

「優しいんだね。」

「だって、東京駅からずっと二人でいて、私ったら、自分でも不思議なんだけど、段々と・・・・・・・。」

「段々と、何なの?」

「もう、笑太の意地悪!」

「あっ、これ試験の続きでしょ、まだ続いていたんだ。危なかった。」

「随分学習したね、笑ちゃん。でも私、今複雑な気持ち。」

「複雑ってどういうこと。」

「笑ちゃんの判断を狂わせるほどの魅力がないのね、私って。」

泪は目に涙をためている。

「そんなことないよ。泪はとっても魅力的だよ。ほら、これで涙を拭いて。でもすごいね、自由自在に涙を流せるなんて。」

「ははは。完全に見破られたわね。私って中学からずっと演劇部に入っていたの。」

 二人は笑顔で宿泊部屋に戻り、泪が緒可詩家の説明を始めた。

「瞳姉さんと愛ちゃんについては、直接会うのが一番ね。母と父なんだけれど、父が急に休みが取れることになったって言って二人で喜んじゃって、すっかり笑ちゃんが上京する予定の日だということを忘れて一泊旅行の予約を入れちゃったの。それで仕方がなくて笑ちゃんのためにこのホテル予約したってわけ。でも二人ともおっちょこちょいなだけで、笑ちゃんが来ることはとても喜んでいるのよ。その点は大丈夫。私たち三姉妹だから、男の子が一緒に住むことになるのがすごく嬉しいみたいよ。私たちも大歓迎だから安心してね。」

 泪の話を聞いて、上京したその日にこんな立派なホテルに泊まることになった理由が笑太にもよく理解できた。母が、

「兄さんは人がいいけれど、おっちょこちょいだし、姉さんも同じだから、それは分かってあげてね。まあ、瞳さんや泪さんがいるから大丈夫だと思うけれど。」

と言っていたのも思い出して、その通りなのだと思った。 

「それと、父は、名前のイメージどおり、次から次へとジョークを飛ばすけど気にしないでね。正確に言うとね、ジョークだと本人が思っていることを次から次へと話すと言うことね。面白くないけど気が付かない振りをしていればオーケーよ。本人も口にすればそれで満足するみたいで、わざわざ笑ってあげる必要はないの。以前はね、私たち三姉妹の間で笑い係という当番を決めて、笑ってあげていたけれど、もう止めてしまったの。それとね、これ大事な話なんだけれどね、父に関してはね、騙されやすいって言うかなんて言うか。」

 そう言いながら泪が思い出し笑いをし始めた。

「騙されやすいって何かあったの?」

「大あり。去年のことだけれどね。オレオレ詐欺の電話が掛かって来たのよ、家に。父がたまたま家にいて受話器をとったの。そうしたら『お宅の息子さんが事故を起こした。今なら被害者に現金を渡せば示談で済ませられる。駅前にいるから百万円用意して持ってきて欲しい。紺色のスーツで弁護士バッジを付けているからすぐ分かる。』っていう電話だったの。」

「え、それで騙されてお金渡しちゃったの?」

「そうなのよ。考えられないでしょ。だって、うちは三姉妹で息子なんかいないんだから。詐欺だってすぐに分かるじゃない。それなのに、父ったら事故ったって聞いただけで慌てちゃって、何も考えられなくなって騙されちゃったって言うのよね。」

「へーえ。そんなことがあったんだ。知らなかった。」

「恥ずかしすぎて、どこの親戚にも話していないはずよ。それとね、だまし取られたお金は致命傷になるような金額ではなかったけれど、私たち三姉妹の間ですこしだけ心配していることがあるの。だから、今日、ちょうどいい機会だから予め笑ちゃんにも話しておいたほうがいいと思って、恥を忍んで話したの。」

「三姉妹の間で心配?伯母さんは心配していないってこと?」

「そこなのよ、問題は。」

「ああ、分かった。叔父さんが騙されたのが、ただ慌てただけとは限らないかも知れないってことだね。」

「さすが、桜慶大の新一年生ね。私もだけれども。」

「伯母さんが、自分が知らない伯父さんの息子がいるんじゃないかって思い始めたら大変かもってことだよね。」

「そうなの。まあ、父のことだから絶対大丈夫だと信じているのだけれど、今、全然そんなことを考えてもみないで笑っている母が気が付いたりするとちょっと心配なのよね。だから、もし、このオレオレ詐欺のことが話題に出ても、絶対、そっちのほうに母の頭がいかないように気を付けてもらいたいの。ごめんね、いきなり、こんなお願いをして。」

「予め聞いておいてよかった。知らなかったら、ふざけて笑いをとるつもりで危ないこと言っちゃったかも知れない。」

               4

 翌日の朝、約束通りに泪が迎えに来ていて、そのまま電車を乗り継いで緒可詩家に向かった。叔父伯母の二人は夕方には戻って来るとのことだった。

 家に着くと、三女の愛は外出していて、泪も間もなく外出してしまい、家の中には長女の瞳と笑太の二人だけになった。瞳も美人ではあるが、例の写真と比べると普通の明るい女性だった。笑太は改めて写真と現実の違いを実感していた。

「ねえ、食べる?」

その瞳がいつの間にか写真の顔になっていた。

「え、何ですか。食べるって?」

「だって、食・べ・た・い・んじゃないかと思って。食べてみたいでしょ。」

一瞬、クラクラっと来そうになるくらいのセクシーさだったが、笑太には余裕があった。瞳からもいろいろ試されるということが予想出来ていたから。

「はい、食べたいです。ランチのことでしょう。もうすぐお昼だし。」

「だいぶ、泪に鍛えられたようね。ちょっと待ってね、すぐに用意するから。今日は、チーズアラカルトよ。」

 瞳の顔は、もう普通の明るい笑顔に戻っている。

「チーズですか?」

「チーズって言ってもスーパーで売っている六ピーチーズなんかとは全然違うわよ。フランスの本物よ。最近、私、凝ってるの。笑ちゃんが来たらすぐにご馳走したいと思って、昨日、銀座の松屋まで行ってきたの。コンテとフロマジェダフィノアとブリヤサバランフレそれにピラミッド。コンテはハードタイプ、フロマジェダフィノアは白カビタイプ、ブリヤサバランフレはフレッシュタイプでピラミッドは山羊なの。青カビとウォッシュは、ひょっとすると笑ちゃん苦手かもしれないと思って今回は避けたけれど、そのうち、挑戦しましょうね。私が選ぶチーズは、どれもこれも滅茶苦茶美味しいわよ。本当は他の人には食べさせたくないけれど笑ちゃんは別よ。遠慮しないでどんどん食べてね。」

「山羊でピラミッドを作ってあるんですか?」

「まさか。山羊の乳で作ったチーズでピラミッドの上のほうをカットしてある形なので、愛称がピラミッドって言うの。」

「そうなんですか。山羊のピラミッドをどうやって食べるんだろうって思っちゃいました。東京の人はやっぱり違うなって。」

「ホント、叔母さんから聞いていたとおりジョーク好きね。それに、うちの父よりよっぽどうまいわ。」

「牛の乳(うちの父)より山羊の乳、ですね。」

「本当にうまい。こっちにいる間に父にその芸を伝授していって。父のつまらないダジャレを聞かされるのが段々つらくなってきてるの、私たち。母は今でも父の話に一人だけ受けているけれど。」

笑太は瞳に勧められるままにまずコンテを一口食べてみて驚いた。見た目は今までチーズだと思っていたものとそれほど違わないが、味が天と地ほど違っていた。フランスではいつも食卓にこのコンテが置いてあるというのが一つのステータスになっていると瞳が説明してくれた。コンテの中でも、今日用意した一八か月熟成タイプが瞳の好みに一番合っているのだそうだ。次いで、笑太は、フロマジェダフィノアの清純な乙女を想わせるさわやかさに感激し、ピラミッドが持つ熟女の妖しさに酔い、ブリヤサバランフレのフレッシュさに元気溌剌な少女の姿を連想してアッという間に全部平らげた。

 瞳も最初は少しいたずらを仕掛けて来たけれど、笑太が冷静に対応したので、合格ということにしたのだろうか、食べている間は何もなかった。笑太と一緒に美味しそうに食べていた。笑太は、チーズってこんなに美味しいものだったのか、他の人には食べさせたくないと言う瞳さんの気持ちがよくわかるなとわざわざ銀座まで出掛けて自分のために用意してくれた瞳に感謝する気持ちで一杯だった。そんな時だった。

「食事も済んだし、することしましようか。」

食事を終えた瞳の顔がまたあのアンニュイな雰囲気を漂わせる妖しげな美女になっている。分かっていても、笑太の心が少し揺らいだ。でもすぐに冷静さを取り戻せた。だいぶ慣れて来たのだ。

「分かったよ、瞳さん。食事の後にすることって言ったら、後片付けだよね。」

笑太は、余裕の表情だ。

「そんな意地悪言わないで、笑ちゃん。年上のこんな美女に恥を掻かせないで。早く、早く。私の部屋に来て。したくて、したくてたまらないの。この頃、相手をしてくれる人がいなくて、どうしようもないくらい欲求不満なの。本当よ。だから早く!」

 笑太は、一瞬、瞳の誘いを本気にしかけた。

「お部屋、すっかり準備出来てるわ。それと笑ちゃんのお好みでサス方でもウツ方でもいいわよ。私、どっちも大丈夫だから。」

 そう言いながら笑った瞳の顔が普通の笑顔だったので、笑太は、冷静さを取り戻して言った。

「ごめんね、瞳さん。僕は囲碁も将棋も出来ないんだ。お相手できなくて本当に申し訳ない。トランプのナポレオンなら得意なんだけれど。」

「えっ、笑ちゃん、ナポレオンできるの。良かった。」

「瞳さんも好きなんですか、ナポレオン。」

「大好きよ。って言うか、我が家は全員ナポレオン好きよ。丁度五人家族だからよく遊んでるの。」

「誰が一番強いんですか?」

「断然、泪ね。元々、共学の桜慶付属中に通い始めた泪がお友達の男の子たちに誘われて覚えたのが始まりなの。泪は、ナポレオンだけでなくゲームは何でも好きなほうなの。スマホのゲームの自慢してなかった、昨日?」

「していました。十分すぎるくらいに。それで、弱いのは?」

「勿論、父よ。とにかくナポレオンになりたがるの。手が悪くてもね。」

 笑太は、瞳と話しながら、昨日の泪との目が廻るほど楽しかったひと時を回想していた。そして、スマホのゲームのことでいたずらするのは打ち合わせ通りなんだろうな、これは、自分に対する三姉妹のいとことしての愛情たっぷりの歓迎パーティーなんだと理解した。きっと、シナリオ原案は泪が作ったのだろう、ひょっとしたら伯父さんや伯母さんが旅行で不在というのも泪の仕掛けだったのかも、伯父さんが急にお休みが取れるようになったというのを聞いて、泪が旅行の手配をして二人が不在になるようにしたのかも、きっとそうだ、と思った。

「丁度よかったわ、笑ちゃんがナポレオンできて。笑ちゃんも分かるでしょうけれど、あれはやり始めるときりがないのよね、もう一回、もう一回って言って。だから、ナポレオン始めると家事が滞っちゃうのよ。六人になれば、一人は必ず手が空くから問題ないわ。」

 昨日から続いている「歓迎パーティー」での演技と、家族全員でナポレオンに熱中している姿のギャップに東京の人たちって面白いなと感じ、笑太はこれからの四年間が本当に楽しみになって来た。

               5

「わたし、もうだめ、お姉ちゃん助けて!」

三女の愛が泣きながら帰って来た。何故かセーラー服を着ている。今はどこの学校も春休みのはずなのに。この段階で、笑太の頭には警戒警報が鳴らされた。

「どうしたの、愛ちゃん。」

 瞳が妹の泣き顔の理由を尋ねた。

「聞いて、聞いて。那賀芳ったらね、もう終わりにしようって言うの。」

「何ですって。あなたたち、二人とも大好きな者同士だったはずよ。何があったの、落ち着いて話してみて。」

「今日もね、最初のうちは、二人で楽しく遊んでいたの。那賀芳は、上手く入れられなくて、焦って時々外していたけれど。なかなか上手にならないのよね、彼。でも、それはそれで可愛いなって思ってたの。でもね、あいつったら急に途中で止めてしまったの。それでね、『どうしたの?』って聞いたらね、『僕は、もう飽きた』って言うのよ。ひどいでしょ。遊ぶだけ遊んで飽きただなんて。あ、笑太さん、いらっしゃい。ごめんなさいね、いきなり、こんな話聞かせちゃって。でもあなたもそう思うでしょう、ひどいって。」

 もう笑太はこの程度のことでは騙されない。

「たった一歳だけれど、僕のほうがお兄さんだ。よく聞いて愛ちゃん。その優しいお兄さんからのアドバイスだよ。今度はサッカーゲームじゃなくて別のゲームを持っていけばいいと思うよ、可愛い、可愛い愛ちゃん。」

 得意気になっている笑太だったが、愛は声を荒げて笑太を詰り始めた。

「ひどい!何がサッカーゲームよ。笑太なんか大嫌い!お父さんと一緒ね、いつも、ふざけてばかりで。私みたいな天使のように可愛い女の子の気持ちなんてこれっぽっちも理解してないのね。サッカーゲームするのにわざわざセーラー服着ていく訳ないでしょ。アイスホッケーゲームに決まっているじゃない。私、これから笑太と楽しい毎日が送れるって、指折り数えて待っていたのよ。それなのに、ひどすぎるわ。ねえ、瞳お姉さん。どう?こんな感じで。わざと倒れて、スカートの中をチラッと見せてあげたほうが、大学進学祝いとして適当だったかしら。でも、それで笑ちゃんが本気になっちゃったら困っちゃうものね。まだお父さんもお母さんも帰って来ていないし。でも、二人でどこ旅行しているのかしら。こんな時期にお休みが取れる会社って、大丈夫なのかしら。だって、年度末よ。弁護士でもない限り大変なはずよ。弁護士は忙しい時は季節に関係なく忙しいけれど、決算期だからと言って特別に大変なことはないんだって。杓子丈義君が教えてくれたわ。杓子君のお父さんって弁護士なの。決算期は平気だけれど、株主総会が集中するシーズンになると大変なんだって。昔は、同じ日に総会が集中していて、事務所の弁護士が手分けして総会に進行アドバイザー的に出席したんだって。総会の前には株主からの予想質問に対する適切な回答を会社の総務や法務の人と検討する打ち合わせ会にも随分時間を取られて滅茶苦茶忙しい毎日が続くんだって。適切な回答っていうのが笑っちゃうわよね。絶対、会社にとって都合がいいって意味よね。それはともかく、総会シーズンでも裁判事件はいつも通り進行しているから、打ち合わせを終えて事務所に帰ってから、夜遅くまでかかって裁判所に提出する書面を作成したりするんですって。そうそう、杓子君が言ってたわ、彼のお父さんの同僚がね、忙しくて、忙しくて疲れてしまって、裁判所に出す書面、準備書面と言うらしいけれど、その書面の作成ができなかったんだって。その期日は、その人がその書面を出すためだけに開かれた期日だったから、忙しくてできなかったなんて死んでも言えなかったのね。だから杓子君のお父さんの同僚弁護士、特明弁護士って言うらしいんだけれど、その弁護士さんは、自分ではとってもうまいと思う言い訳を裁判官にしたんだって。『徹夜して準備書面を書き上げたのですが、いざ、プリントしようと思ったところで、パソコンの電源が落ちてしまって、全部消えてなくなりました。申し訳ありません。これからは随時バックアップを取りながら書面作成を進めることにして、このようなことが起きないように致しますので、何卒今回だけはご容赦下さいますようお願い申し上げます。』って法廷で言ったんですって。そうしたら、裁判官がね、どう言ったと思う。とってもユーモアのある裁判官で、その時期、総会準備で弁護士は大変なんだってこと十分ご存じだったのね。『そういう事情があるのでしたら、今日は、次回期日を決めるだけにしましょう。でも大変でしたね。総会準備でお疲れのようですから、ゆっくり休んで、次回はもっと、なるほどと思える言い訳を考えて来て下さいね。』っておっしゃったんですって。面白いわよね。民事の裁判って、結構、深刻なものもあるけれど、こういう笑っちゃうようなことも起きるんだって、杓子君が言ってたわ。彼が去年、お父さんの事件を傍聴しに裁判所に行った時の話も面白かったわ。あ、裁判の傍聴って誰でもできるんですって。公開の原則ってやつで。それでね、杓子君が傍聴席に座って、お父さんの出番を待っていたら、その前の事件でね、あ、裁判って証人尋問のときなんかは別だけど、主張を出し合うときなんかは、同じ時間に何件も事件が入っていて、訴えてる方と訴えられている方の両方が揃った順に始まるんですって。それでね、杓子君が見ていたら、一方の代理人の弁護士がね、『この書面には斯く斯く云々の誤りがある。断固として認められない。』ってふんぞり反って偉そうに言ったんですって。そうしたら相手側の弁護士から「確かにこれは大きな間違いですね。どうしてこんな間違いが起きるんでしょうね。でもこの書面は先生が書かれたものですよ。」という指摘を受けて、振り上げた手の降ろし所がなくなって困ったんでしょうね、『そうだろう!』って言って偉そうにしたままだったんだって。相手側もあまりに馬鹿々々しくてそれっきりになったんですって。笑ちゃん、大変みたいだよ。法律の世界って。」

「愛ちゃん、それくらいでいいわよ。笑ちゃん、もう、寝ちゃっているわ。」

「笑ちゃん、笑ちゃんったら。起きて、起きてよ。折角世界で一番、町内で二番の美少女緒可詩愛ちゃんの名スピーチだったのに。眠っちゃだめよ、早く起きて。」

「笑ちゃん、疲れているのよ。昨日は泪に引っ張りまわされて天手古舞だったみたいだし。起こしたら可哀そうよ。」

「あら、瞳姉は笑ちゃんに惚れたな。漱石先生も「三四郎」に確か書いていたわ。『かわいそうだたあ惚れたってことよ』ってね。」

「愛ちゃんの目は誤魔化せないわね。私って、少し年下の男の子にものすごく興味があるの。お姉さんタイプの典型なのね。笑ちゃんは私が独占よ。」

 勿論、瞳と愛は、笑太が半分目を覚ましているのに気が付いて、お芝居をしてからかっているのである。笑太の方も、これだけ次から次へとやられると慣れて来て、ドキドキしたりなんかしていない。

「あーあ、良く寝た。ところで、愛ちゃんの演説の途中で眠っちゃったから、今回は単位取れなかったかな。追試は何時?

 そう言って余裕を見せている。

「ううん。あれは、テストじゃなくて、東京の大学に行ったら、こういう人が一杯いるから、それに慣れてもらおうと思っただけよ。前半の方は合格ね。すぐに分かったみたいで随分進歩したわね。」

「えっ、今の愛ちゃんが演じた人みたいな人が一杯いるんですか。」

そう言いながら、笑太の頭に伊美がしゃべくりまくっている姿が浮かんだ。伊美みたいなのは都会じゃ普通なのかな、それにしても、六人組のみんなは、今頃、どうしてるだろう。伊美は紺奈大学経済学部、紗加は庵名大学文学部、松夫と竹伸は伊美と同じ大学同じ学部で梅治は庵名の商学部。伊美と紗加は初めて違う学校に行くんだな。みんなは今、入学準備で忙しいのだろうか。それとも卒業祝いの気分が続いていて、まだ遊んでばかりかな。五人で集まったりしているのかなあ。ちょっと寂しいな。三人のうちのだれかは伊美にアプローチしているだろうか。あの顔を見たら黙っていられないだろうな、普通。でもあの三人のことだから、今まで通りの伊美に対する接し方しかできないで悶々としているかも知れないな。今度帰ったら、東京で学んだしゃれた男女交際のテクニックを三人に教えてやれたらいいなあ。いや、そうじゃなくて、都会の洗練された接し方で僕が伊美の彼氏になっちゃおうかな。でもあのおしゃべりは、なかなか辛いものがあるな。泪や愛ちゃんも相当なおしゃべりだけれど。瞳さんはその点、そこまでおしゃべりじゃないのが癒されるな。でもおもしろいな、瞳さん、泪、愛ちゃん、そして、伊美と頭に浮かんでくるのに、紗加だけは、出て来ないな。結構、二人だけでいた時間は長かったのに。

「笑ちゃん、大丈夫?目を開けたまま眠っちゃったんじゃないわよね。」

瞳が真剣に心配している。笑太にとっては昨日泪に会った瞬間から今まで目の廻ることの連続だったろう、相当疲れているはずだ、ちょっと、やりすぎちゃったかな、という反省の気持ちも交じっている。

「大丈夫、大丈夫。いやね、愛ちゃんの「チラッと」を見てみたかったな、なんてこと考えていたんだ。」

笑太は、いざとなれば冗談だというつもりでとりあえず言ってみた。

「何だ、やっぱり期待してたのか。もう、男の子ったら、みんな見たがるんだから。お望み通り、「チラッと」見せてあげるね。進学祝いの付録ね。」

 そう言って、愛は、笑太の目の前で足を広げて座り込んだかと思うとすぐに立ち上がった。それは一瞬のことだったが、瞬間的に見えたように感じた映像は笑太を半分気絶させるのに十分過ぎた。黒い下着のようにも見え、そうでないようにも思えたからだ。あとで、あれだけやれるようになるまで一週間かかったのと愛が笑いながら打ち明けてくれた。あの時のそれらしい黒い下着は泪がどこかで買って来たということも。

「笑ちゃんは、お話のほうは、随分と抵抗力が出来たけれど、映像の方はまだまだね。でも、そっちも早いうちに鍛えなくっちゃ。東京は、本当に誘惑が多いわ。平気で男子学生に下着を見せて誘う子もすくなくないのよ。でも心配しないで、私たちが、鍛えてア・ゲ・ル。」

 またまた瞳の妖しげな表情を見せられたけれど、さすがの笑太も今は大丈夫だ。この二日間で随分と鍛えられたと思った。でも、まだまだ稽古が足りないと言って、三姉妹の悩ましい姿を見せてもらえるなら、それも悪くないな、そうだ、泪と相談して、三人の妖しげな写真を一杯撮って、夏に実家に帰ったら、松夫たちに見せびらかしたら面白いかもと羨ましがっている松夫たちの姿を想像して喜んだ。それにしても、昨日、今日と、ハラハラドキドキの連続で楽しかったし、本当に、三姉妹が田舎からぽっと出の自分のことを心配して、三人で相談してやってくれたんだろうなと感じられてとても嬉しかった。地元に残って、六人組を維持する選択肢もあって迷ったけれど、こんな素晴らしい経験が出来るなんて東京の大学にして本当によかったと思った。

               6

 四月に入って、笑太の学生生活が始まった。教師の言うことに従っていれば何とかなる高校までと違って、自分で一つ一つ決めながら進んでいかなければならないことに多少の戸惑いを感じたが、付属高校から内部進学した同じ一年生の泪が同じ家に住んでおり、学生生活二年目の瞳までいるのだから、本当に困ったことには出会うこともなく、順調にスタートを切れた。

泪とは、週の半分以上は、家を一緒に出て、同じ電車に乗ってキャンパスに通ったし、帰りが一緒になることもしばしばあった。キャンパス内を泪と二人で歩いたり、学生食堂で一緒に食事をすることもあった。実際に入学してみると、泪は男子学生から、かなり注目される存在だと言うことも分かってきた。泪は、家を一歩外に出ると、家でリラックスしているときの天真爛漫な明るい少女とは全然違う、少し妖しげな光を放つ女子大生に瞬時に変身する。双方を知っている笑太は別として、泪の虚像に恋心を抱く純真な学生が多数いたとしても不思議はなかった。笑太は、泪が冗談で言っていた「桜慶付属一の美女天使と呼ばれたかった」とか「桜慶付属一の美少女と呼ばれたかった」というのは丸きり冗談だったわけではなく、本当に、一番ではないにしろ、それに近い存在だったのかも知れないと思い始めた。

 そんなわけで、笑太がキャンパスを一人で歩いていると、

「お前、緒可詩泪と親しいようだけれど、いつからなんだ?」

「お前と泪は出来てるって噂があるけれど本当か?」

などと男子学生から聞かれることも度々だった。

少しばかり優越感を味わえたが、一見、泪と恋人関係にあるかのように見えるのが大きなマイナスに働いたこともあった。第二外国語のフランス語の授業のときに同じ教室で学ぶ学生の中に、こんな彼女がいたら楽しいだろうなと思う女子学生が一人いたのだが、笑太としては勇気を奮ってお茶に誘ったら、

「笑井君って決まった素敵な彼女がいるみたいじゃない。」

 の一言で振られてしまった。笑太は、わざと泪との関係についての誤解が広まるようにしていたこともあって、今更、あれはいとこで、同じ家に住んでるだけだとも言いづらく、しかも、仮にそう言ったとしても、それが何なの、二股に変わりはないでしょうと言われてそれでオシマイかなと思ってその女子学生は諦めた。

他に笑太の心に響くような女子学生にも出会わず、時間が過ぎて行った。泪とは、時間が経てば経つほど、従兄妹というより兄妹という感じが強くなり、恋愛の対象ではなくなった。誤解は全ての恋の出発点だが、理解の先に待っているのは恋ではなく愛である。あの東京駅での出会いから短期間でそうなったのは、それだけ、泪が何も隠さずすべてオープンにして接してくれたからなのであるが、それはそれで、笑太には、少し寂しいことでもあった。泪の方でも笑太を恋愛対象として考えていないから、そういう仮面を全然付けていない態度を採れるということが明らかだから。

 そうこうしているうちにゴールデンウィークがやって来た。五月三日の憲法記念日、笑太が行きつけの隣駅近くの書店で本を探していると、泪からメールが入った。高校のクラスメートだったという栄家伊美という女性が、家に訪ねて来ている、別の用事で近くまで来たのだが、もしかして、笑太が在宅かも知れないと思って立ち寄ってみたと言っているという連絡だった。すぐに帰るから待っていてもらってほしいと泪に電話し、笑太は急いで緒可詩家に戻った。家に着くと、瞳が、玄関口で待っていて、笑太を見るとその腕を引っ張って耳元で小声で囁いた。

「笑太くん、すごいじゃない。あんな美人のガールフレンドがいたなんて。しかも二人も。東京に出て来たのは間違いだったんじゃない。笑太の顔を見たくて、わざわざ彼女たちの方から東京に来てくれたのよ、きっと。形だけ他の理由を作ってね。でも、早めにどちらかに決めて態度をはっきりさせないと大変かも。」

「二人ですか?伊美一人かと思った。それに伊美は僕と同じで、『お笑い松竹梅』のあだ名を付けられていた愉快な六人組の一人で、仲間であることは間違いないけれど、決して、ガールフレンドと呼べるような付き合い方はしてないですよ。在学中は、風変わりな眼鏡をかけていつもおどけていたから、女の子として見たことないんです。きっと、東京に来るのに、その風変わりな眼鏡は外してお化粧も念入りにして来たんだろうけれど、ちょっと話してみればわかりますよ。」

 笑太は懸命にガールフレンドであることを否定した。

「じゃあ、もう一人の美人が本命で、今、笑ちゃんが言った伊美さん?彼女のほうは付き添いかしら。とにかくリビングで待ってもらっていて、泪がお相手しているから、早く入って。」

 瞳はあくまで笑太のガールフレンドが東京まで笑太の様子を見に来たという説を譲らなかった。

 笑太は、もう一人の女性は誰だろうと思いながら、リビングのドアを開けて中に入った。確かに一人は伊美だと分かった。ただし、眼鏡を掛けず、上手にお化粧をしているから、伊美が来ていると知らなければ、分からなかったかも知れない。

 問題は、伊美の隣に座っている女性だった。確かに伊美に勝るとも劣らないと言えるほどの美人だった。それに伊美と違っておしとやかな印象の女性だ。

「笑ちゃん、久しぶり。元気そうでよかったわ。ごめんなさいね、突然押しかけて。」

 笑太の顔を見て、すぐに伊美が声を掛けて来た。笑太の伯父さんの家だと分かっているから、「笑太」ではなく「笑ちゃん」と「ちゃん付け」である。伊美は元気そうで、笑太が戻って来るまで泪と話をしていて、東京の女子大生が相手だからすっかり興奮しているように見えた。伊美の連れの女性は明るい笑みを浮かべて笑太に会釈したが、特に何も言葉は発しなかった。その後も、ただニコニコして、伊美と笑太それに泪の会話に聞き入っていた。 

「今日は、遠出してなくて良かった。ちょっと久しぶりに伊美の声を聞いて、元気が出たよ。うれしい。ありがとう。紗加や、松夫たちはみんな元気かな。」

「元気、元気。夏休みに笑ちゃんは帰って来るだろうってものすごく楽しみにして待っているわよ。あ、紹介が遅れちゃったわね。一緒にお邪魔したのは、私の幼馴染の知井夢圭。美人でしょ。彼女の親戚がこの近くにいるので、今日はそこに行く途中なの。笑ちゃんの伯父さんの家の近くだと思ったら、急に笑ちゃんの顔が見たくなって、居ても立っても居られなくなって。でも、笑ちゃんの元気な顔を見てほっとしたわ。それに、泪さんがついていてくれるから、私たちが傍にいなくても安心よ、ね。」 

 伊美は、ほとんど一人でしゃべりまくって帰って行った。

「伊美さんって本当に面白い方ね。笑太が帰ってくるまでずっとお話していてすっかり意気投合しちゃった。」

 泪は、伊美のことが気に入ったという。さらに、圭についても、おしとやかな美人だし、伊美と泪の会話にあまり口を挟むことはなかったが、時折見せる知的な話し方は魅力的だったとも言った。

「笑太は、本当に、圭さんとは初対面だったの?」

「そうだよ。伊美の幼馴染って言っていたけれど、伊美の友だち全員を知っているわけじゃないし。高校のお笑い松竹梅という六人組には、伊美と小学校一年から高校三年までずっと同じクラスだったという乃木紗加もいるけれど、いつも大きな丸眼鏡を掛けていて、伊美ほどおしゃべりではないけれど、人を笑わすのが生きがいだなんて言うほどのおどけた感じ一〇〇%の女子高生だったんだ。伊美があんなおしとやかな感じがする人と一緒に行動しているのが不思議なくらいだよ。」

「へえ、紗加さんっていう人もお仲間だったのね。」

「そうだよ。伊美とは学校の外では、お笑い松竹梅の会合、定例会なんて名前を付けてメンバ―の一人の梅治の家の離れに集っておしゃべりしたりして遊んでいたんだけれど、その定例会以外では一緒に行動したことはあまりないんだ。でも、紗加は、僕と同じサッカーの「フロニハイレッズ」の大ファンだったから、何回か一緒に試合を見に行ったことがあるんだ。さっき言ったみたいに紗加は、面白キャラクターだったから、男友達感覚で、こんな僕でも普通に付き合えた。だから、二人きりで過ごした異性ということで言えば、紗加が断トツなんだけれど、異性との交際と言い切っていいのかどうかは疑問。もっとも、伊美だって、卒業式の後で眼鏡を外して、作り目線で僕たちをゾクゾクっとさせるまでは、完全に紗加と同じで気さくに付き合えるキャラクターだったんだ。今日の外見だけからは信じられないかもしれないけれど、あのおしゃべりを聞けば、何となくわかるでしょう。」

「ところで、笑ちゃんは、夏休みになったら、しばらく叔母さんのところに戻るんでしょう。」

 笑太の話が一区切りついたところで、瞳が夏の予定を話題にした。

「勿論、実家で少しのんびりするつもり。東京の生活は楽しいけれど、疲れることは疲れるからね。ひとまず田舎で英気を養ってきて、瞳さんや泪のお色気攻撃に負けないようにするつもりだよ。」

「あら、愛が聞いたらガッカリするわよ。今の話。」

「そうだった。愛ちゃんも追加。」

「まあ、そのあたりの冗談はしばらく置くとして。笑ちゃんは、帰る日が決まったら、伊美さんに日付と時間を知らせた方がいいわよ。」

「なんで、伊美に?」

「だって、圭さんの連絡先知らないのでしょう、笑ちゃん。でも伊美さんに連絡すれば、それで駅前で圭さんが待っていてくれるわよ。」

「え、そうなの?伊美でなく?」

「ええ、間違いないわ。私を信じて。」

瞳の話は俄かには信じられなかったが、駅前で待つ圭の姿を空想して、もしそんなことが実現したら嬉しいなと思った。

 それから、笑太は、伊美に連れられて緒可詩家を訪れたときの圭の姿を想い出しては、得意の妄想の世界に入りこんでいた。伊美、紗加、泪、瞳、愛、それから、あっさり振られた仏語の授業の彼女、笑太の周囲の空間に現れた女性と比べても圭は断トツだと思えた。何故だか分からないが、それは間違いないことのように思われてきた。

それからは、圭と一緒の時間を過ごす自分の姿を空想しては、夢のような気分を味わった。そして、笑太は、あることに気が付いた。「あの写真の泪」が出て来る妄想のときには、何とも言えない妖しい大人の女性の雰囲気を漂わせる泪と共に歩く姿を想い描き、そしてその時、周囲の男性から羨望の眼差しを向けられている自分の姿に酔いしれるばかりだったが、圭と過ごす時間を想うときにおいては、そういう外面を気にする自分はどこかに置いて来てしまっているのだった。

笑太は、それは自分が外面だけでなく圭の内面により大きな魅力を感じているからだと思った。でも、どうしてそんな感じがするのだろう。圭の内面的魅力がそれだけ大きいからだろうか。あの日のリビングのことを何度も思い返して見た。記憶をなぞり、そして考えた。夏が近づいたころ、全ては、卒業式の日、伊美が笑太の東京での住いを訪ねたところから始まっていたということを理解した。ようやく答えが見つかったのだ。それは、伊美の優しさ、笑太に対する優しさであると同時に、それ以上に自分の幼馴染に対する優しさだった。その優しさに笑太は強く心を打たれた。自分は友人に恵まれたと思った。そして、自分は、その優しさを絶対に裏切らないと心に誓った。それからすぐに笑太は帰省する日時を決め、瞳のアドバイスどおり伊美に連絡を入れた。やがて、その日がやって来た。

 夕方近くになって、自宅の最寄り駅である爆笑駅についた。列車を降りた笑太の視線に入って来たのは、瞳が断言したとおり圭の姿だった。今日もあの日と同じようにおしとやかな雰囲気の中にも知的な明るさも兼ね備えた素敵な女性である。笑太も伊美に帰省の日時を連絡した時点でこうなることを確信していた。今、目の前に立っている女性は、成人式の後で、あのブフェレストラン「ミハルカス」で行うつもりのワインをゆっくり味わいながらの二人だけのお祝いの食事、つまり、笑太の「青春卒業式」のパートナーとなるべき女性だ。その時から、自分と彼女の本当の大人の交際がスタートするだろう。それまでには、もう少し時間が必要だけれど、必ず待ってくれるはずだ。自分も、もう、目移りなどせずに真っすぐに進んで行こう。改札を出た笑太は満面の笑みを浮かべている。

「お帰りなさい。元気そうで安心したわ、笑ちゃん。」

「有難う。二人で一歩一歩しっかり歩いて行こうね、紗加。」

                                     了


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ