第25話
俺は大きな問題を抱えていた。
俺が抱える問題といえば、九割がた姉に関係する事柄である。しかし、いま抱えている問題に姉はまったく関与していない。
姉は関与していないが、その問題のせいで一家団欒の夕食タイムが家族会議と化していた。
「駄目なものは駄目だ。無理なものは無理だ。諦めろ」
「なんで駄目なの⁉ お姉ちゃんのときはすんなり出したじゃないか!」
「華絵のときは余裕があったからだ。いまは二人分の進学を控えていて余裕がない」
俺は父と揉めていた。
父が誰かと言い争いをすることはめったにない。
父は優しい。人間らしさを欠いている、と同僚に言わしめるほど温厚な人物である。
母も大概温厚な人種だが、その母が怒るときでさえ、父はかばってくれるし、母をなだめてくれる。
ただ、金のことにはうるさい。
ケチだとか、そういう類のものではなく、価値観にこだわりがあるのだ。
お金に対して誠実であること。
その点にだけは厳しい。
もっとも、お金以外のことでも怒るときには怒る。特に人として不誠実なことをした場合には、その度合いにもよるが、父は激昂して誰にも手がつけられなくなる。
父の怒りは表情や声ではなく、行為に現れる。お仕置きが怖いのだ。本物のお仕置きだ。
姉のお仕置きと称した意地悪なんて、父のお仕置きの前には子供の悪戯程度でしかない。
ともあれ、父は基本的には温厚であり、家族を含め、父が人と言い争いをすることはほとんどない。
今回の親子喧嘩は俺が父に食い下がったから言い争いになった。
ただし俺にも引けない事情があるのだ。
「オクラホマは俺が決めたようなものなんだ。だから俺が行かないわけにはいかないんだ」
修学旅行の話である。
結局、今年の広蒼中学の修学旅行先はオクラホマに決定した。
修学旅行としてはマイナーと思われるその旅行先が決まったのは、間違いなく俺のせいだ。
べつに俺はオクラホマにこだわっていたわけではなかった。
候補の一つとして、それも候補としての順位にすれば五位にも入らない程度の希望でオクラホマのことを考えていたときに、偶然に梓ちゃんとトシが俺と菊市の会話を聞きつけたにすぎない。
男女の人気ナンバーワンが俺に同調したために、多数の生徒がその二人に同調し、そうしてオクラホマが決定したのだ。
もっとメジャーで安価な旅行先の希望は多くあっただろうが、メジャーはメジャーで綺麗に希望が分散したようだ。
おかげでオクラホマというダークホースが飛び出してきたわけである。
「自惚れるな、隼人。おまえのは責任感ではなく罪悪感だろう。広蒼中学の修学旅行先は希望最多数のものが選出される。もし仮におまえが情報操作みたいなことをしてオクラホマが決定されたのだとしても、それは生徒たち全員の自己責任だ。それにオクラホマの希望者が絶対に旅行に参加しなければならないという規定も存在しない」
うちの家計は父が管理している。父が頑なに俺の修学旅行を許可しないのは、単純に旅費が出せないからだ。
旅費は行先によって変わるため、裕福でないが貧乏でもない家庭の生徒は、近場のアジア系を希望する。
しかし、オクラホマはアメリカの州の一つで、学校が算出、提示した旅行費用は15万円だった。
そのうち5万は積立金として学校側で管理してくれているが、残りの10万円を各家庭が負担しなければならない。
「隼人、貯金はないの? 毎月もらっているでしょう? 隼人はあんまり無駄遣いをしているイメージがないけれど……」
お母さん、俺の貯金はほとんどお姉ちゃんに巻き上げられてゼロに等しいよ。
もっとも、これまでに姉に巻き上げられたお金は多く見積もっても2万円程度。それをこの場で口にすると姉が父に殺され、その後に俺が姉に殺されるので、決して漏らしてはいけない。
「貯金はないよ。去年ケータイ買ってほとんどなくなったし、それ以降はほとんどケータイの基本料金で消えているから」
そりゃあ少しは貯金していたけれども、それが姉に渡った2万円であり、仮に姉が俺から搾り取らなかったとして、残り8万円必要なのだ。
「お父さん、めったにワガママを言わない隼人が珍しく駄々を捏ねているのよ。少しくらい融通してあげてもいいんじゃない? イベント事に積極的に参加することが交友関係を広く深く築く近道だって、お父さん、言っていたでしょう? コミュニケーション能力こそ何よりも先立つ事柄として学生のうちから研鑽しておくべき要素だって」
珍しい! 姉が俺を擁護してくれた!
きっとアレが利いているのだろう。
あれは梓ちゃんに呼び出されて俺が家に遊びに行ったときのことだ。
連絡があったときに姉は俺の隣にいて、相手が梓ちゃんだと知った姉は勝手についてきた。
玄関で俺を出迎えた梓ちゃんは姉の存在に驚き、「待って」と言った。
しかし姉が強引に梓ちゃんに近づいたため、梓ちゃんの伝家の宝刀が出たのだ。「心の準備ができてないって言ってるでしょーがぁあああああ!」という、反射的に繰り出されたその渾身のストレートパンチが、姉に向けて放たれたのである。
しかし上級者の姉である。
姉も反射的に防衛行動を取り、しかし姉の防衛行動は同時にカウンター攻撃でもあり、姉は意図せず梓ちゃんを宙高くに放り投げてしまった。
「しまった!」
あの姉にその狼狽の感嘆詞を吐かせた梓ちゃんを賛美したいところだが、彼女は生命活動をする者としての危機的状況に陥っている。それを直感した俺が梓ちゃんを受けとめ、梓ちゃんはどうにか無傷で済んだ。俺は腰を敷石に打ちつけて擦り剥いてしまったが。
結局、そのときに怪我をしたのは俺一人だった。だが、そのときの俺は不幸ではなく、むしろ幸運だったといえる。
俺が梓ちゃんを受けとめたことを、梓ちゃん以上に姉が感謝してくれた。危うく妹分に怪我をさせるところだった、と。
「一回だけ、お仕置きを免除してあげるわ。あるいは、私のためにならない場合でもあんたの肩を持ってあげる」
その一回が、いま、姉の判断によって行使されているようだ。
勝手に行使されているが、俺は嬉しかった。
切り札をお仕置きの免除で浪費しなくてよかった。
しかし、相手は父親の染紅灘蔵だ。
姉も恐れる、あの染紅灘蔵だ。
父は怒るときも声を荒げたりはしない。だからといって調子づいていると、お仕置きという名のとんでもないしっぺ返しが待っている。
そのお仕置きが恐ろしいのだ。
姉のお仕置きとは次元が違う。
人生すら左右されかねない。
もし、脅迫もとい警告がある場合、それはかなり幸せなことだと考えていい。
「少し? 華絵、おまえいま、少しって言ったか? 10万が少しだって? たしかにうちには100万以上の貯蓄があるが、すべて何の予算かもう決定しているんだぞ。それをおまえは知っているよな。じゃあ、おまえの進学費から10万削ることにしようか? 10万が少しなら、おまえになら簡単に稼げるのだろうからな」
「それは……」
父の口調は小川を静かに流れる落ち葉のようだったが、姉にはその落ち葉が頭を持ち上げたコブラに見えたのか、萎縮して身動きが取れない小動物と化していた。
それが分かるようになってきた俺には、いまの状況は姉が幸せなパターンであるということも分かる。
すなわち、これは父の警告であり、それを無視すれば、人生を歩むにあたり踏みしめている岩盤が、たちまちのうちに崩落することになる。
「バイトすれば10万なんてすぐに貯まるだろうさ。実家生のおまえに生活費は必要ないからな。だがバイトなんかしていて、はたしておまえの目指す大学に受かるものなのかねぇ。まぁ、おまえならバイトと勉強の両立もできるだろうが、野球名門校の野球部員みたいなハードな生活は覚悟しておかないとな。かわいい弟のためなら、残りの高校生活を代償として差し出すことも厭わないのだろう? ああ、そういえばおまえには生徒会もあったな」
「ごめんなさい……」
姉は小さく尻すぼみな声ですぐに折れた。
瞬殺だ。うな垂れて、もう誰とも視線を合わそうとしなくなった。
養ってもらっている弱い立場にある姉になすすべはない。
そういった立場の優劣が存在せずとも、ロジックで父に勝つことはできない。
俺も姉もよく知っている。父の言動がハッタリだろうと高を括って突き進むと、家族とは思えないような無慈悲なことを、父は言動にあったとおりに実現させてしまう。
「隼人、おまえ、自分が原因で旅行先がオクラホマになったと言ったな? おまえ、旅費を考慮したうえでオクラホマを希望したんだろうな?」
「いや、でも、オクラホマは希望として出しはしたけど、俺はべつに、そこまでオクラホマに行きたかったわけじゃ……」
あのときはまだ、旅費については調べていなかった。
これから調べようと思っていた矢先に梓ちゃんとトシのトラクタービームに捕まったのだ。
「行きたくもないのに、なぜ希望した? 天邪鬼か? 反抗期か?」
「いや、流れでそうなったっていうか、俺がオクラホマに行きたいのだと思い込んだ友達が、その……」
「そこまで分かっていて、なぜ周囲に真実を説明しなかった? おまえにはこの事態が予測できたよな? そのときに説明責任が生じたと気づかなかったか?」
父の視線が痛い。父はじーっと俺を見据えていて、一瞬たりとも目を離さない。俺の仕草やわずかな変化、反応を観察し、俺の心理状態を分析しながら話している。
父はその手の名手なのだ。仕事柄というか、そういう性質だからこそ転職していまの仕事に就いている。
その仕事が何なのかはあまり他人には言うなと言われている。友達には事業家だと言うようにしている。
「まあ、可能性はあったけど、本当にこんなことになるとは思ってなかったから……」
「ほう、俺はおまえにもリスク分析とリスク回避について教えていたはずだが、おまえは父の教えを軽んじているのか? それとも何か問題が生じて周囲を巻き込んでしまっても面倒なことは放棄する不誠実な人間なのか?」
ヤバイ……。父から不誠実という言葉が出た。
この言葉が出だしたら、父のお仕置きがグッと迫っているということだ。
余計な言い訳をするほどに墓穴を深く掘り進む気がする。
「友達づきあいって難しいんだよ。俺はお姉ちゃんみたいに器用じゃないから、お父さんから知恵を授かったって、それを活用しきれない。それに……」
「それに?」
「計算づくで友達関係を良好に操作しようって、なんか薄っぺらい気がするよ。友情っていうか、信頼関係っていうか、失敗しても助けてくれて、喧嘩しても許してくれて、俺はそういう友達が欲しいよ」
「朋友有心。俺はそういう人間関係を築くためのアドバイスをしてきたつもりだったが」
「いや、そうかもしれないけど、俺が言いたいのはそうじゃなくて、もっとこう、気が置けない仲間っていうか、バカって言い合って笑い合えるような友達がいいって言ってんの!」
うつむいていた俺は一瞬だけ父と視線を合わせたが、すぐに逸らしてしまった。強がって父と視線を合わせようとすると、余計に心の内を見透かされてしまう。
怒っているときの父は、刑事みたいに威圧感があって、弁護士みたいに論理が固く、検事みたいに冷徹で、判事みたいに冷静だ。最後の一つは怒っていなくてもそうだが。
「爾汝之交、それもいいだろう。だが隼人、俺はそれら交友関係の構築方法に関しては何も強制した覚えはない。俺が言っているのは、意図せずであっても無責任な扇動をして、それに気づきながらも放置したことが不誠実だと言っているんだ」
「ごめんなさい……」
正直なところ、中学生にそこまで求めなくてもいいじゃないか、と思ってしまう。
たしかに旅行先がオクラホマになって不満の声をあげる者もいたが、それはオクラホマでなくとも、どこになろうと同じことではなかろうか。
多数決で決めれば少数派は泣き寝入りするしかないのが常というものだ。
母が食器を片付けだした。カチャカチャと音がするが、父が声のボリュームを上げることはなかった。
「だいぶ論点がずれた。結論は一つ。隼人、おまえの修学旅行の費用は出せない。もしおまえが自分で準備できるのなら旅行自体は許可する。言っておくが、パスポートを作るのに旅費とは別に1万円は必要になるからな」
「分かった……」
俺は席を立ち、そのまま自分の部屋に戻ってベッドに飛び込んだ。




