妹の結婚
親父の部屋の掃除を手伝っていたら、懐かしいアルバムが出て来た。つい掃除の手を止めてパラパラとめくっていると、不思議な写真を見つけた。
中学生の頃のかっこいい僕が、全然知らない小学生ぐらいの男の子と並んで写っている。しかも笑顔をくっつけ合い、とても仲がよさそうだ。
しかし僕は知らない。こんなチンパンジーみたいな顔をした、黒縁メガネの小学生の男の子。まったく記憶にない。
あまりに不思議だったので、親父に聞いてみた。
「これ、誰?」
すると親父は呆れた口調で、即答したのだった。
「は? 鈴鹿だぞ?」
驚いてもう一度よくよく見た。これが僕の妹? 鈴鹿? 全然違う。
現在の鈴鹿は女らしくて、ふくよかなところはふくよかなくせに、シュッとしたところはシュッとしている。こんなに無邪気には笑わなくて、コンタクトレンズを入れた目で僕のことをまるで汚いものでも見るように見てくれる二十歳の女子大生だ。
◇ ◇ ◇ ◇
「お兄ちゃん、いい加減にしてよね」
畳の上に仁王立ちになって、鈴鹿がまた文句を言って来た。いつものことなので気にしないが、今日は何が気に障ったのだろうと聞いてみる。
「昨日、わにゃちゃんから電話かかって来た時、居留守頼んだのに、お兄ちゃん、『鈴鹿は今、いないみたいです』って言ったんだって? 学校でわにゃちゃんに嫌み言われたよ? 今度から『みたい』はいらないから! 『いないです』って言って!」
そう言ってぷりぷり怒る。そのスラリとした長身は、いつの間に買ったのか、僕の知らない白いヒラヒラだらけの服を着ている。むっちりした胸の上側と腋の下が露出していて、明らかにこれからどこか男のいるところへ出かけるんだなということがわかる。
妹は小さなアパートで僕と2人で暮らしていた。ショッピングモールの中で小さなファストフードの店を始めた僕のところへ、『下宿代が浮くから』との理由で親父が寄越して来たのだった。
「ごめんね」と僕はいつも優しく謝る。
妹との2人暮らしは、女の子のことを何も知らない僕に、色んなことを教えてくれていた。
女の子がどれほど気分屋なのかも、どれだけ我が儘なのかも、そして実はそんなに綺麗なものじゃなくて、普通に血が詰まってて油の浮いている、いわゆる人間だということも。アニメとは違って、あんなに可愛らしくも優しくもないということもだ。
僕が大学時代、故郷を離れてたから、その間の鈴鹿のことはよく知らない。中学2年から高校3年までの間をタイムワープして急に目の前に現れたようなものだった。だけど別に女らしくなったなどとは最初は思わなかった。やはり肉親だからな。女性だなんて思えなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
いつも兄を兄とも思わないように見下して来るくせに、夜は自分から布団を並べて来た。楽しそうに、くっつくぐらいに顔を近づけて、寝る前の話を僕にねだって来た。
くっつくぐらいに近づいて来るのは甘えているというより、目が悪いからだ。コンタクトを外すと少しでも離れたところのものはほぼ何も見えないらしく、話をして聞かせる僕の表情まで楽しみたいとのことで、そうするのだ。
僕はいつも自分の考えた妄想のストーリーを即興で語って聞かせた。妹はそれを毎晩寝る前の楽しみにしていた。これは昔僕が高校生で妹が小学校高学年だった頃まで2人でやっていた遊びの続きだ。
僕が中学生の頃に考えたキャラクターを、相変わらず妹と共有していた。
「ポコが空に向かって『いのぽー! ぽんぽこぽー!』」
「アハッ、お兄ちゃん、いのぽ好きだよねー」
「すると空からクヮトゥが降って来て、ぴぴぴー!」
「アハハ、出た! ぴぴぴー!」
他の誰が聞いても意味がわからない。僕と鈴鹿だけの世界だ。2人だけにはとても楽しい。
20歳の妹と25歳の僕が、顔をくっつけ合って、まるで9歳と14歳の頃に戻ったように、無邪気に笑い合いながら、夜が更けて行った。
◇ ◇ ◇ ◇
やっぱり女の子なんだなぁ、と意識することもあった。僕が仕事から帰った時、妹はよく遊びに出かけていて留守だったが、必ず料理が作って置いてあった。
得意料理は麻婆茄子だ。もしかして得意なんじゃなくて作るのが簡単なのだろうかと思うぐらい、よく置いてある。僕が茄子を嫌いなことを知らなかったのだろうか? 妹のくせに。
父が鈴虫を飼うのが趣味で、いつもケースの中につまようじに刺された茄子があった。あれで僕は茄子といえば鈴虫の食べ物というイメージを持っていたのだ。妹も同じはずだったのに。
妹の麻婆茄子を無理して食べているうちに、僕はいつの間にか茄子が好きになっていた。
「お兄ちゃん、顔汚いよ」
ある日、突然そう言われてムッとしたことがある。いきなり兄に向かって『顔が汚い』とは何事だ。時代が時代なら即刻処罰が与えられるところだぞ。
「ちょっとじっとしてて」
そう言いながら、妹の顔と手が近づいて来た。
僕の鼻の頭にその指が触れた時、何かがそこに貼られていた。何、これ? と聞くと、楽しそうに「毛穴パック」という聞き慣れない言葉が帰って来た。そういえば妹も同じところに白い絆創膏みたいなものを貼っている。
「見ててみ?」
そう言いながら、鈴鹿が自分の鼻の頭からそれをゆっくり剥がす。僕は産まれて初めて飛び出す絵本を見る子供のようにそれを見た。
剥がされた毛穴パックの接着面の上には、黒い逆向きのつららのミニチュアのようなものが何本も、可愛く立ち並んでいた。
「うえー!? 何、それ?」
僕がびっくりして聞くと、鈴鹿は馬鹿にするように、
「毛穴の中ってこんなに汚れが詰まってるんだよ? それをこれで引きずり出して、綺麗にするの」
ははぁ、女の子が綺麗なのにはこういう秘密があったのだな、と僕は発見した気分だった。妹がいなければこんなこと、知ることはなかっただろう。女の子は自然に綺麗なようでいて、実は見えないところで丁寧に、丁寧に、自分を磨いているのだ。やっぱりアニメの女の子とは違って、ほっておくと汚くなってしまうものなのだ。そんなことが僕には意外だった。
「ぼちぼちいーよ? 剥がしてみ?」
そう言われ、僕は自分の鼻の頭に貼られたそれを、恐る恐る剥がしてみた。見たくないけどとても見たいものに向き合うように、それを見た。妹のつららを遥かに上回るほどに逞しい、高くて険しい真っ黒な山々がそこに屹立していた。妹がキモいものを見て震え出すように悲鳴を上げた。
「うっっわぁ……! 信じらんない! お兄ちゃん、やっぱりお顔が汚すぎる!」
僕は自分の鼻の頭に埋まっていたとはとても信じられない、屹立した黒いその汚物の山々を見ながら、感動していた。25年も生きて来て、もう感動できるものなんてこの世にはないと思っていたのに、まだこんな知らないことがあったんだというように、自分の毛穴からずるりと出て来た汚れを眺め、その視線を妹の顔に移した。蔑むような鈴鹿の笑顔に、なぜか僕は依存するような感情を覚えていた。
父の部屋のアルバムで見つけたあの写真を思い出していた。ダサい黒縁メガネをかけた、チンパンジーみたいな、男の子みたいな小学生。あれがなんでこうなるのかと不思議だった。
僕の家族はみんな目が悪い。僕もメガネをかけていた。その中でも鈴鹿は飛び抜けて視力が消えそうなほどに低いらしく、コンタクトを外すと何も見えないらしかった。だからお風呂から全裸で出て来た時、すぐ近くに僕が立っているのに、全然見えていなかった。
冷蔵庫にビールを取りに行こうとしたら、浴室にいた妹が、どうやらバスタオルを持って入るのを忘れていたらしく、カチャッとドアを開けて出て来たのだ。僕は息が止まり、足が動かなくなった。
鈴鹿は現れるなり辺りを見回した。すぐ側に立っているのに、僕のほうに視線は向かなかった。2メートルもない距離を置いて、妹は僕とは別の世界にいるようだった。お椀型のふくよかな胸を隠そうともせず揺らし、ワカメみたいな下の毛も堂々とさらけ出して、白い裸体を面倒臭そうに屈ませて床に置いてあったバスタオルを手に取ると、後ろ向きに浴室の中へ戻って行った。
その時の、誰に見せる用の顔でもない、鈴鹿の気の抜けた表情が、忘れられない。こいつ、誰も見てないところではこんな顔するんだ、と思った。疲れたような、少し悲しそうな顔だった。口が力を失ったように半開きで、目が辛そうに下を向いていた。僕の知らないところで鈴鹿は育っていた。その間に、どんな悲しいことがあり、どんな苦しい人生があったのだろう。僕はそんなことに思いを馳せた。気づかれなかったことに安堵しながら、ばくばく止まらない心臓を撫でながら、決して今見たばかりの妹の全裸姿を必死で記憶から消去しようとするためではなく。
そしてやっぱり生身の妹はいやだなと思ったのだった。
アニメの妹はあんな表情はしない。
あくまで可愛く、裸なんか見られようものならすぐさま腕で隠し、「キャーッ! お兄ちゃんのバカァ!」とか叫びながら、顔を赤くするだけだ。あんな、複雑に色んなものが詰まっているような表情で、僕に一方的に罪悪感を抱かせたりはしない。
リアルの妹なんかよりも、やっぱりアニメの妹が僕は欲しかった。
『僕の妹がこんなに可愛いわけがない』と思いたかった。『僕の妹がこんなに複雑なわけない』じゃなくて。
チッパイを見てしまい「わー、ごめん!」と明るく言いたかった。
お椀型の生々しい胸を見て、後ろめたい罪悪感に苛まれるのなんて、ごめんだった。
なぜか僕は妹の下着を目にしたことがなかった。
それまでは興味もなかったので探しもしなかったのだけれど、探すようになってからも見つけることが出来なかった。
押入れの中に妹専用の衣裳ケースがあり、その中だと思ったのだが、漁ってみても入っていたのは上着や雑貨、そして日記帳だけだった。
妹は大学に行っていた。僕は迷うことなく日記帳を開いて、読んだ。
女友達とのことばかり書いてあり、意外に彼氏とかのことはなかった。
僕のことを書いてあるのを見つけた。
大学に入ってしばらくしてからの日付だった。そう言えば僕の仕事場に遊びに来たことがあった。
僕はショッピングモールの中にファストフードの店を出店していた。正しくはすべて父がお膳立てしてくれたのを僕が管理しているだけだが。
妹はこう書いていた。
『お兄ちゃんの店に行った。ちゃんと店長してた。アニメのことしか考えてないと思ってたのに、頑張ってる。凄いなぁと思った。見直した』
僕は日記帳をそっと元に戻し、妹の下着を捜すのもやめた。
◇ ◇ ◇ ◇
あれから5年が経った。
僕はもう30歳。
鈴鹿は25歳で結婚することになった。
相手は以前から僕ら家族にも紹介されて、一緒にゴルフやカラオケにも行くようになっていた公務員の男性。僕より5つも年上だ。
イケメンで、性格も明るく優しく、何より僕と違ってしっかりしている。リア充という言葉がぴったり似合う人で、なるほど妹はこういう男を選ぶよな、と思わされた。
両親と彼と僕ら兄妹の5人でホテルに泊まった時、親交を深めようと、1階にある居酒屋で皆で飲んだ。
「ああっ……。飲みすぎちゃったわ。オエェェェ……」
飲みすぎた母が気分が悪くなり、父と妹の婚約者とで部屋まで送って行った。
6人掛けの席に、僕と鈴鹿が残された。途端に静かになった。2人とも無言で酒を口に運び続けていた。
大学時代の妹はお洒落だった。アパートの部屋にいる時はともかく、外へ出掛ける時はいつも綺麗な服に身を包み、男を騙す見事な化粧をしていた。
今の妹がなんだか不幸せそうに見えた。仕事が終わってそのまま来たので制服の紺のスーツ姿なのだが、それがなんだか喪服のように見える。化粧も薄い。髪型にもお洒落が見当たらなかった。仕事の後だから単に疲れているのかもしれない。あるいは結婚に不安を感じていて、それが表情にあらわれているのかもしれない。むくんだような顔がみっともなく、泣いたあとのように視線を酒に落として、半開きの口を独り言を呟くように、声なく微かに動かしている。
「すず……。結婚なんてすんなよ」
僕も酔っ払っていた。動きの悪い口を動かして、そんなことを言った。
鈴鹿は黙っていた。
アニメの妹と違って、リアルの妹は兄を兄とも思わず上から目線でキツくて、たまに優しかったり可愛かったりする時はあるけれど、女だとかはまず思えない、複雑なしろものだということを教えてくれた、妹と同居生活をした日々のことが頭の中をぐるぐると回っていた。僕は狂っていたのかもしれない。永遠に鈴鹿があの男のものになると考えると、居ても立っても居られなくなった。
「すずは俺のものだ」
そう口に出すと、彼女の手首を強引に掴んでいた。