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終わらない夢

『イタリアの一族、不眠により死亡』


 父がどれだけ手を尽くしても、エンリケが必死に探しても、わからなかったもの。


ーー今更俺に、何ができる。


 そう思いながらも、エヴァンは歯を食いしばって頭を振ると、切り抜きをポケットにしまって机の本を手に取る。


『良き睡眠とその習慣』


 街一番の大きな図書館なら、エンリケや父の見落としたものがあるかもしれない。そう思ったのだ。


『暖かなミルクを飲み、よくストレッチすればよく眠れる』

「……違う」

『枕元に本を置くと、良い夢が見られる』

「……違う」


 しかし、なかなか思うようにはいかない。こうしている間にも、アグネスが死んでしまうかもしれない。そう思うと、途端に目が文字を滑り出す。

 ふう、と息を吐いたその横で、突如ドスン、と重たい音が鳴る。驚いた少年は本を取り落とした。


「……いたのか」


 今更気付いた、というように声をかけたエンリケは、固まる少年の手元をすり抜けたそれに首を振る。


「それは俺がもう見た。……こいつらはまだだけど」


 そこには、分厚い専門書が何冊も積み上がっている。エンリケの細腕が、よくもこれだけのものを持って来れたものだ。


「……昔ばあちゃんに、夢はあるかと聞かれたことがある」


 一冊一冊、手に取りながら、エンリケは語り出した。

 なんだか気まずい少年は、その背表紙のタイトルを目で追いながらなんとなく言葉を返す。


「……なんて言ったんだ」

「医者」


 見開かれたその視線は、一瞬で本からエンリケに向かう。長い付き合いだったはずだが、そんなことは聞いたことがなかった。

 無表情のエンリケは、そんな少年を見もせずに続ける。


「近所の泣き虫が、医者になるんだって勉強してるのを見て、負けられないと思った」

「……俺はそんなに泣いてねえ」

「そう言ったらばあちゃん、本当に嬉しそうに笑ったんだ。未来は希望で溢れてるって」


 そして、エンリケはひさしぶりに小さく笑う。小さな抗議は無視されたが、少年は黙って聞いていた。


「それから病気のことを聞いて、調べて……俺の家系は、特に若い人の発症が多かったから、俺は医者になれないと諦めた。それで、それを知っていながら、ばあちゃんはあんなことを言ったのかと思うと、無性に腹が立った」

「……」

「それから、泣き虫のばあちゃんも倒れて、医学書持ってやってきたそいつに泣きつかれた」


 下を向く。


「正直、もうやめて欲しかった。でも、あんな必死に頭下げられちゃ断れなかったさ」

「……」

「本物の医者が読むような本になんとか齧り付こうとするそいつに、初めてばあちゃんの気持ちがわかった」

「……」

「純粋に、医者になって欲しいと思った。命預けても良いと思ったんだ。……それを簡単に投げ出しやがって」

「……うるせえ」

「でも……」


 初めて、エンリケは言葉に詰まる。本を掴んだまま、その手はしばらく止まっていた。


「ごめん……お前に言われた通りだよ。他人にとやかく言われるものじゃない。夢なんて変わるもんだし、それに……」


 俯くエンリケに、エヴァンは一転してぽかんと口を開ける。


「俺決めたんだ……この病気の研究で身を立ててやる。それで、お前より長生きしてやる」


 お前は頼りにならなそうだし、と取ってつけたように言って、エンリケは再び本を取る。


「おい、アフリカで、感染したら眠り続ける寄生虫が発見されたらしいぞ」

「……寝続けるか起き続けるかの二択しかないのか?」

「こっちは戦争帰りで睡眠時間が異様に長くなったんだと。どちらにしろ治療には使えそうにないな」

「……そうだな」

「おい、泣くのはまだ早いぞ」

「……うるさい。これは眠いだけだ」




ーー優秀な医者の父。天才と呼ばれる幼馴染。


ーー俺のことなんて、誰も見ていない。


 そう、思っていた。しかし、今の少年にはわかる。


「あの家に忍び込んで、良いもの探してこい」


 エンリケがアグネスの家を指定したのは、少年とアグネスが出会えば、何かが変わるかもしれないと思ったから。


「ずっと、どうしているか気になっていた」


 そうだったのだ。エンリケも、父も、いつもーー




 ふと、目が覚める。

 そこはアグネスの病室だった。エヴァンは、意識朦朧としたアグネスのベッドに突っ伏してしまっていた。


「また、ここにいたのか」


 病室に入ってきた父の顔色は悪い。昼夜を徹して働いていることがありありとわかった。


「……衰弱が酷い。おそらく今夜ーー」


 言葉に詰まった父は、そろりとエヴァンに手を伸ばす。不器用に頭を撫でたその手は、痩せて骨張っていて、丸いペンだこがあった。


「ヤコブさんを呼んでくる。もう少し、ここで待っていてくれ」


 無言で頷いたエヴァンは、そっと口を開いた。


「……父さん」

「なんだ」


 踵を返しかけた父が、小さな頭を見下ろす。


「なんで、父さんは医者になったんだ」

「……悔しいからだ。今もな」


 去っていく足音を聞きながら、エヴァンは静かに考える。

 そして、今まさに眠ろうとしている淑女に向き合った。


「……アグネスさん」


 答える声はない。しかし不思議と、アグネスは聞いてくれている気がした。


「俺、諦めてた。失望してた。どうせ自分には何もできないって思ってた」


 エヴァンは、じっとアグネスの顔を見る。


「でも、俺、やるよ」


 エンリケは、馬鹿にせず勉強を教えてくれていた。不器用な父は、毎夜エヴァンの部屋に足を運び、彼が自ら出てくるのを待っていた。


「俺を見てくれてた人は、ちゃんといた。自分のことばかりで、周りのことを何も見てなかったのは、俺の方だった」


 アグネスは穏やかな顔で、人形のようにぼうっとどこか遠くを見ている。弱々しい呼吸が、辛うじて彼女をまだ人間に押しとどめていた。


「俺、医者になる。俺も、父さんと同じなんだ。エンリケにも、他の人たちにも、人生を諦めさせたくない。こんな悔しい思い、したくもさせたくもないんだ。これが、俺の夢だ」


 静かな部屋に、声が染み込んでいくような気がして、エヴァンはそっと辺りを見た。


「……すてきな、ゆめ」


 ずっと聞きたかった声。思わず視線を下げると、目尻の皺が深く刻まれる。

 その口が、動く。


「きっと、かなう……がんば、て……エヴァン」


 それを最後に、アグネスは動かなくなった。

 それは、寝食を忘れたエヴァンの、都合の良い幻覚だったのかもしれない。それでもエヴァンは、その声を、瞳を、生涯忘れることはないだろう。




「いいかい? プリオン病は、いずれも発症すればまず間違いなく死に至る危険な病だ。中には、家族性致死性不眠症という、患者の睡眠を奪いじわじわと死に至らしめるあまりにも酷い疾患もある」


 手元の魔法瓶には、紅茶に蜂蜜、りんご酢を入れて。


「知っての通り、これらの原理から治療法に至るまで、現段階ではわかっていないことの方が多いんだ」


 唇を湿らせ、彼は語りかける。


「例え一生を賭けたとしても、わからないかもしれないし、救えないかもしれないーーだが、どうか諦めないで欲しい。患者にとって、我々は希望なのだ。我々が諦めれば、患者の心が先に死んでしまうのだ……」


 エヴァンは、まだ諦めていない。

 その思いは、真剣な顔をした医者の卵たちに、確かに受け継がれていくはずだから。

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