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希望

ーーばあちゃん。


 祖母が倒れた時、エヴァンは治したい一心でこっそり父の書斎に忍び込んで、難し過ぎる医学書に手を出していた。

 何を書いているのかよくわからなくて、頭の良い幼馴染に手伝ってもらって必死に解読を進めた。

 そして今、抜け殻のようなアグネスがただ静かに生きているのと同じように、エヴァンも何をするでもなくただその側にいた。

 看護婦は頻繁に、そして父はたまに、顔を出す。


「……ずっと、お前がどうしているか気になっていた」

「……ああ」

「……医者として、世話になったお前の父親として、手は尽くす」

「……ああ」

「……」


 よく声をかけてくる看護婦とは対照的に、父は言葉が少ない。時には互いに何も言わず、ただ窓際で日差しを浴びていたこともあった。

 しかし面会時間が終われば、業務の終わらぬ父に諭されて帰るしかない。エヴァンは看護婦に急かされながらも、のろのろと歩き出していた。

 その足取りは、病院から数歩で異様に遅くなり、一つの影の前で完全に止まってしまった。


「エンリケ……」

 

 彼はいつも通りの無表情……かと思いきや、唇を真一文字に引き結び、彼をじっとりと睨みつけていた。


「……いつも」

「え?」

「いつもいつも……いつまでも、そうやってメソメソして満足かよ」


 初めて聞く、引き絞るような声だった。

 ギリ、と歯を食いしばる音がする。


「どの病院に行っても、どんなに名医と評判の医者に罹っても、どんなに自分で調べても……かかってしまえば助からないってことしかわからなかった」


ーーああ。僕と同じだ。


 そう思った。どんなに頑張っても、報われないことがある。それを、彼も知ってしまったのだとーーエヴァンは口を開いた。否、開こうとした。


「お前は良いよな」


 突然の突き放されたような言葉に、出かかった言葉は掻き消された。


「夢だって簡単に諦めて、嫌なことから逃げて、ピーピー泣いてれば良いんだ」


 エンリケは、歪んだ笑みを浮かべている。エヴァンは、見たことのないその姿に瞠目する。


「そうやって、自分が一番傷付いたみたいな顔してれば、誰かが……ばあちゃんが、優しくしてくれるとでも思ったのかよ」


 嫌悪に歪む唇、絶望に暗む瞳……それらは、しかしふいとエヴァンから逸らされる。


「俺たちは、逃げられねえんだよ」


 エンリケは、理不尽への怒りを叩きつけることも、不幸を嘆き叫ぶこともしなかった。

 そこには、ただ一つ……失望が残されていた。


ーーああ、エンリケが全てに興味を無くしたのは。


「うるせえよ……」


ーー嫌がらせのような「お使い」を命じるようになったのは。


「ふざけんなよ!」


『医者になる!』

ーー俺の夢に、救いを求めていたからだとでも言うのか。


「他人に言える立場かよ!」


 足を止めたエンリケに、たたみかける。ここを逃せば、もうエンリケと話すことはなくなる気がした。


「逃げたのはお前じゃねえか! お前はいつも勝手なんだよ! そんなに言うならお前が医者になれよ!」


 他人の夢に勝手に夢見て、勝手に失望して……完璧な天才少年エンリケという人物が、エヴァンの中で崩れていく。


「自分の人生諦めたやつが他人の夢に口出しすんなよ!」


ーー叶うかもわからない俺の夢で絶望するようなやつじゃなかったはずなのに。


 あんな病に、天才エンリケは負けてしまった。

 それが、許せなかった。

 言うだけ言うと、エヴァンは立ちすくむエンリケを追い抜いて走り出した。

 エンリケの顔は見ていない。見れなかった。




ーー優秀な父、優秀な幼馴染。俺はいつも、その飾り。


 憧れもあった。嫉妬なんてしていないふりをしていた。だけど本当は、ずっと苦しかった。

 そんな中、祖母だけが少年をいつも見てくれていた。少年を産んで亡くなった母の代わりに、優秀な故に忙しい父の代わりに、少年を育ててくれた。

 そんな祖母を蝕む病を治したくて、彼は幼馴染に頭を下げ、教えてもらいながら必死に勉強を重ねた。しかし……。


ーー父にも救えなかったのに、俺じゃどうしようもなかったんだ。


 朝はまだ元気だったのに、医学書片手に様子を見にくれば、白い顔で眠っていた。そして、呆然とする少年を抱きしめた父は、震える声で謝り続けていた。


『あなたのお父さんはねえ、優秀なお医者様なのよ』


 そんな優秀な人にもできないのに、自分がどんなに頑張ったって、何も変えられないーーそんな現実に耐えられなかった少年は、頑張ることをやめてしまった。


ーー俺を見てくれる人は、いなくなったんだ。


 父は何も言わずに仕事に没頭した。幼馴染は少年に興味を無くした。


ーー不良の使いぱしり。父の足を引っ張るお荷物。


 そんな少年を再び見てくれたのがアグネスだった。

 

「エヴァン」


 彼を、そう呼んでくれた時の目尻の皺は、祖母と同じものだった。それを見た彼の目尻にも、同じものが浮かんだのだ。

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