現実
その病室は、想像と違ってあまり薬品臭くはなかった。隅のベッドに腰掛けるアグネスは、いつものように笑っている。
しかし、その顔色はやはり悪い。目が窪んで、隈をさらに大きく見せている。顔つきも、痩せているというよりやつれて見えた。
「……アグネスさん」
声をかけると、さらに嬉しそうに笑って声を上げる。
「あらヤコブ。元気そうね」
「……」
淑女は、本当に幻覚を見ていた。
ーー死に至る不眠。
ただひたすらに眠れなくなる病。原因不明で患者数も少ない。それだけに、治療法もまだ見つかっていない。
あの夜、必死で口を開いたエヴァンの言葉に、緊張したように固まっていた父はすぐに真面目な顔になって動き出し、ある新聞の切り抜きを持ってきた。
覗き込んだそこには、イタリアのとある一族が感染したという不眠の話が書かれていた。
「……昔、俺はここで医者をやっていた。応援を求められて患者にも会った。……他人事じゃなかった」
久しぶりに聞いた声は、少し掠れている。
「単なる昼夜逆転なら改善できるが、もし、一日中不眠なら……。夜になれば逆に興奮状態になり、寝ようとしても浅い眠りで夢で目覚める。脳は休むこともできず、幻覚だって見るようになるし、記憶障害も、認知障害も起こり得る……症状はあの時と似ている」
ぶつぶつと確認するように一人呟くと、ついでエヴァンに向かって言った。
「この病は感染症だと思われていたが……感染してから発症するまで、長い期間があるのならば、遺伝もするだろうと俺は睨んでいた」
父は、先程までの緊張した様子もない、真剣な目で彼を見ていた。
「エヴァン、その人は今どこに?」
エヴァンは、受付の影から待合室を覗き見る。彼はヤコブを待っていた。
彼女の息子、ヤコブは消息不明という訳でも、死んだ訳でもなかった。診療所からの連絡に、すぐに来ると言ったらしい。
そんなヤコブに対して、エヴァンは憤っていた。自分の母親を一人で放置していたのだ。お陰で、彼女は買い物にも苦労しているし、いつも夢で魘されているのだ……必ず、ヤコブの名前を呼びながら。
睨むように待合室を見ていると、そこに30歳くらいの細身の男が、よく知る顔の子供を連れて現れた。
ギョッとして二人を見ていたエヴァンには、あの男こそヤコブだとわかった。少しムッとしたような口元に、あの写真の少年の面影があったのだ。
父によると、彼は意外にもアグネスの家からそう遠くないところに住んでいたという。
「……いつか、この日が来ると思ってました」
母の入院に、特に驚いた様子もない。代わりに、悲壮というに相応しい、苦しげな顔をしている。
「私の祖母が亡くなった時、母が恐ろしい顔で自分と、この子に話をしたんです」
そして、彼は自分の息子をーーアグネスの孫を見る。父親にはあまり似ていない。あの中性的な顔立ちは母親似だったのだ。
「私の祖母も、曾祖父も、叔母もーーこの家系は皆、短命で、いずれ眠れなくなって死ぬ。いつそうなるかはわからない、と」
父の言った通り、遺伝していた。
そこに佇む孫ーーエンリケは、いつものように無表情で、何も言わない。しかし、部屋を覗くエヴァンをチラリと見たその視線には、微かな絶望と失望が見えた気がした。
「私は、母を詰りました。子供の前で何を言うんだ、顔も見たくないと」
ヤコブはそう言って、苦しげに目を閉じる。
「昔、叔母が錯乱して窓から転がり落ちたこともあって、一応、住む家には気を使いました。それから、何かあればすぐにわかるようにと、近所の方々にもくれぐれも注意して見てほしいと頼んでいました」
『打ち付けられてるから、開かないわよ』
『マーシャはそういうのに敏感なの』
話を聞くにつれて、エヴァンの中に燻っていた感情は行き場をなくしていく。
残酷な真実を伝えた母親を見捨てた、と言わんばかりの言葉だったが、その通りに母親を切り捨てることはできなかったのだ。アグネスの家の近くに住んでいたのも心配だったからだろう。
「早くに父を亡くし、女手ひとつで育ててくれた恩はありますが……それでも今の母とは、顔を合わせる気にはとてもなれません。入院手続きだけして、帰ります」
そう。今のアグネスは、未来の自分の姿かもしれないのだからーー
それからエヴァンは、ヤコブと顔を合わせることはできなかった。
「今日も来てくれたのね、ヤコブ」
「……ああ」
それからは、エヴァン自ら「ヤコブ」の代わりになった。彼女にとってのヤコブは、写真の姿のまま、10代で止まっていたのだ。
今のアグネスには、夢幻と現実の違いがわからない。もう、彼女の目は"エヴァン"を映すことはないのだろう。
「ヤコブ、あなた夢はあるの?」
「夢……夢か」
「そんなに難しく考えなくて良いのよ。あなたの未来は無限に広がってるのだから」
ーー例えヤコブの代わりでも、喜んでくれるのならば、それで良い。
エヴァンだって、少なからずアグネスを祖母と重ねていたのだから。
「ヤコブ、今日は良いことを教えてあげる」
「なんだ?」
「紅茶の美味しい飲み方よ」
あの紅茶の隠し味。
「蜂蜜と、りんご酢を入れるの」
「ああ……りんご酢か」
確かに、りんごは惜しかった。
「やってみるよ」
「それからね。これは友達に聞いたのだけれど」
エヴァンはしばし瞬く。
「生姜を入れると、よく眠れるんですって」
俯いたエヴァンは、顔に手を当てて笑う。
「ははっ……そんな、モノが効くのか」
溢れるそれが、見えないように。震える声に、気付かれないように……。
そんな、不安を抱くほどの平穏な日々をエヴァンは過ごしていた。
「ヤコブ、聞いて」
相変わらず、アグネスはヤコブと呼ぶ。
「今日は、美味しい紅茶の飲み方をーー」
そして、同じ話を何度も繰り返す。そんな日々が、これがずっと続くものだと錯覚していた。
しかしある日、ヤコブとして見舞いに来たエヴァンは、忙しなく動く看護師たちに背筋がひやりとするのを感じ、病室に急いだ。なんだか空気がざわざわと、落ち着かないのだ。
周りにいた患者も、静かだがどこか騒がしい空気に、落ち着かないのか腕をさすったり、貧乏揺すりが激しくなっていた。
恐る恐る足を踏み入れたそんな病室の片隅では、アグネスがぼんやりと宙を見ていた。
「アグネスさん……?」
声をかけても、こちらを見ない。目尻の皺も、ピクリとも動かない。
アグネスの側で脈を取り、瞳を覗き見ていた父は、焦れて駆け寄って来たエヴァンに悔しげな苦い顔を向けた。エヴァンがこの顔を見たのは、一回だけ。
「眠れないまま、意識を保てなくなったんだ」
……祖母が亡くなる前のことだった。