幻
昨晩、エヴァンにとってはおかしな時間に眠ってしまったせいか、彼はいつもより早い時間ーーといっても日はだいぶ高いがーーに起きてしまった。
「もういない、よな?」
恐る恐る部屋を出て、がらんとしたリビングルームにほっとする。いつものように机に出されたパンを牛乳で流し込むと、他に何をするでもなく家を出た。行くあてはない。昼間だし、アグネスは寝ているだろう。
ぼんやりと考えながら、ふらふらと歩いていると、気付けば学校の前にいた。
ーーもう通わなくなってだいぶ経つというのに、何故当たり前のようにこの道を歩いてきたのか……。
ひっそりと自嘲する。
学校では、人一倍勉強していた。彼の学年でも、二つ歳上の天才エンリケの話は囁かれていたが、当時の彼はそんなこと気にしていなかった。
ーーしかしある日、糸が切れた。
何をしても、無駄だということがわかってしまったから。
ーー思えば、その頃からだ。あいつの態度が明らかに変わったんだ。
そこまで思い出してしまったエヴァンは一つ頭を振り、アグネスの家に向かった。このままだと、学校が終わって皆出てきてしまう。
もう、あそこしか居場所はないのだ……そう彼は思い至ってしまった。
ーーいつでも来て良いって言ってたし、アグネスが起きるまで大人しくしていよう。
道ゆく人の顔ぶれがいつもと違うことに新鮮さを感じながら歩いていると、一つだけ見知った顔が目に付いた。
「あれ?」
アグネスが、外に出ている。寝ているのではなかったのか、また目が覚めてしまったのか……しかし、明るい日差しの下で初めて見たその顔は、いつもの笑みからは想像もつかないくらいにやつれていた。
そんなアグネスの姿を見て、ヒソヒソ話す人たちがいた。アグネスに声をかけるのを躊躇ったエヴァンは、そっと近寄って聞き耳を立てる。
「なんだか、またいっそう疲れているように見えるわ」
「そうね……最近、夜な夜な話し声が聞こえるし、寝れなくて幻覚でも見てるんじゃないかしら」
耳を疑った。
『夜はあまり眠れないの』
ーーアグネスは、もしや自分のせいで夜に眠れなくなった?
いやいや、と首を振る。それならそれで、昼に眠れば良いはず。いや、出歩いているということは何か昼は用事があるのか……。
エヴァンは何度も否定を繰り返す。
「でも、どこに行くのかしら。まさか、まだ働いてるの?」
「もう辞めたはずよ?」
「じゃあ、買い物とか? あんな顔色で……息子さんがいればね」
ーーあっ昨日の買い物分!
ぱっと駆け出す。
その後ろでは、盗み聞きには全く気付かなかったマダム二人が、まだ複雑そうな顔で話していた。
「そうそう。昨日の夜、息子さんの名前を呼んでたのよね。嬉しそうで、ついに帰って来たのかと思ったんだけど、そんな様子もなくて……」
「あらそれ、本当に幻覚でも見ているんじゃ……」
「一応、息子さんには知らせて……」
「アグネスさん」
俯きがちに歩く背中に声をかける。しかし、何やらぶつぶつと呟いているためか聴こえていないらしい。
「アグネスさん!」
その細腕を掴むと、立ち止まった彼女がゆっくり振り向く。
「はいはい。あら……ヤコブ、じゃなかったわ」
「買い物なら俺がするから、あんたは家に帰りなよ」
近くで見ると、やはり酷い顔色だ。
「いや、でもそんな……」
「ほら、メモもあるんだろ。なら大丈夫だから」
「そこまでしてもらうなんて……」
「いつものことじゃねえか」
アグネスはぼんやりと瞬いた。
「あなた、知り合いだったかしら?」
一瞬、時間が止まった気がした。
頭がついていかない。周囲の喧騒に紛れて、聞き違えたのだろうか。それとも、同じ顔の人違いか。
「ごめんなさいねえ。見た覚えはあるんだけど……ヤコブのお知り合いだったかしら」
「ああ、いえその……人違い、です」
それからは記憶がない。気付けば自宅に戻り、布団に潜り込んでいた。
もう、どこにも行く気力が湧かなかった。
重たい玄関扉の振動は、エヴァンの部屋まで届いてきた。その振動にもぞもぞとベッドから這い出ると、あたりはすっかり暗くなっていて、窓の隙間から月光らしき弱々しい光が入ってくる。
帰ってきたであろう父は、彼の部屋まで来ることはない。ランプも付けてないから、彼が珍しく家に居ることには気付いてもいないだろう。
ーー結局、俺を見てくれる人はいないのか。
自分は何もできない自分のままで、人の足を引っ張ることしかできないのかもしれない。
ーー今、アグネスは一人で過ごしているのだろうか。
どうしても気になる。様子を見に行きたい気持ちもある。しかしそれ以上に、また「誰だ」と聞かれるかもしれないことが怖かった。
昼間のことはおかしな夢だったのだろうか。それとも、アグネスと話した夜が全て夢だったとでもいうのか……思い浮かぶこと全てが足を縫い止め、彼をベッドに縛りつけた。
ーーばあちゃん……俺、どうすれば良い?
かつ、かつ、かつ……
その時、硬い足音が部屋の前に響いてきた。
はっとして身を硬くしたエヴァンだったが、その時ある考えが頭をよぎる。
ーーもし、病気だったら……。
かつて見た医学書に、記憶があやふやになる病気について書いてあったはず。万一、病気でなくとも、睡眠薬で深く眠れれば、少なくとも悪夢は見ないのではないか。
エヴァンは、あの日々が幻覚であったなど、思いたくなかった。病気でもなんでも、答えが欲しかったのだ。
頼りたくない、と言うわずかな躊躇を振り払うように、がばりと起き上がると、ひたり、と冷たい床を踏み締めて、嫌に重たいその扉を開ける。そこには、驚きの表情を隠さない父が目の前にいた。
「……」
その顔を見ると、なかなか言葉が出てこない。
「……」
しばし両者ともに固まっていた。