夜
ランプの灯りを灯し始めた家々に入っていくのは、仕事帰りの男や遊び疲れた子供ばかり。しかしその中でひとつだけ、いつも買い物帰りの少年を待っている家があった。
「……ほらよ。今日の分」
「あら、今日もありがとね」
少年は、どさりと紙袋を下ろす。雑な扱いに中のオレンジが転がり出たのを無視して、彼はもう何度聞いたかわからないようなことを再び聞いた。
「本当にこんなことで良いのかよ」
「良いのよ。私は助かってるし、あなたも夜にあんな危険なことしなくてすむでしょ?」
その淑女は何度も同じ言葉を返した。
「魚とか、鮮度悪いもんしか残ってないってのに」
「これだってちゃんと手間をかけて料理すれば美味しくなるのに、捨てられちゃうのは勿体ないでしょう?」
意外に細かい少年は尚もぶつぶつと文句を言うが、淑女は目尻の皺を深くするばかりだった。
「それで、今日は何するんだ」
「今夜は編み物しながら、ゆっくりお茶にでもしましょう」
少年は呆れ顔だ。
「いつもと同じじゃねえか……俺、働きに来てるんじゃないのかよ」
「今日も十分働いてもらってるわ」
「買い物しかしてないぞ」
それどころか、晩御飯を食べて深夜におやつを食べている。
しかし、それを聞いて、淑女は声を立てて笑った。品のある笑い方だ。
「良い子ねえ」
「……なんだそれ」
「実はね、夜になると眠れなくなるのよ。一人でいるのも退屈なんだけど、夜に誰かを訪ねて行くのも迷惑でしょう?」
「それで、昼夜逆転してる俺なら良いだろって?」
「あら、やっぱり逆転してるのね」
コロコロと笑い続ける淑女に、少年はムッとした。
「別に、どうでもいいだろ」
「そうねえ。私としては、話し相手になってくれるから良かったわ」
「……なんだそれ」
少年はそっぽを向いた。
あれから毎夜、少年はこの淑女とさまざまな話をしていた。
「好きなものは?」
「……」
「私はねえ、紅茶が好きなのよ。入れ方ひとつで味が変わるし、そこに入れるものも変えてみれば、一種類のお茶でたくさんの味が楽しめるのよ」
「友達はいるのかしら?」
「……」
「お隣のマーシャとはよく話すんだけど、たまにあの人、耳が良過ぎると思うのよね。なんて言うのかしら……ああそうだ、東洋じゃ"地獄耳"なんて言うらしいわ」
……と言っても、喋るのは淑女だけ。
少年は聞くばかりで、なかなか自分のことを話したがらなかった。それでも、淑女は楽しげだ。
「あなた、夢はある?」
「なんだよ」
「夢よ、夢。あなたくらいの歳なら、何かなりたいものとかあったりするかしら?」
「……そんなもの」
「あるのね」
「……」
黙り込むと、淑女はにっこり微笑む。
「素晴らしいじゃない。夢があれば、未来はどこまでも輝くのよ」
それから、淑女は少年の反応からあれこれと推測して、彼好みの味付けを研究しているらしかった。
ある日、紅茶をすっと一口煽った少年は、飲んだことのない味わいにマジマジとカップを見た。
「これ、さっぱりして飲みやすいでしょう? これなら、あなたも好きなんじゃないかと思ってね」
「何を入れたんだ?」
「さあ、当ててごらん」
赤茶色のそれは、家で祖母が飲んでいたものとほぼ同じだ。それなのに、砂糖とは違うさわやかな甘味が口に広がっていく。
「蜂蜜か?」
「一つは正解。もう一個あるわ」
少年はもう一口、味わう。蜂蜜の甘味と、このさわやかさは……果物の酸味だろうか。
「レモン」
「違うわ」
「りんご」
「あら……惜しいわ」
むう、と唸った少年は、ふと我に返った。
ーー俺は何をしてるんだ。
「……どうでもいい」
努めてぶっきらぼうに言った少年に、淑女はとても小さく「そう……」と答えた。
そこから沈黙が生まれ、少年は居心地悪く身じろぎする。
ーー俺が悪いのかよ。
しばらく俯いていた少年は、そのままもう一口紅茶を飲む。
「……………………美味い」
なけなしの勇気を振り絞り、それだけ言って顔を恐る恐る上げた少年だったが、次の瞬間、脱力した。
「……なんで寝てんだよ」
こっくりこっくり、首が動く。
このままでは鞭打ちになってしまうだろう。それだけ激しい動き方だった。
「ああ、もう」
少年は立ち上がり、淑女の首を安定させるためにクッションを当てがった。
喋る人がいなくなった家は、途端に静かになる。
「……暇だな」
小さなリビングルームを見回した少年だったが、貴金属には興味を示さなかった。代わりに目についたのは、写真立てだった。
並んだ写真は3つ。
ーー若い女が赤子を抱いている写真。
ーー5歳くらいのキョトンとした顔の子供と並んだ写真。
ーー15歳だろうか、ぶすくれた顔の少年の肩を抱いて撮られた写真。
随分と古ぼけた写真だ。写真の中では少しだけ歳を重ねた淑女は、なかなかの美人だったらしい。
そして息子はいるようだが、一方で、父親と見られる男の姿はなかった。写真を撮ったのが父親だろうか。
そして、一番気になったのはーー
「俺は、こんな甘ったれた餓鬼じゃねえ」
一緒にされちゃかなわない。少年は呟いた。
「うっ……うう……」
その時、呻き声が聞こえてきた。
そっと様子を伺うと、写真の頃より随分と皺の増えた淑女が眉間にさらなる皺を浮かべていた。どうやら悪夢を見ているらしい。
「うう……や、こぶ……え……」
ヤコブ、だろうか。侵入した時にも聞いたその名は大方、息子か旦那の名前だろう。手がゆらゆらとピクピクと、何かを求めるように動き出した。
あまりにも苦しそうで、放っておくのも気が引けた少年はその肩を揺り動かす。
「おい、起きろよ。……ばあさん」
そういえば、まだ名前を知らない。名乗ろうとしたのを少年が拒絶したのだ。
「うう……」
浅い呼吸の間に、ぼんやりと瞼が開く。焦点の合わない視線に、少年はもう少し強く肩を叩いた。
「起きろってば」
「……はあ」
やっとしっかりと少年を見た淑女は、どこかキョトンとした様子だった。
「あらあなた……ああ、私寝ちゃったのね」
「5分も経ってないけどな」
うたた寝である。
「眠れないのは、悪夢のせいか?」
「……そうなのよ。夜の暗さはどうもねえ……お陰で、もうそれ以上は……とても寝る気になれなくて……」
堪えきれないあくびは、手でも隠し切れない。
体が眠りを求めているのは確実だろうが、精神的なストレスのせいなのか、どうにも夢見が悪くなるらしい。
ヤコブのせいかーーと少年は聞こうとして、やめた。
「……今度は、紅茶に生姜でも入れてみたら良いんじゃねえの」
んー? と寝惚けて聞き返す淑女に、少年はそっぽを向いた。