04 深海 著 逢瀬・夏の虫 『蛍籠』
挿図/Ⓒ 奄美剣星 「絵巻」
「今夜もよろしくね」
佳紫子が格子を下げると、御簾の向こうにいる御方が腰を上げた。
左大臣家の姫である女主人は、いそいそと単衣を脱ぎ捨てて、自ら少年がまとう水干に腕を通し、ぬばだまのごとき長い黒髪をひとつに結わえた。その手際の良さに佳紫子は呆れた。
「姫様、またもや、おしのびでございますか?」
「ええ、藤吾さんに笛を教えてもらうの」
まったく、はしたない。
幼なじみにして、長年側仕えを務める佳紫子が文句を言い出す前に、姫は御簾の向こうからさっと這い出てきた。急いで襖を開け、後は頼むと部屋から出ていく。持ち物は横笛一本。それだけだ。
この数ヶ月というもの、姫はあずまの国から流れてきた武士に夢中である。右大臣家が雇った用心棒で、若君の護衛についているらしい。実直で真面目な人らしいのだが、笛をたしなみ、その腕前は相当なもの。右大臣が時折、宴に呼んで吹かせるほどだという。
出会いは、必然であった。
右大臣家の若君はしばしば姫のもとへ通ってくるのであるが、武士を守るためについてきたのである。
若君は鼻高々、こやつは笛の名手なのだと姫に彼を紹介し、その腕前を披露させたのであった。
「ほんと、あそこの若様は、少々どころじゃないお馬鹿さんですわね」
姫はたちまち、見目良い笛吹き武士に惹かれてしまった。それ以来、しばしば男装して、こっそり近くの神社で武士と逢瀬を繰り返している。
少年に身をやつした姫には、佳紫子の弟がつかず離れず護衛につく。だから姫の身の安全を心配することはないのだが――
「毎回、朝帰りになるのはちょっと……。ここに通えるほどのご身分ではない御方に執心するなんて、困ったものです」
やんごとなき姫たるもの、その身分にふさわしい公達が通ってくるのをただただ、私室で待つものである。こちらから会いにでかけるなど、実に卑しい行為であるのに。
佳紫子はため息をつきながら、御簾の向こうに入った。脱ぎ捨てられた単衣をきちんと畳み、一番上に羽織る唐衣だけ、自分のものと取り替える。真紅で鶴の透かし織が入った見事な錦だ。
今宵もまた、姫のふりをしなければならない。
脇息にそっと肘を置いた佳紫子は、背筋をぴんと伸ばして台座に座した。
ほどなく襖が開けられて、快活な声が部屋に響いた。
「姫! こんばんは! ねえ見て下さい! 見て下さいよ!」
右大臣の若君だ。姫より五つ年上のはずだが、実に無邪気で屈託のない人である。彼は挨拶もそこそこに、御簾の前に何か細長いものを置いた。
御簾から透けてみえるそれは、麦わらを編んで作られたものらしい。細やかな編み目は巻き貝のような模様に編まれていて、美しい螺旋を成している。
「あら、それはもしかして」
「ふふっ、灯りを消しますね。そうしたらよく分かりますから」
若君は部屋の灯りを吹き消した。しかし部屋は真っ暗にはならなかった。若君が持ってきた細長い螺旋を成すものに、襖に描かれた松の絵がほのかに照らされている。螺旋の筒は、なんとも淡く柔らかな光を放っているのだ。
目を細めて眺めているうち、それがゆっくり明滅し始めたので、佳紫子は思わず、まあと声をあげた。
「蛍ですのね?」
うっかり姫の声を真似るのを忘れてしまった。佳紫子は慌ててごふんごふんと、風邪で声がおかしいのだと言いたげに咳き込んでみせた。
「今日、川で取ってきたんですよ。姫に見せたくて」
「わ、わたくしに、ですか。ありがとうございます」
「いっぱい取ってきたんです。だからこんなに大きい蛍籠を作ったのですよ」
「ほ、本当ですね。両手で抱きかかえないといけないほど、大きいですわね。って、もしかして若君が手ずからお作りになったんですの?」
「そうですよ。籠の編み方は色々あるんですが、これが一番綺麗かなと思って。虫取りってほんと楽しいんですよね」
蝉に鈴虫、こおろぎにきりぎりす。
指折り数えているらしい若君に、佳紫子は苦笑した。
虫を持ってくるのはこれが初めてではない。カブトムシだのトンボだの、毎回のように捕まえたものを見せにくる。甘いお菓子を持ってきたり、面を被ってごっこ遊びをしようなどと誘ってくることもある。歌詠みや雅楽などはまったく興味がなさそうで、蹴鞠をするときはしごく本気で勝負する。奔放で、人を疑うことを知らない。
この人は実に無邪気で幼い。御簾ごしにうっすら見える顔も童顔だから、醸す気配はまるで十かそこらの少年のよう。腕白小僧といった風情であるので、姫は、頼りない人だと感じてしまうのだろう。決して悪い人ではないのだが、佳紫子も、この人はもっと大人になったらよいのにとしばしば思う。いや、これはありがたいことと思うべきか。若君の幼さはいつも、格好の言い訳になるのだから。
「本当にあなた様は、幼い子どものようですわ」
佳紫子はつんと澄まして言い放った。呆れかえった反応をして、御簾の中には決して入れず、早々にお帰り願う。そんな、いつもの手順を踏もうとした。
「わたくし、かように子どもっぽい御方とは……」
しかし、彼女の冷たい声は途中ですぼんだ。
「あ……」
蛍籠が激しく明滅したからだ。
何事かと思いきや、たくさんの光の粒が、籠から一斉に飛び出した。まるできらきらまたたく星が流れ出てきたかのようであった。
「あはは、ありったけ取ってきたんですよ」
その光の絢爛さに、佳紫子は息を呑み、しばし見とれた。部屋中に広がった光は明滅し、部屋にきらびやかな星空を成した。黄金色の輝きが、佳紫子の目を静かに焼いた。
「なんて……なんて眩しい……」
「お気に召しましたか?」
「え、ええ。言葉を失ってしまいました」
よかったと、若君は明るく笑った。
「素敵な贈り物とお気持ちをありがとうございます」
佳紫子が上品に頭を下げると、御簾の向こうから少し低い声が流れてきた。いつもとは雰囲気の違う、真摯な声が麗々と。
「いつもあなたのいるところを、照らしたいです。どんなに暗い夜でも」
「えっ……」
いつもの若君らしからぬ言葉に、佳紫子はどきりとした。若君が近づいてくる。今にも御簾を押し上げてきそうなぐらい近くに来る。
「お、お待ちください」
佳紫子は焦った。難癖をつけて突っぱねなければ。早々に帰ってもらわなくては。
どきんどきんと心臓が早鐘を打つ。その鼓動に合わせて蛍が明滅する。
どきんどきん。きらりきらり。どきんどきん。きらりきらり……
「中に、入っていいですか」
「い、いや、だ、だめで……」
「いいですよね、佳紫子さん」
「ええっ……!?」
姫では無いことがばれている? 佳紫子はたちまち固まり、ぼたりと扇子を落とした。
御簾が上がる。若君が楚々と入って来て、満面の笑顔をこちらに向けてきた。
「あは。やっと入れました。ああ、こわがらないでください。姫じゃないことは、始めから知ってましたよ。うん、何ヶ月も前から」
若君は、握っている右の拳をそっと佳紫子の前で開いてみせた。
小さな蛍が彼の手の中にいた。
「僕、藤吾に姫と逢い引きするように命じたんですよ。姫を家から引っ張り出して欲しいって頼んだんです。だって僕が会いたいのは……」
わずかに伏せられた瞳に、蛍の光が映り込む。
佳紫子は呆然とその光を見つめた。そっと手を伸ばすと、若君は蛍を彼女の手に移してきた。ひとこと、囁きながら。
「好きです、佳紫子さん」
どきん。
佳紫子の鼓動がまた、光の明滅と重なった。
きらりと、まばゆく。
蛍籠 ――――了――――