01 奄美剣星 著 夏の虫 『送り火の幽霊』
挿図/Ⓒ 奄美剣星 「送り火の幽霊」
二〇一九年七月二五日、小惑星2019OKが、地球から七万二千キロ宙域を通過した。具体的には月との距離が三八万四千キロで、その五分の一。言い換えればユーラシア大陸の東西幅十万キロよりも近い距離を横切ったのだ。
一歩間違えれば東京規模の町が吹っ飛ぶところだった。そうなれば粉塵が成層圏に巻きあがって農産物が駄目になり、人類滅亡の可能性だってあった。
だが各天文台は直前まで見つけられなかった。
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小惑星のニアミスが公表された七月二八日の日曜日は、地域の神社の奉仕日だったのだが、朝方の雨で中止になった。中止連絡は総代長が七時に携帯にしてくれたのに気づかず、境内に行った。
集合時刻の午前九時になったのに人が集まらない。中止だと悟った私は境内の写真を撮った。デジカメのモニターには多数の光輪が映っていた。マンダラだ。
マンダラは心理学者ユングによると、アンバランスな精神状態の人が自己修復する過程で見る光輪だという。もともとは仏教宇宙観だが、神道だと神の化身と位置づけられる。――私個人は森の妖精エルフと同義のものと解釈しているのだが。
雨はほどなく止んだ。
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テレビや新聞は、震災後に着工した海岸線数十キロにも及ぶ防波堤が完成し、福島県いわき市内にある海水浴場の一部が再開したと報じた。
令和元年度の海水浴場は、久之浜・波立海水浴場、四ツ倉海水浴場、薄磯海水浴場、勿来海水浴場の四カ所だ。海開き期間が七月一三日から八月一五日までとなっていた。
昔の賑わいがどれほど戻ったのか気になる。そういうわけで、郷里の海岸線を車で探訪した次第だ。
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第一回目の海岸探訪は、七月二八日、新舞子海岸沿線道路を走ってみることにした。かつては日本の白砂青松百選にノミネートされた名勝であったこの地は見る影もなく、松林は津波を被って枯れ果ててしまった。松林の中にある三日月湖にボートはなく、沿線にあった喫茶店やレストランは皆、津波の後、店を畳んでいた。また、新舞子海岸の一角にあった小さな海水浴場も閉鎖されたままだ。
ただ防波堤工事がひと段落するころから松林の復興事業が行われ、森林跡地に苗木が植えられていた。新舞子海岸は南北八キロ弱ほどだ。海岸の南端にあるマダムの店から、北端に車を走らせたところだった。私は、植えられたばかりの松の苗木林を撮影しようと車を降り、シャッターを切った。
それで歩いていると、昔、入ったことのあるレストラン跡地に着いた。敷地に入る北門は、蝶々の翼のような木製扉二枚になっているのだが、片翼は失われていた。8年の空白が広大な庭を荒れさせ、森に変えていたものの廃墟の店舗は綺麗に残っている。二階建てのバンガロウだ。
――これは絵になる――
もちろんシャッターを切った。
それから車に乗ってまた海岸を少し北上した。
海をカメラに収めたいと思い、沿道の介護施設の裏手にある防波堤に上り撮影してみた。
夏の陽射しで、すっかり地面は乾いていた。
介護施設裏手は稲荷神社の末社だ。恐らくは地元の漁師たちが信仰しているのだろう。私は、なんとなくカメラを向けて撮影した。
帰宅後、PCで画像を拡大して見てみると、レストランの廃屋と稲荷神社で、それぞれマンダラが各一柱ずつ映っていた。
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いわき市は南北の長さ三十五キロ、海岸線五十三キロあるわけだが、まあ、こんな風に私は海岸線を縦断したというわけだ。
第二回目の海岸探訪は、八月初旬、新舞子海岸のすぐ北側にある四ツ倉海岸。ここでは、目測で横二百メートル、奥行き二十メートルをトラロープで囲って、遊泳許可区域としていた。ちょっと入ってみたが、波が荒い上に腰くらいの高さなので泳ぎようがない感じだった。海水浴客たちは、皆、幼い子供のいる家族連れで、浪打際で遊んでいた。海水に浸っていたのは全員で五十名そこらだろう。他方、監視塔の横では、ビーチバレーの試合が行われていた。選手と観客が数百名いて、こっちのほうが海水浴客よりも多いくらいだった。
震災前、市内の海岸には、県の内外から海水浴客が数万人押し寄せ、浜茶屋がびっしりと建ち並んでいたのが嘘のようだ。
駐車場に戻る途中、防波堤上の散策路のベンチに座っていた人に呼び止められ、「私は大阪から来て、近くのホテルに宿泊しています。海の家とかないのでしょうか? なんだか寂しいですね」と聞いてきた。
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八月になって、父親の手術のため実家に帰っていた家内が戻ってきた。
私は家内を誘って、海水浴場がどれくらい再開され、浜茶屋がどれくらい営業されているか気になり、いわき七浜と呼ばれるうちの残り五つの砂浜をドライブしてみた。
第二回目の海岸探訪は八月上旬で、永崎海岸、豊間海岸、薄磯海岸を巡った。小名浜港の西側にある小名浜海水浴場は砂浜ごと、津波でごっそり削られてしまっているとのことだ。小名浜港の東側にあるマリンタワーの麓は、磯辺になっていて正規の海水浴場ではなく監視員がいないのだが、家族連れが勝手にやってきて遊んでいた。市内で最も波穏やかな永崎海岸・豊間海岸は閉鎖中。そして目的地の薄磯海岸に寄った。
薄磯海岸の遊泳区域は、四ツ倉海岸と似たり寄ったりで、ロープで張った枠内を泳ぐ。ただ目測で、「枠」は、四ツ倉海岸の倍くらいあるように思えた。何より、一軒だけだが浜茶屋があったのが嬉しく、店のベランダのテーブルでかき氷を口にした。冷えすぎていて、胃が悲鳴をあげた。
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第三回目の海岸探訪は、お盆の前日である一二日だった。勿来海岸の防波堤は国道六号線を兼ねている。集落やホテル街とは段差があって、震災時のときも津波は乗り越えられなかった。しかし被災直後に海岸を見たとき、海岸が荒れているのは判った。ここの砂浜からテトラポットの堤防が腕上に伸びてC字状に囲い、さながらプールのようになっていた。これならば泳ぐことができるだろう。浜茶屋は、薄磯同様に一軒だけ建っていた。ただ残念ながら駐車場が満杯だったので、道路の端から眺めるだけで、浜に遊ぶのは断念した。
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そして第四回目の海岸探訪は、お盆終日の一五日だ。いわき七浜最北端にある久ノ浜と、南隣にある波立海岸に寄った。
久ノ浜・波立海岸に臨んだ集落は、震災の時、ごっそりと津浪で流されている。久ノ浜地区で海水浴場は再開されていない。まだ建物のまばらな分譲住宅地には、津波のときにそこだけ波が避けて助かった神社の末社があったので写真に撮った。
波立海水浴場は、目測百メートルそこらのロープ枠で囲われた範囲が遊泳許可されていた。波立海水浴場では浜茶屋こそ再建されていなかったのだが、昔入った洋食屋が改装営業していたので、そこでお茶を飲んだ。
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家に帰ってから撮影した写真を確認したが、マンダラは写っていなかった。代わりに、送り火をしてから、うたた寝したときにこんな夢を見た。
山中に迷って、まばらな集落の住人であるおかみさんたちに道を尋ねたのだが、答えない。すると、鮮やかな色の浴衣を着た美麗な童男童女に囲まれた。彼らは悪戯っぽく私の顔を眺めては忙しく走り、まるで夏の虫が飛び回るかのようだった。そのうちの童子の一人を私はどうにか捕えて、現在地を問い詰めた。
――ニシノハラ――
古来日本には西方浄土思想というものがあった。あの世が西の山中にあるという伝承だ。
ノート20190818