04 紅之蘭 著 川・海 『ガリア戦記 01』
挿図/Ⓒ 奄美剣星 「カエサル」
第1話 海へ
「ねえ、大神祇官閣下、兄の非礼を許してあげて。代わりに私が閣下を慰めてさしあげますわ」
中年男が寝室に入ると、大理石の女神像のようなすばらしい美女が、寝台に横たわっていた。
…
「大器晩成」という言葉がある。青年時代はパッとしないのに、中高年になってから突然才能が開花する人で、今から述べるガイウス・ユリウス・カエサルもその一人だ。この人は、紀元前一〇〇年、ローマ共和国の名門カエサル氏族の家に生まれた。転機となったのは三一歳のときだ。軍団の会計検査官と元老院議員となったことだ。そして、三七歳のとき、最高神祇官に就任した。ローマ共和国は多神教で、あらゆる神官たちの頂点に君臨する。政治的には大きな影響力を持たない神官長だが、他の重要ポストと兼務することができた。そしてローマ市のど真ん中であるホロ・ロマーノに最高神祇官公邸が与えられた。そこは質素ながらも王政時代の宮殿跡だ。
カエサルの容姿はどんなだったか。
ラテン系男子といえば、ゲルマン系男子よりも小柄だという印象があるが、対してこの人は長身、そして痩身であった。けっして美男子ではない。けれどもカエサルの長い腕に抱かれると、どんな上流階級夫人たちも魅了されてしまう。そう、彼は「マダム・キラー」なのだ。
例えば、ほんの一例……。
ローマ共和国には、民衆派と元老院派とがあり長らく対立していたのだが、紀元前八三年、元老院派によって民衆派は打倒された。元老院派議員の重鎮に、剣闘士スパルタクスが起こした奴隷たちの反乱を鎮圧したクラッスス執政官と、ヒスパニア方面で軍功を上げたポンペイオス執政官がいる。この二人とカエサルは後に三頭政治を行うことになる。
カエサルは、夫たちが戦地に赴いている間に、クラッスス夫人テウトリアとポンペイオス夫人ムチアを寝取った。
漁色家カエサルの正妻は三人いる。最初の正妻はコルネリア・キンナ、次がポンペイア、最後がガルブルニアだ。カエサルが遠ヒスパニア総督に就任したときの正妻はポンペイアだ。病没したコルネリアは夫の浮気を許容し、夫が不在のときは家をよく守り、カエサルとの間にできた唯一の子供である娘のユリアを、上流階級令嬢に相応しい教育を施した。
ところがポンペイアは嫉妬に狂った。そして夫が不在のとき、意趣返しで言い寄ってきた男に身を委ねてしまった。
カエサルは遠ヒスパニアの総督就任が内定していたのだが、事が露見したのは、間もなくカエサルが任地赴こうとする十二月一日のことだった。ローマの女神ボナの祭りだった。最高神祇官公邸にいる男たちは、カエサル以下、家臣や奴隷に至るまで、追い払われてしまう。ゆえにカエサルは別宅で暇つぶしをして過ごした。
最高神祇官が不在で誰が女たちの祭りを仕切ったというと、カエサルの母アウレアだ。
その女たちの中に、あろうことか、女装した男が紛れ込んでいたのだ。男は、女奴隷たちに取り押さえられたが、アウレアは事を荒立てずに、いくつかの詰問をすると女装させた男を公邸から退去させた。
祭りにはゴシップ好きな上流階級女性も大勢参加しており、女装男の正体はすぐにバレた。
「あの男、プブリス・クラウディス・プルクルスだわ」
「クラウディス家の御当主じゃないですか。女装してまで何でここにいたのかしら?」
「おほほ、知らないの? クラウディス様とポンペイア様はいい仲なのよ」
「すると夜這いというわけね。まあ、いやらしい」
女たちの口から噂は町中に広がった。
女神ボナの祭りに、男が侵入して汚したという噂は、元老院議長にして執政官であるキケロの耳に入った。ただちにカエサル家の人々と、クラウディス家の人々が元老院に招聘され、弾劾法廷が開かれた。
カエサルは、「祭りの間、別宅にいたので直接の事情は分からない」と証言した。カエサルの母アウレアは、「暗かったので女装男の顔を覚えていません」と証言した。
生真面目なキケロ執政官が、カエサルの妻であるポンペイアを招聘しようとしたが、その前に、カエサルは、「真偽はともかく、噂をたてられた時点で、カエサル家の嫁として不適格だ」として離縁した。こうなると、ポンペイアは、カエサル家の人ではないので、証言台に立つ理由がない。さらにカサルの政治的な盟友であるクラッススが、カエサルとクラウディスに貸しをつくる形で、元老院議員たちを買収。投票により、クラウディスは無罪になり、噂の女装男とクラウディスは無関係だということになった。
この弾劾裁判で、カエサルの愛人の一人だったクラッスス夫人テウトリアが、夫を動かしたという噂が市井にまことしやかに流れている。
また、離縁されたカエサル夫人ポンペイアは実家ポンペイオス家に帰されたわけだが、以前、カエサルと寝たポンペイオス夫人ムチアは離縁されている。――ポンペイオスからすれば、妹の不倫は、前妻を寝とったカエサルに対する意趣返しになったことだろう。ざまあみろというところか。
後に、カエサルは、ポンペイオスやクラッススとともに三頭政治を行うことになる。このとき、カエサルは、ポンペイオスとの関係強化のために、一人娘のユリアを二十歳離れたポンペイオスに嫁がせることになる。――これもまた皮肉な話。
このころのカエサルには、十一万の兵士一年分の給金に相当する一三〇〇万タレントもの借金があった。借金の理由は、名門カエサル家として必要な社交費、個人的な蔵書・衣装代、そして愛人たちへのプレゼント代があった。
遠ヒスパニア属州総督として、任地に赴く直前、借金取りたちがカエサルを取り押さえ、家に監禁したとき、クラウディスの妹・クラウディアがやってきて、次いで、盟友クラッススがやってきた。そしてカエサルの借金はチャラとなり、彼は無事にローマ市からティベリス川を下った河口にある、外港オスティアから軍船に乗ることができた。
…
ローマの五階層船が地中海に出たとき、書記官が、船縁に立つカエサルの横に立った。
「クラウディア殿とはその後?」
「何もない。あれはもの珍しい男の蒐集家なのだ。飽きたら捨てる。しかし逆はなく、男が捨てたら毒を盛るタイプだ。――今回の件でクラウディアは、兄思いの妹を演じて入るが、実態は魔性の女だ。魔性の女に関わるとろくなことはない」
クラウディアが盛りを過ぎたころ、囲っていた若い燕が彼女を捨てて出ていくと、クラウディアは、男が自分を毒殺しようとしたとして元老院に訴え弾劾裁判になった。
かくして……、
元老院議員六百名のうち二百名の同僚の妻を寝とったと言われる不良中年の冒険が始まった。
つづく
カエサルをプロファイリングすると、ルパン三世だにゃあ orz