04 紅之蘭 著 読書 『ガリア戦記 05』
【あらすじ】
出世に出遅れたローマ共和国キャリア官僚カエサルは、人妻にモテるということ以外さして取り柄がなかった。おまけに派手好きで家は破産寸前。だがそんな彼も四十を超えたところで転機を迎え、イベリア半島西部にある属州総督に抜擢された。財を得て帰国したカエサルは、実力者のポンペイオスやクラッススと組んで三頭政治を開始し、元老院派に対抗した。
挿図/Ⓒ 奄美剣星 「知将」
今月は忙しくストック作品からです。
第5話 読書人
スペイン西部にある属州総督になるまでに、カエサルは、家督相続して得た財産をすっかりなくし、知人のクラッススから膨大な借金を負った。出費の三分の一は家政に関すること、残りは女、そして読書だった。
帷幕に置かれた机で、カエサルはパピルス紙に日記を書いた。この人の書く日記はAをC、BをEというようにずらす換字式暗号で、俗にいうシーザー暗号文だ。なぜ暗号で日記を書くかといえば、内容が軍事機密に関することだからだ。カエサルは、元老院議員の重鎮キケロと並んで共和制ローマ末期における文筆家の双璧をなしていた。カエサルの日記は、後に『ガリア戦記』として清書され、ラテン語のテキストの一つになる。
そのカエサルは何をテキストにしたかというと、ホメロス、ツキディデスといった古代ギリシャや、ハンニバル戦争時代に国難に対処したローマの政治家大カトーの著書だとされる。この手の古典で歴史や地理の学習を兼ねてギリシャ語とラテン語を学ぶのだ。もっともそれは、一般市民の子弟水準での教養だったわけだが。
ホメロスの著書には『イーリアス』と『オデッセア』とがある。イーリアスとはイーリオスすなわちトロヤのことで、トロヤ戦争に取材した戦記だ。他方、オデッセアはトロヤ戦争に参加したギリシャ方の名将の一人オデッセイを乗せた船が悪天候のため地中海を漂流する冒険譚だ。英語ではユリシーズとも表記される。このユリシーズによく似た話がなんと日本にもあって、主人公の名前まで百合若大臣というのだから驚きだ。かの物語は中世に流行った幸若舞の演目の一つになっている。昔は、南蛮交易で伝わったという説もあったが、それよりも古くから舞われていたので、かつて吟遊詩人たちによってユーラシア大陸全般で奏でられていた英雄叙事詩なのであろうと言われている。
寝台で横になったカエサルは考えた。
ギリシャ連合軍に敗れたトロヤ王族が生き残りを率い落ち延びたというローマもそうだが、昔から、何かの理由で故郷を捨てて新天地を求め移動する民族がいた。昨今、ゲルマニアのゲルマン人は東方にいる遊牧民のフン族に押されガリアへ越境してくる。そのガリアの外れにいるスイス人ヘルウェアィ族は、ゲルマン人に圧迫されて、ブルターニュ半島へ行こうとしている。
まるでオハジキ・ゲームではないか。
〝好色な禿げ〟と元老院で揶揄される猟色家カエサルは床につけば愛人たちの夢ばかり見るのだが、その日に限って、眠りにつくと少年時代の夢を見た。
ローマ人の子供は私塾に通うか家庭教師をつけて、まず読み書きと算盤を学ぶ。親たちが教えることもある。それからギリシャ語や古典を学ぶ。大学に進学する者はギリシャのアテネかエジプトのアレクサンドリアに行く。
ブランド価値の高い家庭教師は、アテネの大学を卒業したギリシャ人で、その次がアレクサンドリアで学んだギリシャ人だ。
名門には違いないが、大富豪ではない氏族に生まれたカエサルにはガリア人の家庭教師がつけられた。
ガリア人といえば無教養な野蛮人を連想するが、中には相当な知識人もいた。カエサルの家庭教師もガリア人で、若いときはエジプトのアレクサンドリアで学んだ人だった。
算盤はローマ時代にもあった。これで計算をする。
読み書きの授業では、木板に蝋をぬったノートに、針で傷をつけて文字を書く。
机を並べる学友は妹、それに、現在自分の忠実な執事になっている少年奴隷だ。
カエサルは長じて、あの二流ブランドのガリア人先生は、案外と有能だったと考える。型にはまったギリシャ人教師たちとは違い、授業ではユーモアを織り交ぜ、英雄漂泊譚『オデッセア』を子供向けにかみ砕いて聞かせてくれたり、記憶術も教えてくれた。
アレクサンドリアは、かのマケドニアのアレクサンダー大王が建設した港湾都市だ。
そういえば先生はアレクサンダー大王の話もしてくれたよなあ。
アレクサンダー大王……
翌朝、カエサル陣を払って、麾下のローマ兵たちが一日でアラル川に掛けた木橋を渡って、スイス人たちを追撃した。
カエサルは四十歳になるまで、まともに大兵団を指揮したことなかった。それが、一度大軍を預けられると連戦連勝したのは、有能な麾下の将領たちに加え、精鋭の百人隊長がいたこと、そして読書家であるカエサルは、名将の戦いぶりを記した書籍すべてに目を通していたことだ。
麾下の将軍たちの中には、ブルータスやアントニウスがいた。
カエサルは馬を並べた二人の将軍に、ここは、〝金床石とハンマーの戦術〟でいくと言った。
〝金床石とハンマーの戦術〟というのは、いにしえのアレクサンダー大王がペルシャ帝国軍を相手によく使っていた戦術だ。まずは騎兵隊を敵の背後に回り込ませ、次に正面から、主力部隊である重装歩兵本隊を送り込んで敵を挟み撃ちにするのだ。背後をとられるとどんな大軍といえどもパニックを起こして潰走するのは必定だ。
ところが、スイス人たちの騎兵は善戦した。なんと五百騎で四千騎からなるローマ騎兵を撃退してしまったのだ。
スイス人たちは先の戦闘で、部族の四分の一を失っている。ローマ軍が木橋を一日で掛けたときは慌てて講和の使節を送ったのだが、条件がよくなかったので交渉は決裂した。そんな中での騎兵戦勝利は彼らの気をよくさせた、
ローマ軍、恐るるに足らずと。
つづく
【登場人物】
カエサル……後にローマの独裁官となる男。民衆に支持される。
クラッスス……カエサルの盟友。資産家。騎士階級に支持される。
ポンペイウス……カエサルの盟友。軍人に支持される。
ユリア……カエサルの愛娘。ポンペイウスに嫁ぐ。
オクタビアヌス……カエサルの姪アティアの長子で姉にはオクタビアがいる。
ブルータス……カエサル麾下の将軍。
アントニウス……カエサル麾下の将軍。




