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自作小説倶楽部 第19冊/2019年下半期(第109-114集)  作者: 自作小説倶楽部
第112集(2019年10月)/「運動会・学祭(※選手)」&「夕刻」
16/30

02 深海 著  運動会(選手) 『ラケダイモーンの御者』

挿絵(By みてみん)

挿図/Ⓒ 奄美剣星 「戦車競走」





 風が肩を斬ってくる。前方から打ち付けてくる風に当てられて、戦車を駆る男の頬が冷えてきた。

 小さな風の神(アネモイ)たちが吹き抜けていく音を楽しみたい。

 御者たる男は一瞬そう思ったが、今は戦車競技の真っ最中だ。もっと激しく、革の手綱を打たねばならなかった。


「がんばれ! 行け!」


 御者は革の綱でびしりびしりと、疾走する馬たちの尻を叩いた。

 馬は全部で四頭。横並びになって懸命に走っている。

 昨日雨が降ったせいで競技場はぬかるんでいる。肉付きのよい馬たちは、馬場が泥味を帯びているのを厭わず、猛然と足を動かしている。だが馬車の車輪は鈍重だった。


「くそ、回転が遅い」


 南北に伸びている長い馬場(ヒッポドローム)を、四頭立て(テトリッポス)の戦車で十二周する。それが本競技であるが、やっと半分、六周目に入ったところだ。二番手はすぐ後ろにいる。もっと加速しなければ並ばれるだろう。

 右に視線を投げれば、白い大理石を重ねた塀の向こうは黒山の人だかり。馬場(ヒッポドローム)に貼りつく観客の中に、ひどく背の低い漢がいる。そこだけぐっと埋没しているので、御者はすぐに彼を見つけられた。髪は真っ白で、低身長にもかかわらず、筋骨隆々。身に着けているのは、腰布と無造作に羽織っている鮮やかな真紅のマント(ヒマティオン)のみ。その血のごとき色のマントが、男がどこの生まれであるのかを如実に語っている。

 ラケダイモーン。

 すなわち、スパルタ人だ。

 質素な身なりの小男には、一般人とは違うという、明確な印はどこにもない。なれど黒髪の御者は、あの男が何者であるかをよく知っている。御者もまた生まれながらの戦士、ラケダイモーンであり、あの小男と日がな一日、顔と剣とを合わせているからだ。


「先頭を死守しろ!」


 小男の声援が馬場に流れてくる。その叫びは、泥はねする車輪の音に半ばかき消された。


「負けたら、首を吹っ飛ば――」

「はいはい、分かってますって、陛下!」


 御者は苛立たしげにうなずいた。疾駆する戦車が、馬場の真ん中にさしかかる。観覧席の後方、高い石の玉座に、全身金ぴかの女性が座しているのが目に入った。


「ははっ、けばけばしいな」


 黄金の装身具で身を包んだあの女性は、エーリスの女祭司である。

 大祭の主催国であるエーリスではもともと、運動競技は古き豊穣の女神に捧げるものであったらしい。その名残で白き腕のデメテルに仕える祭司が、女神の化身として競技を見守るのだという。

 しかして雷放つゼウスの神域たるオリンピアに立ち入れるのは、原則、男性のみ。あの女祭司以外の女性は何人も、立ち入ることは許されない。ゆえに御者が今駆っている戦車の持ち主は、ぶうぶう文句を言ったものだ。


――自分の戦車が走るのに、観戦できないなんて。本当に残念ですわ。


 ラケダイモーンの御者が駆る戦車と馬の所有者は、男性ではない。そろそろ孫が出来ようかという、壮年の婦人である。彼女は糸つむぎも機織りも完璧にこなす上に、いまだ日々の鍛錬を欠かさない。男子同様に運動し、健やかな体を作り上げるスパルタの女たちの筆頭であり、毎日訓練場を何周も走り、槍や円盤を投げている。


――男と肩を並べて競おうとは思いません。でも競技を見ることぐらいは、できればいいのにと思います。男装して潜り込もうかしら?

――妹よ、それはだめだ。


 婦人を宥めたのは、彼女の実兄。この競技をじかに観に来ている小男。スパルタの王アゲシラオスその人であった。 


――その前例はすでにある。昔、男装して息子に連れ添った母親がいたそうだ。選手である息子の訓練士だと称して競技場にまんまと入ったが、息子への声援が熱くなりすぎた結果正体がばれて、ゼウスの神官たちに捕縛されたのだ。

――聖域侵犯の罰は確か、断崖絶壁から突き落とされる、でしたっけ? オリンピアでもそうですの?

――そうらしいぞ。しかし問題の母親は、かろうじて崖から突き落とされずに済んだ。おのが家族は三代にわたってオリンピアの優勝者であると、主張したからだ。とくに今年の優勝者を産んだのは、他でもないこの自分であるとな。


オリンピアの勝者は、ゼウスの隣に並ぶことが許される。すなわちゼウスの聖域に銅像が建てられて、永遠に名を残せるのだ。誰もが今年の優勝者は誰か熱心に知りたがるゆえに、その名は津々浦々に広められ、心より尊敬され、愛され、もてはやされる。故郷の民会で英雄神として祀られることが可決され、莫大なる賞金とともに、自身の神殿を建ててもらった者もいる。

 富と名声を得られる偉業は多々あるが、オリンピアの勝者ほど褒めたたえられ、人気を集めるものはないであろう。


――家族の栄誉でもって、罪を逃れるとは。しかも出産の女神ヘーラーの権能をふりかざすなんて、厚かましいことですね。英雄の母は確かに尊ばれるべきですけれど、それを理由に自ら特権を求めるのは間違いでしょう。かようなことをされてはかえって、子を産む女の価値が下がるというものです。

――まあなんだ、それ以来、オリンピアの大祭では、選手のみならず訓練士も裸で参加しなければならなくなっているのだ。


 なんて迷惑な女。

 眉をひそめた婦人の顔は、その一言を表していた。

 男装した母親がばれるようなヘマをしなければ、自分も男装できたのに。おそらくそう思ったのであろう。

 そのようなわけで婦人は渋々、大人の常識と貞節をもってオリンピアでの観戦をあきらめた。だが実のところの本心はきっと、自ら戦車を駆りたかったのに違いない。この戦車の持ち主となって以来、彼女は毎日、戦車に乗っていた。とても誇らしげに、手綱を握って馬場を駆けていた。まるで、天駆ける太陽神の馬車にでも乗っているかのように。





「順位を維……! 引……離せ!」

 

 王の声援が飛んでくる。御者はコーナーを回る戦車の内側に、ぐっと体重をかけた。馬場(ヒッポドローム)の壁にぎりぎり沿わせて回ったので、恐ろしい遠心力がかかる。御者は歯を食いしばって踏ん張った。

 十周目。チェックポイントで、機械仕掛けの鳥がするりと下がる。青銅の鳥は、旗のごとく観客席の上に据え付けられており、先頭の戦車が一周するごとに下げられるのだ。

 十一周目に入ってもなお、御者は第一位を維持し続けた。しかしもはや観客席を見る余裕はなかった。王の叫び声が耳に入ってくるが、御者は視線を動かせなかった。如実に速度を削いでくるぬかるみがそこかしこにあるし、周回遅れの戦車がいるからだ。


「よし、うまくかわしたな! おい、右後方! 二番手が追い上げてきているぞー!」

「分かってますってー!」


 勝たねばならない。何としても。

 こたびの参戦は、なんと王命である。勝たねばこの首が飛ぶ。自らの命が懸かっているのだが、御者が勝ちたいと願う最大の理由は他にあった。

 この戦車は、一年前に王が突然、立派な馬たちと共に王妹たる婦人に贈りつけてきたものだ。

 婦人は馬が欲しいと常々言ってはいたが、まさか四頭も、しかも戦車がついてくるとは夢にも思わず、当時ひどく驚いた。しかも王がオリンピアに戦車を出せとほとんど強制の頼み事をしてきたので、さらに目を丸くしたのであった。


――妹よ、知っているか? 昨今のオリンピアの戦車競技では、戦車を駆るのはほとんど奴隷で、戦車の持ち主に栄冠が授けられるのだ。だから協力してくれ。エーリス国と間男に復讐を。世に覇を唱えるスパルタの栄光を知らしめ、我が王家が蒙った恥辱を雪ぐのだ!


 エーリスは長年、スパルタの宿敵であった。ゆえにかの国が主催するオリンピアで、スパルタは何かと不便を蒙ってきた。

 競技の前にゼウス神殿で行う戦勝祈願を拒まれたり。微妙な判定をされたり。あげくは、スパルタ人の出場を禁止されたり。数多くの露骨な嫌がらせをされてきたのである。

しかしてつい最近スパルタは、戦場でエーリスを完膚なきまでに打ち破った。圧倒的に立場が強くなっている今、王はエーリスが主催する大祭など取るに足らぬもの、女性ですら栄誉を得られるものだと、大いに貶めたいらしい。

また、間男というのは、稀代の美丈夫、アルキビアデスのことである。あろうことかこのアテナイ人は、スパルタに亡命していた時、先王の王妃をかどわかして不義の子を産ませた。王妃が彼になびいてしまったのは、かつてオリンピアにてまさしくこの競技で、優勝の栄誉を勝ち取っていたからなのであった。


――有能な御者、立派な馬、性能のよい戦車。戦車競技は、この三つを揃えることで勝利を得られる競技なのだ。しかもオリンピアでは、ひとりで何台でも出走させられる。財力が許すかぎり、いくらでもな。ゆえにアルキビアデスめは、七台もの戦車を出した。おのれの勝率を高めるために、あの間男は方々の女をたらしこんで、その資金を得たのだ。


 王は実兄である先王を苦しめたアルキビアデスの英雄性を否定するべく、かように力説して、婦人を説得したのであった。


――妹よ、どうか間男の栄誉を穢してくれ。あいつが勝ったのは、他の競技同様、世界で最も勇壮な男だったからだと思われている。そうではないのだと、世に知らしめてくれ。そなたにもう五台、戦車を与えよう。


 アルキビアデスがラケダイモーンの王家に残した禍根は、王妹たる婦人にとっても赦しがたいものであった。間男が成した罪のせいで、先王の子だと主張する不義の子と二番目の兄との間で、本来起こるはずのない継承争いが起こったからである。

 ゆえに婦人は、自身が兄王の復讐の道具となることに、素直に甘んじた。なれども、自身が得る栄誉に想いを馳せてきらきらと、大いに目を輝かせたのであった。


――兄上、戦車は一台で十分です。わたくしは、どんな戦車にも必ず勝てる、最強の御者を知っております。

――なんだと?

――たとえお金の力で得られた名声と言われても、その御者が駆って下されば、わたくしは心の底から喜んで、胸を張って誇ることでしょう。ええ、心配いりませんわ、兄上。その御者が駆れば、わたくしは必ずや、ゼウスの聖域にて輝かしい栄誉を得られます。絶対に。


 戦車の台数も誰を御者とするのかも、婦人は頑として譲らず、自分で決めた。

 それで必ず勝てると、心の底から信じ切っていた。

 そうして今日この日、婦人は大祭が行われる聖域のすぐ前までしっかりついてきて、御者に小さなお守りを渡してきたのであった。


――ごめんなさいね。由緒正しい生まれのあなたに、奴隷がやる仕事を押し付けてしまって。でもわたくし、あなた以外の誰にも、わたくしの戦車を任せたくなかったの。どうか一緒にこれを乗せてください。


 婦人が渡してきたのは、自身を模したと思われる、素焼きの小さな人形であった。

 一見、女神をかたどったお守りとしか見えぬものだ。しかし背中の部分には、「我らは勝利を得る」、という願掛けの文字が刻まれていた。

 御者はその人形を一瞬力を込めて握りしめ、大事に懐に入れて、馬場(ヒッポドローム)に入った。

 絶対に負けられない。あの金剛石のような瞳の輝きを、曇らせるわけにはいかない。

 勝利を信じて疑わない婦人の貌を見て、御者は誓ったのである。

 王のためではなく。自分の首のためでもなく。彼女のために必ずや、勝利を勝ち取ると。


「俺が生み出してやる。女神を、今ここで」


 勝てばきっと、婦人は全世界の注目を集めるだろう。ゼウスの神域に像が建ち、数多の人々が彼女を称え、崇めるだろう。彼女の名は後世に残る。何十年、何百年と。いや、おそらく千年以上。決して、忘れ去られることはない――

 




 一羽残っていた機械仕掛けの鳥が下がり、十二周目に入ったことを告げた。

 最後の周回だ。 

 コーナーに来た瞬間、御者は片足に力を込め、馬車の片側を思い切り沈み込ませた。しかし左側の手綱はいつもよりゆるめに締め、わざと円周を広げて回った。右手に追いついてきた二番手が、こちらの戦車に接触するように仕向けたのである。二番手の戦車は怯んで、がくりと速度を落とした。


「走れ! 走れ! 風よ吹け! 俺たちの背中を押せ!」


 さあ、あとは直線を一気に駆け抜けるだけだ。

 御者は激しく手綱を叩いた。鞭のごとくに、上下に何度も、打ち叩いた。

 御者は馬たちの名前を次々と呼んで励ました。

 朝から晩まで、彼らを訓練してきた。馬たちの信頼を得ようと一所懸命世話をして、一緒に寝たり、横について走ったりもした。もはやこの馬たちは、自分の家族。そう言えるまでに、気心が知れた仲になっている。


「もう一息だ! 俺たちが勝つ!」 


 ゴールがみるみる近づく。左手に後続が迫る気配を感じて、御者は急いで左に戦車を寄せた。後ろに迫ってくる馬たちが戦車を突いてくる。ゴールまで、追い抜きを阻止できるだろうか。


「急げ! 走れえっ!」


 3。

 2。

 1。

 




「うおおおおおおっ!」


 ゴールを駆け抜けた瞬間、王の雄たけびが轟いた。それは軍団が勝利した時にあげる鬨の声であった。


「アラララライ! よくやった! よくやったあああ!」


 御者はホッとして手綱を引いた。馬たちが足をゆるゆる動かしはじめ、ゆっくりと止まる。観覧席から、赤や白や黄色、色とりどりの花びらが舞い落ちている。エーリスの女祭司が観客に配った花かごから、大量の花びらが馬場に投げられたのだ。


「やった……! ああ、やったぞ……!」


 御者は手に落ちてきた花びらを握りしめ、天を仰いだ。

 女祭司のそばに侍るゼウスの祭司が、勝者の名を宣言した。その声は朗々と高らかで、はるけき天の高み、オリュンポスへと昇っていったのだった。


「勝者は、スパルタのキュニスカ! アルキダモスの娘、キュニスカ! 神慮めでたく、雷放つゼウスは、キュニスカを勝者に定められた! キュニスカに、栄光あれ!」





 歓呼の声といまだ降り注ぐ花びらの雨を背に受けながら、御者がオリンピアの聖域を出るやいなや。


「あなた……!」


 輝く太陽のごとき笑顔を浮かべた婦人が、彼のもとへと駆け寄ってきた。


「勝ったのですね?」

「ああ、我々は勝利した。見事にな」


 御者はにっこりしながら、懐に入れていた人形を取り出した。


「君が一緒に居てくれたから、勝てた。さあこれで、君は女神になったぞ、我が妻よ。さっそく銅像を作る手配をしよう」

「兄上は、大喜びでしょうね」

「うん。間男め、ざまあみろって泣き笑いしてた。俺たちにとっても最高に喜ばしい結果だ。君が、雷放つゼウスの隣に並ぶなんて。君の名は永遠に残る。実に素晴らしいことだ」


 俺の名前は残らないだろうがと、御者が苦笑めいた笑顔を返すと。婦人は、彼の両手を骨ばった手でそっと優しく包み込んだ。


「あなた、本当にありがとう。私は大勢の人に称えられるのでしょうね。でもあなたも、この勝利に負けないぐらい、素晴らしい栄誉を得ましたよ」

「うん?」

「ついさっき、スパルタから早馬が来たの。孫が生まれたっていう手紙をもらったわ。男の子だそうよ。おめでとう、御祖父ちゃん」


 御者は高らかに歓喜の声をあげた。

 我が子だけでなく、さらなる子孫に恵まれる。子孫繁栄こそは、生きとし生けるものにとって最大にして最高の栄誉であろう。

 男子である孫は、御者の名を受け継ぐ。その名は、さらなる次代へと継がれていくに違いない。

 何十年、何百年と。いや、おそらく千年以上。

 たぶん、永遠に――





 紀元前396年、オリンピアの大祭にて戦車競技の勝者となったキュニスカは、大小二つの青銅像をゼウス神殿に奉納した。

 そこには以下のような碑文が刻まれた。


『我が父、我が兄弟はスパルタの王なり

 駿馬のひく戦車によって勝利せしキュニスカが この像を建てるものなり

 我は宣言する 我は全世界において

 この栄冠を得た唯一人の女なり

 我が御者が我が戦車を駆りて この偉業は成された』


――了――

主な参考文献 


高橋幸一「古代世界における女性とスポーツ」


※キュニスカは次のオリンピア(前392年)にも戦車を出場させて、優勝しました。

※碑文は最後の一行だけ創作です。

※キュニスカに夫や子がいたかどうかは現代に伝わっていません。本当は何台も戦車を出したのでしょうが、想像を膨らませて(=趣味全開で)このような設定にしました。

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