02 紅之蘭 著 ススキ 『ガリア戦記 03』
【あらすじ】
出世に出遅れたローマ共和国キャリア官僚カエサルは、人妻にモテるということ以外さして取り柄がなかった。おまけに派手好きで家は破産寸前。だがそんな彼も四十を超えたところで転機を迎え、イベリア半島西部にある属州総督に抜擢された。財を得て帰国したカエサルは、実力者のポンペイオスやクラッススと組んで三頭政治を開始し、元老院派に対抗した。
挿図/ⓒ 奄美剣星 「大移動」
第3話 葦
まず。
今回九月のサークルのお題は「ススキ」だ。このススキというのは、チガヤと一緒に茅と呼ばれるイネ科植物だ。ススキというのは東アジアと南米原産で、欧州にもたらされたのはニ十世紀、デンマークの植物オタクによるコレクションが始まりだ。これではお題につかえないではないか。
さて茅は、古来より百姓家の茅葺屋根として用いられてきた。そのため集落の縁辺、あるいは河原で栽培され、定期的に火入れをするなどの管理もされてきた。この茅の代替品として葦がある。日本において葦葺屋根家屋を施す地域もあるのだが、茅葺ほどメジャーではない。
ところが欧州において葦葺屋根家屋はすこぶるメジャーだった。このススキによく似た葦は、ヨーロッパの河川敷や湖畔に群生している。そしてこの物語の舞台であるローマのカエサルが総督として赴任した紀元前一世紀のガリア地方は、広大な森林と湖沼地帯に覆われた未開地であった。その湖沼地帯には当然のことながら葦の生い茂る土地であった。
ソフトドリンクをチュウチュウすするストローというのは麦の茎をさしているわけだが、イネ科の茎というのは中身が空洞になっている。葦もそうだ。この葦について、ギリシャ神話にこんなエピソードがある。
パンという山羊の角を生やし、下半身が獣の姿をした牧神がいた。牧神パンは、行く先々で可愛い女の子を見つけると手籠めにするという悪癖があった。精力絶倫の牧神パンが、ギリシャ南端にあるペロポネソス半島・アルカディア地方を訪れたとき、シュリンクスという妖精の美少女に一目惚れしてしまった。
変態牧神にストークされた美少女妖精は、アルカディア中の仲間の妖精たちのところを頼って、転々と逃亡生活を余儀なくされた。しかしついに牧神に居所を見つけられたとき、彼女は葦に姿を変えて貞節を守った。対して未練をたらたらの牧神は、葦の茎を異なる長さにぶつ切りにして蝋で連結し、ハーモニカ原理の楽器パンフルートを作って暇さえあれば奏で、チューチューと口づけするようになったとのことだ。
では本題に入ろう。
間もなく四十二歳になろうとしていたカエサルは、紀元前五九年十二月末日に執政官の任期が満了し、翌五八年元旦から、前執政官にして南仏・北伊およびアドリア海に面した中欧イリリアの三属州総督となった。
「ガリアは全部に三つにわかれ、その一にはベルガエ人、二にはアクィーターニー人、三にはその仲間の言葉でゲルタエ人、ローマでガリー人と呼んでいるものが住む。ガリー人はガルンナ河でアクィーニーから、マトロナ河とセ-クァナ河でブルガエ人からわかれる。なかでも最も強いのはベルガエ人であるが、その人々はプロウィンキアの文化教養から遠くはなれているし、商人もめったにゆききしないから心を軟弱にするものが入らないのと、レーヌス河のむこうのゲルマーニー人に近いのでそれと絶えず戦っているためである。同じ理由でヘルウェティー族も他のガリー人にくらべれば武勇がすぐれ、毎日のようにゲルマーニー人と争い、自分の領地で敵を防いだり、敵の領地に入って戦ったりしている」(近山金治翻訳/カエサル著『ガリア戦記』より)
ヘルウェティー族は、現在のスイス・レマン湖周辺に住む三十七万人で構成される部族だ。ヘルウェティー族は、ローマ人が言うレーヌス河すなわち現在のライン川の東岸に居住するゲルマーニー人すなわちゲルマン人の長らく続く襲来を受けて疲れ切っていた。そこで族長は、ガリア各地に密偵を放ち、ゲルマン人がしばらくは襲ってこない安全な土地を求めて探索させた。そしてブリタニアすなわちイングランド島に近い、大西洋に着きだしたブリターニュすなわちブルターニュ半島に目を付け、全部族三十七万人を率いて移動を開始することを決断した。
アルプス山中に居住するヘルウェティー族がとれる進路は二つあった。一つは集結地点ジュネーブからストレートにガリアを横断しブリターニュ地方に入るルートと、もう一つはマルセイユ市を中心とした地中海沿いにあるローマの南仏属州を迂回経由して、ピレネー山脈に寄ったあたりから、北上して彼の地を目指すというルートだった。
当初、ヘルウェティー族は、精強なヘドウイ族との衝突を避けて、話しの分かりそうなローマに通行許可をとって、ローマの南仏属州を迂回するルートを選択しようとした。このヘルウェティー族の使者が、南仏・北伊およびイリリアの三属州総督であったカエサルの許を訪れたのは、総督就任が直後で、彼がまたローマにいたときのことだった。
――まるで、牧神パンに追い掛け回される美少女妖精シュリンクスみたいだな――
カエサルは、ヘルウェティー族に同情したが、ローマ領南仏属州の通行を許可しなかった。
「こんな大人数の領内通過など言語道断だ。絶対に揉め事が起こる。どこの国でも為政者がまともなら絶対に許可しない。それにブリターニュ地方には先住部族がいる。そこで大規模な戦闘が起これば、ガリア全体が大混乱となり、難民が南仏属州になだれ混むのは必定……」
使者はうなだれて帰った。
しかしゲルマン人との抗争に疲れ切ったヘルウェティー族は、葦葺屋根の家や畑を焼き払い移動を開始した。そして彼らが選択したのは、アルプスからストレートに西進してヘドウイ族の領内を突っ切って行くルートだった。ヘドウイ族の族長は案外と寛容で領内の通行を許可してくれた。ところが、三十七万もの人間が動くのである。この中には馬鹿もいる。ヘドウイ族領の畑作物や家畜を盗み、婦女子を手籠めにする輩がいた。このため、両部族は抗争するに至った。
ヘドウイ族はローマと同盟関係にあった。
――牧神に追い回された美少女妖精が、葦にはならずに第二の牧神と化したわけだ!――
盟約に従い、新任総督カエサルはスイス人ヘルウェティー族との戦闘を決断した。ヘルウェティー族の戦闘要員は九万だった。
早春。
カエサルは、ローマの邸宅から数十騎の近習のみを従えて南仏属州入りをした。そして着任早々、三属州に駐屯する第七から第十軍団の四個軍団を緊急招集するとともに、私費を投じて第十一・第十二の二個軍団編成を命じた。だが、全軍の集結を待たずして、カエサルは、スイスに向けて進軍を開始した。従うのは南仏属州に駐屯する第十軍団一個軍団六千名のみ。精強なカエサル諸軍団の中でも最も忠誠心が高いこの軍団はやがてその人の親衛隊になった。他の軍団は、「追いつくように」とだけ命じた。
第十軍団は国境をなすローヌ河の河畔に進軍した。国境の向こう側にあるガリアは深い森と湖沼地帯になっていた。群生する葦は、秋になったらそこら中で穂をつけることだろう。
横腹を衝くように現れたローマ・カエサル軍団の出現に、ヘドウイ族領内を移動中のスイス人ヘルウェティー族は驚き謁見を申し出た。
つづく
【登場人物】
カエサル……後にローマの独裁官となる男。民衆に支持される。
クラッスス……カエサルの盟友。資産家。騎士階級に支持される。
ポンペイウス……カエサルの盟友。軍人に支持される。
ユリア……カエサルの愛娘。ポンペイウスに嫁ぐ。




