00 オープニング/ 奄美剣星 著 『百年戦争英雄譚 賢明王シャルル5世』
シェークスピア史劇を読むためのノート
挿図/Ⓒ 奄美剣星 「シャルル五世」
紳士並びに淑女の皆様、今宵も当劇場に足をお運び戴き誠にありがとうございます。私は当一座の座長。これから当方の名優たちが演じますのは、英仏百年戦争時代におきまして、フランス側がイングランドに対し、反撃のきっかけをつくったシャルル五世陛下(一三三八‐一三八〇年)の物語です。フランス・ヴァロワ王朝三代目であるこの方は、前線にでて戦う騎士タイプではなく、帷幕で策を練る軍師タイプの王でした。ゆえに、ついた渾名が賢明王なのです。
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一三四九年、王孫殿下シャルルが十一歳になられましたときにペストが流行し、母親と父方の祖母が亡くなられましたので、王孫殿下ジャンは従者を連れて自領であるドーフィネ地方に避難いたしました。ドーフィネ地方は、ドイツ=神聖ローマ帝国に属する伯爵領でしたが、御家断絶のあと競売にかけられていたのを、フランス・ヴァロワ朝初代国王フィリップ六世陛下がご購入。王孫ジャン殿下が同伯爵家を相続したためドーファンと呼ばれました。そして翌一三五〇年、フィリップ六世陛下が崩御し、父君であらせられます善良王ジャン二世陛下が即位したことにより、王孫殿下シャルルは王太子に昇格。そのためフランスでは、ドーファンが王太子を表す称号となりました。シャルル殿下は、ドーフィネ伯爵領で臣従した家臣たちの補佐を受けるとともに絆を深め、善政に励まれます。
王太子は、重いものを持つことができず、他の王侯の子弟のような馬上槍試合ができません。代わりに、膨大な蔵書を収めた王宮の図書室に籠って、哲学や天文学、そして数学の研究をなさっておられました。
王太子妃ジャンヌ殿下が、図書室を見舞ったとき、シャルル殿下は変わった計測器を扱って、フランスの地図と睨めっこして、黒板にチョークで計算式を書いていらっしゃいます。
妃殿下が、王太子殿下に、「何それ?」と伺いました。
すると、
「天体観測のときに使うダイアル式計算機で、アストロラーデっていうんだ」
「何でそんなものを?」
「戦争のとき、どれくらいの兵員が必要かとか、何日雇えるとかを計算している。イングランド海軍に壊滅させられた艦隊の再建費用とかもね。すると一般国民からの徴税では足りなくなる。諸侯たちからも徴税しないと……」
王妃殿下は、判ったような、判らぬような顔をなさいました。
ここでジャンヌ妃殿下のことを少しお話しておきましょう。
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シャルル殿下が王太子になられましたのと同じ一三五〇年、ブルボン公爵家の公女ジャンヌ殿下を王妃にお迎えいたします。従妹で同じ年十二歳、シャルル殿下は美麗な花嫁に自分とよく似た匂いを感じました。――当時の習慣で、女性が夫寝台を共にする「床入り」は十四歳からですので、夫婦とはいっても形ばかり。それまで幼い王太子妃殿下は、ラテン語習得や宮廷作法の一通りを学ぶ、花嫁修業に励むことになります。
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一三五六年、シャルル王太子殿下が十八歳のときに転機が訪れます。
父君であらせられますジャン二世陛下が、ポワティエの戦いで、イングランド国王エドワード三世の軍勢に敗れて捕虜となり、イングランドに連れ去られると摂政王太子となりました。
国王不在のため、若い摂政王太子をなめてかかった自国の王族・大諸侯、さらにはパリ市民、農民までも大規模な反乱を起こしました。さらに、イングランドに対する父君の保釈金の工面や、敗戦による賠償金の工面でも頭を悩ませます。国庫は空っぽです。
その後、対英交渉で譲歩を引き出し、新条約を結んだところで光明が見えだしました。
さて、当時の貴紳は商業を卑しんでおりましたから、経済というものに疎うございました。初代国王フィリップ六世陛下しかり、二代目国王ジャン二世陛下しかり、貨幣の貴金属純度を下げて一時的な利益を得て、市場の信用を損なうという愚行を避け、逆に純度を上げられたのです。
摂政王太子殿下は、また、幾つかの構造改革を行われました。
税金を臨時徴収から定期徴収化し国庫収入を安定させるとともに、大貴族中心の宮廷から中下級貴族・平民層から官僚を登用、また騎士団や傭兵を再編成して常備軍というものを整備なされました。
さて、摂政王太子の腹心に、ベルトラン・デュ・ゲクラン元帥という方がおられます。有能ではありますが、お世辞にも美男子とはいいがたい容貌でしたので、「鎧を着た豚」とか、「ブルドック」という異名がある方です。この方があるイングランドとの戦闘で捕虜となったとき、莫大な身代金を払って釈放して貰いました。元帥はバツの悪い顔で摂政王太子府に出頭してきました。
「ゲクラン元帥よ、カルタゴのハンニバルがローマを襲ったとき、ローマ人たちはどんな対応をしたと思う?」
「あいにく読み書きはできますが、無学なもので」
摂政王太子は軽く笑ってこう答えられたのだとか。
「われらフランス騎士団は、イングランドの長弓戦術に何度も敗れてきた。エドワード三世と息子の黒太子の強さはハンニバルそのもの。――ローマ人たちはハンニバルが来たら逃げた。そして、逃げながら後方にある補給線を脅かした。ハンニバルはその結果、少しずつ経済力を消耗させていき、兵隊の増員ができないようになっていった」
「殿下、それは騎士の戦いではございませんぞ」
「今はどこの王侯も傭兵を使う。騎士すらも領主ではなく、多くは傭兵であろう」
痩せた摂政王太子が微笑まれますと、意図を察した「ブルドック」元帥が、常備軍を指揮して、イングランド軍との正面衝突を避け、その後背を衝く戦術を採用するようになりました。
他方、多数新造された艦船で海軍が再編され、ジャン・ド・ヴィエンヌ大元帥の指揮で、イングランド南岸を奇襲して、補給路をおびやかします。
こうしてシャルル殿下は、イングランドの黒太子に多くを奪われていたの国土を、徐々に取り戻していかれたのです。
そして……
一三六〇年、シャルル殿下は、イングランドと交渉して莫大な身代金を支払い、ついに父君であらせられる善良王ジャン二世陛下を開放なさることに成功しました。しかし陛下の身代わりに人質となるはずのルイ王子殿下が脱走したため、自らイングランドに戻り、一三六四年にロンドンで崩御なされます。
ジャン二世陛下の崩御をもって、二十六歳のシャルル王太子殿下が後を襲い、シャルル五世陛下となられました。
イングランドの黒太子が最も恐れた、フランス・ヴァロワ朝三代目・賢明王シャルル五世陛下が崩御なされたのは、一三八〇年、四十二歳のとき。二年前に王妃殿下を亡くされましたが、もともと虚弱体質の陛下には、それがよほど堪えて後を追う形となったと察するところです。
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それでは紳士・淑女の皆様、今宵の舞台はここまで。次回のご来場を団員ともども心よりお待ち申し上げております。
ノート20190802